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2011年11月30日水曜日

世田谷生活工房「電気自動車でご飯を炊こう!」のご案内

げろきょがお世話になっている世田谷文化財団・生活工房の方からお知らせが届いたので、こちらでもご案内しておきます。

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今回は、突然で恐縮ですが
12月3日(土)に北沢タウンホールで実施する
「電気自動車でご飯を炊こう!」のご案内です。

生活工房ではこれまでも中学生を対象とした電気自動車組立教室を毎年開催してまいりました。
昨今、街には電気自動車が走りだしましたが
そのバッテリーに蓄電された電力は、
家庭内でも有効に活用することが可能です。

今回のイベントでは、
エネルギー問題に直面し、節電が叫ばれる今、
電気自動車と私たちの暮らしについて考えます。

当日は舞台上で、日本EVクラブさん製作による電気自動車を組み立てながら、講師が解説いたします。

直近のご案内で恐縮ではございますが、
ご興味ございましたら是非ご参加ください。
参加無料のイベントですので、ご家族、ご友人などにもお声掛け頂けると幸いです。

詳細は以下の通りです。

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◎開催日時
12月3日(土)14時〜16時30分

◎場所
北沢タウンホール

◎内容
・電気自動車の組み立て実演・解説
・(対談)日本EVクラブ代表 舘内端氏×JAF MATE編集長 鳥塚俊洋氏

◎申込
こちらのメールにご返信下さい。(参加無料です)

ホームページ

2011年11月29日火曜日

明日はアレクサンダー・テクニーク講座

不定期に突発的におこなっているげろきょのアレクサンダー・テクニーク講座。私の友人のケンちゃんが講師をやってくれています。
 明日30日の夜もあります。19時から。参加者が少ないので、興味がある方はぜひ。

 思えばこのケンちゃんのアレクサンダーからいまのげろきょのすべてが始まったような気がします。
 ケンちゃんは歌手の伊藤さやかが連れてきてくれたのです。伊藤さやかはオーディオブックリーダーの春日玲が連れてきました。
 最初はまだアレクサンダー・テクニークの公認インストラクターの資格を取りたてで、げろきょで定期的に講座を開いてくれてました。
 毎回の講座が終わってから、なんとなくお菓子を囲んでゆるいお茶会をやっていたんですが、数年前にケンちゃんは自分が受けているNVC(非暴力コミュニケーション)のトレーニングプログラムのことを紹介してくれるようになったのです。
 それが非常におもしろい内容で、私は大きな影響を受けました。とくに表現分野にNVCの考え方を適用できないかと考え、そして実行しました。その結果、げろきょが大きく変わっていき、いまのような大変おもしろい集団になってきたのです。
 ケン先生、さまさまです。

 そのケン先生が明日もアレクサンダー・テクニーク講座をやってくれます。
 アレクサンダーってなんだ、という人は、ぜひぐぐってみてください。そして興味がわいたら実際に受けてみることをおすすめします。
 一回や二回ではなかなかわからないかもしれません。しかし、日常生活や表現活動において非常に有用なものであることは、私が保証します。
 ケン先生のアレクサンダー・テクニーク講座の詳細は、こちら

朗読会「槐多朗読」レポート

2011年11月28日夜。明大前キッド・アイラック・ホール地下のブックカフェ〈槐多〉で、朗読会「槐多朗読」がおこなわれました。
 ここはホールのオーナーのこだわりの蔵書が興味深いブックカフェで、天井が高く、村山槐多の絵も飾られていて、とてもおもしろい空間です。
 客席は20席。カウンター席とテーブル席があります。そのうち2席を私が演奏機材のためにつぶしたので、定員18名。
 1か月くらい前に告知を始めたときは、お客さんが全然集まらずどうなることかと心配だったんですが、最終的には満席となりました。それどころか、予約をいただいてなかった人が3名くらいいらして、臨時の椅子を出したりしてかなりぎゅうぎゅうな感じのなかでライブがスタートしました。

 参加費がワンドリンク付きという設定だったので、ドリンクサービスが開始時間までに間に合わず、半分くらいの方はドリンクなしでスタートすることになりました。なので、中間のトークのときに、たっぷり時間をとって、全員にドリンクが行き渡るのを待ちました。しゃべることがなくなって困ったけれど。
 次にやるときは、ドリンクサービスの時間を入れこんだプログラムを作っておくといいかもしれません。

