テキスト表現ゼミ(次世代作家養成塾)に来る人で、
「なにか書きたいけれど、なにを書いていいのかわからない」
という人がしばしばいる。
これを「よい傾向」ととらえよう。
というのは、
「自分はなにを書きたいのかはっきりしているけれど、その書き方がわからない」
といってやってくる人よりずっとおもしろいものが書ける可能性が高いからだ。
「なにを書きたいのかはっきりしている人」というのは、じつは自分のなかに「書きたいことがはっきりと形をもってあると思いこんでいる人」であることがしばしばだ。
論文や企画書やマニュアルといった「ある外形的機能」を目的としたテキストは別だが、小説や詩のように「自分を表現するため」のテキストは、あらかじめなにか書きたいことが用意されているわけではない。
なぜなら、いまこの瞬間の自分がなにを書きたいのか、自分自身ですらわからないというのが本当のところだから。
「表現作品」としてのテキストライティングにおいては、「自分がなにを書きたいのか」を探る作業が主要であり、その過程が表現行為そのものだといっていい。
もちろんその行為の結果として物質化されたテキストは「作品」となるわけだが、その作品に表現行為の名残り、つまり書き手の息づかい、手触り、存在感がないものは、製品としては整っているかもしれないが、表現物としては魅力にかけるといえるだろう。
表現者は「製品」や「商品」を作るわけではなく、「表現物」を作るのであり、もっといえば表現行為そのものが生きていることそのものなのだ。
それはそれとして、書きたいのになにを書いていいのかわからない、という状態は実際こまったことだろう。
そういうとき、どうすればいいか。
まずは思い浮かんだことば、フレーズ、文章、なんでもいいから、書きつけてみる(もちろんキーボードで打ってもいいのだが)。
たとえば「吾輩は猫である」というふうに。
そうしてそのテキストをながめていると、つぎのテキストが自動的に自分のなかから呼びだされてくる。
漱石の場合、それは「名前はまだない」というフレーズだったのだろう。
私の場合はどうだろう。
「人間でいえば百歳をこえている。」
これはたったいま、ふと浮かんできたことだ。
こうやって前のフレーズに呼びだされた文章を次々とつないでいくと、なにが起こるだろうか。
壮大な長編になるだろうか。
あるいは予想外な短編ができるだろうか。
それとも詩になるだろうか。
自分のなかからなにが出てくるのか、いまこの瞬間には自分ではわからない。
が、書いてみたとき、自分がなにを書きたかったのか、わかるのだ。
それは書いてみてはじめて確認できる。
すべては「いまここ」の、自分という肉体と精神の偶有性がなしとげてくれる。
それを楽しんで書けばいい。
もちろん、書きあがったとき、あるいは書いている途中で、「これはつまらない」と感じることもあるだろうし、客観的にみてクオリティが低いと判断できることもあるだろう。
そのときにはそれを捨て、またつぎの偶有性にむかっていけばいい。
ここでためらわず、惜しげもなく捨てられるかどうかが、テキスト表現者のクオリティを決定づけるといっていいだろう。
なに、心配することはない。
自分のなかから無限のことばが果てしなく生まれてくる。
これはだれもがそうで、例外はない。
私が保証しよう。
すべての人は自分のなかに宇宙を持っている。
※テキスト(文章/文字)を使った自己表現を研究するためのゼミナール、2014年2月の開催予定はこちら。