小器用なところがあって、いろいろなことができてしまう。
内なる声にいわせれば、本当はどれもそれなりの努力の賜物であって、才能とは関係がない。小説を書いて、ピアノを弾いて、手慰み程度だが絵も描いて、朗読演出をやっている。
心ない人からはしばしば、痛烈な質問を浴びせられてきた。
「それであなたはなにが本業なんですか?」
「なにかひとつに絞れば大成するのに」
その質問の背景には、人はなにかひとつのことをやり貫いて全うすべし、という思想がある。日本人はとくにその考え方が好きな人種のように思える。そのために私は長く苦しんできた。
ひとりの人間のなかにはさまざまな顔がある。
ごく普通のサラリーマンでも、会社にいるときの顔、家庭にいるときの顔、家庭でも妻と接するときの顔、子どもと接するときの顔、子どものお母さん(妻だけど)と接するときの顔、町内会の行事に参加するときの顔、などなど。
おなじように、表現においても、文字を書く、絵を描く、音を奏でる、映像を写すなど、さまざまな顔を持っていて当然だろう。ひとつの顔に限定して自分を閉じこめることはないと思う。
水城ゆうという私は、いくつもの顔を持っている。それはまったく正直に自然なことだろうと思うのだ。
ありがたいことに、最近は「いろいろなことができるんですね」といわれることはあっても「なにが本業なんですか?」と訊かれることは少なくなってきた。
時代がそうしているのかもしれない。少なくとも私のまわりの人々は、ひとりの人間にひとつの価値観を閉じこめるような見方はしない。
比喩的ないいかたをすれば、私のなかには何人もの水城ゆうがいる。音楽を作る水城。演奏する水城。書く水城。描く水城。演出する水城。話す水城。料理する水城。生活する水城。
全部自分であり、自分のなかにひとつの人格が統合されているわけではない。複合人格としての私がある。
これはだれもがそうであり、自分が統一人格を持っているように思いこんでしまうと、そこからはずれた感情や行動が生まれたときに悩むことになる。そんな悩みは不要だ。
逆にいえば、自分が複数の人格の複合であることを自覚すれば、いろいろな可能性が見えてくる。
これまであれができない、これができない、と思いこんでいたことも、それが得意そうなある人格に任せてしまえば、楽にできるようになる。
たとえば英語が不得意でいまさら勉強も苦手だという人は、自分のなかから英語が好きな人格を召還すればいい。かならずそういう人格は中にいる。
子どものときに、アルファベットを覚えたり、ローマ字を書いたり、中学生になって英語を習いはじめたときに、だれもがわくわくした覚えがあるだろう。なにか新しいことを始めるときに感じたわくわくした感覚。あのときの人格を召還できれば、英語学習も楽しいものになる。
ある年齢に達してなにか新しいことを学ぶとき、億劫がっている人はいつまでも旧人格のなかにとどまっているだけだが、別人格を呼びだして学ぶことを楽しめる人は、おそらくいつまでも若い。