 前半は村山槐多の童話というか、奇妙な短編5連作を集めた「五つの童話」というテキスト。
 朗読の野々宮卯妙は入口の正反対の一番奥の本棚前に陣取ってます。私は入口脇の、カウンターの一番手前の部分にキーボードを置いて立ってます。
 ピアノがないので、楽器は持ちこみました。いつものKORGの61鍵のシンセと、MacBookAir、ミキサー、そしてBOSSのモバイルスピーカー。ひとりで持っていくにはけっこうな荷物です。これを羽根木から明大前までえっちらおっちら歩いて運んだのはかなりきつかったんですが、それよりきつかったのは、入り時間が開演40分前というあまり余裕がない時間になってしまったことです。
 行ったらいつもの早川さんが不在で、初対面の海野さんが対応してくれました。コンセントはどこだ、スピーカーはどこに置いたらいい? キーボードはカウンターの上に置いてもいい? ならんでいた瓶類を片付けてもらったり、使わないケースや鞄を片付けたりしていたら、もうお客さんが来てしまいました。開演まで30分を切っていました。
 初めての場所では音響がわからないのと、ピアノではなく電子楽器オンリーだったので、じっくりと音出しをしたかったんですが、それもままならず、お客さんもどんどん入ってきて、あっという間に開演時間をすぎてしまいました。
 心の余裕がまったくないまま、スタート。私にはとても珍しいことです。自分のニーズを大切にしないとこういう目にあいます。それはお客さんに対しても申し訳ないことです。
 が、野々宮はいつものように軽快に読みはじめたので、私は半分も集中できていなかったんですが、お客さんは朗読に集中してくれているようでした。

 もうひとつ、私には集中できない原因がありました。
 それは〈槐多〉のダクトの音でした。空調も換気扇も切ってもらったんですが、ホール全体の空調の音がダクトからどうしても聞こえてきて、それがかなり気になったのです。後半は「沈黙の朗読」のシリーズとして構成したテキストでしたが、静穏な環境とはいえなかったことが気になりました。
 とはいえ、こういう環境的な制約はよくあることです。そもそもピアノがないということも、私には大きな制約です。こういった逆風にどのように対処していくのか、今後の課題ですね。

 後半は「沈黙の朗読」シリーズのひとつと自分では考えている「金色と紫色との循環せる眼」という、槐多のテキストを構成し、私のオリジナルテキストも混ぜた作品です。
 後半はだいぶ私も集中できるようになってきていて、しかし音響感覚はまったく不安で、ダクトの音も気になって完全な集中というわけにはいかなかったんですが、最後はお客さんとなにかを共有できた感覚がありました。
 おいでいただいた皆さんには心から感謝します。

「沈黙の朗読」の後はいつもそうなるんですが、なんだか呆然としてだれも言葉も出ないような、脳みその言語領域ではなくもっと深いところ、身体につながっているところでなにかがうごめいているような感覚になったんじゃないかと思います。
 しかし、何分後かには皆さんも言語領域にもどってきて、楽しいおしゃべり。
 開演時には戻ってきた早川さんも「よかった」といってくれ、たちまち第2回の「槐多朗読」が決まりました。
 2012年2月20日、なんと村山槐多の命日だというその日にやります。今回のようなことがありますので、みなさん、どうぞ予約はお早めにお願いします。18名限定です。
 次回は私も余裕をもって準備して、マインドフルに臨みたいと思います。どうぞお楽しみに。

予測不能のライブワークショップ第8期スタート

「朗読はライブだ!」というワークショップを開催しています。全6回のワークショップを通じてライブ発表のための準備をして、最終回にちゃんとお客さんを呼んでライブをやってしまおう、というものです。今週末の土曜日から、その第9期がスタートします。
 ということは、これまで8期やってきたということになります。つまり、ライブワークショップのライブをこれまで8回おこなった、ということです。
 振り返ればどれも思い出深いライブばかりです。
 参加者はライブ未経験の人が多いのです。それどころか、朗読そのものも初体験という人もたくさんいます。そういった人たちが現代朗読を学び、たった6回のワークショップでライブ発表をする。毎回、驚くようなことが起きます。
なにが起こるかは私にも予測できません。でも、いつもなにか感動的なことが起こります。
 現代朗読では、なにか立派なものを作り上げたり、たくらんだり、準備したり、といったことはしません。ワークショップで学んでもらうのは、私たちが無意識に身につけてしまっている癖とか習慣とか、あるいは固定化された思考パターンを「やめていく」ことです。私たちが私たち自身に立ちもどり、ひと前でなにかを表現するとき、予測できないおもしろいことが発表する者と観客の間に起こるのです。

2011年11月28日月曜日

ボイスセラピスト講座の半分はコミュニケーション法

初めての2級ボイスセラピスト講座が終わりました。大変楽しくやらせていただきました。今回の講座で6名の2級ボイスセラピストが誕生しました。
 ボイスセラピストは、呼吸と声を使って心身の不調を整えていく技術を知っている人のことです。だれかに施術することもできますし、なにより自分自身を調整できます。
 講座でもお互いに施術の練習をしあううちに、どんどんリフレッシュしていくようでした。内容は理論面など難しいこともあるまじめな講座だったんですが、なぜか笑い声のたえない楽しい時間でした。
 というのは、このボイスセラピスト講座にはもうひとつ特徴があって、コミュニケーション法を身につけてもらうことが重要だからです。セラピストは自分の技術を使って人に「なにかをやってあげる」という意識を持つことはしません。すくなくとも私はそう思っています。相手から「こうしたい」という自主的な気持ちを引きだすために、まずは純真に相手の問題と向き合う好奇心と観察力が必要になります。
 NVCの手法も取りいれたセラピストのためのコミュニケーション法が、この講座の半分のウェイトを占めていたのでした。みなさんも私も、最後はとても希望に満ちた気持ちで終わることができました。
 次回2級ボイスセラピスト講座は、1月15日の予定です。

2011年11月27日日曜日

2級ボイスセラピスト講座、終了

今日は朝から「2級ボイスセラピスト講座」でした。
 これが初めての開催で、内容や教材について実践で確認したいというのもあって、あまり大々的に対外的には告知しませんでした。しかし、げろきょのゼミ生たちが6名付き合ってくれて、大変充実した内容で進めることができました。
 そして、ゼミ生たちが相手ということもあったのかもしれませんが、大変楽しかったのです。
 私としては、ボイスセラピー(音読ケア/音読療法)についての長年の考えや、これを普及するための講座内容についてしっかりと確認させてもらったのと、セラピストにとって重要なクライアントとのコミュニケーションにおいて応用できるNVCの方法を伝えながら実践できた、ということが大変大きな収穫でした。
 NVCについては、ホルヘとの一週間の一連のセッションが私に眼を開かせてくれて、これまでいまいちフィットしなかったNVCの語法がしっくりと自分のなかにはいってきた感じがしています。自分の言葉と自分のフィーリングで、違和感なくNVCの言語を使えることに近づいたような気がします。まだまだ練習は必要だとは思いますが。
 ボイスセラピストにも、このような共感的言語を使ってもらえたらいいなあと思います。

 いずれにしても、今日の講座では、参加者全員がさまざまな発見があったようで、なによりまず自分自身を癒すことからスタートしたいということで、共通の認識があったようです。そして、それぞれがとても深いクオリティのつながりを持てたことも、私にはうれしかったです。
 笑いあり、涙ありの今日の講座、もう一度いいますが、とても楽しかったのです。
 げろきょのゼミ生の多くがボイスセラピストになってくれたらいいなあ、なんて思いました。

 年が明けたら、第2回の2級ボイスセラピスト講座、そして第1回の1級ボイスセラピスト講座を開催する予定です。
 とりあえず、2回めの2級ボイスセラピスト講座は、1月22日(日)の開催です。

北陸の実家、小牧、東京、朗読ゼミ、テキストゼミ

NVC国際公認トレーナー、ホルヘ・ルビオによるワークショップの翌日、私は北陸の実家に帰省しました。
 東京は晴れていい天気だったのに、小松は強風と雷光の荒れた天気。左右にあおられながら不安定な着陸で、ひさしぶりに肝を冷やしました。ま、無事でしたが。これからの北陸の冬は、雪による運行中止や荒天など、予定どおりにはいかないことが起きそうで、覚悟が必要です。

実家では冬支度をいくらかやって(雪囲いの修理とか枝を払った後始末とか)、翌日は電車で移動。名古屋経由、小牧へ。
 こまきみらい塾の現代朗読講座4回めでした。
 これまでこの講座では、40名の参加者という大人数に対応するため、グループワークがほとんどだったのですが、今回はなるべくひとりひとりとコミュニケートしたいと思って、ひとりずつ順番に話してもらうことにしました。質問、感想、参加した理由など、さまざまな声をひとりずつ丁寧に聞かせてもらい、それに応えていくことで、これまでとはまた質の異なるつながりの深い講座になったような気がします。とても充実した、楽しい時間でした。

名古屋に戻って、投宿。
 翌日は東京戻り。午後は朗読ゼミ。
 参加者が少なかったので、羽根木の家の掘りごたつでまったりと。とはいっても、7人くらいはひとつのこたつに足を突っ込んで、肩を寄せ合っていたわけですが。それが理由かもしれませんが、とても親密で共感的な話と朗読の聞き合いができて、暖かい気分になりました。

 夜はテキスト表現ゼミ。
 こちらもまたもや、掘りごたつゼミ。参加者が昼より多くなったので、さらに窮屈で親密になりました。
 今回はライティングテーマが「偏頭痛」でした。これまで、参加者全員の作品をプリントアウトして全員に配り、それを見ながら読み合わせをしていたんですが、今回からプリントアウトは本人作品のみにして、ほかの人は私も含めて耳で聞くようにしました。そのことが、「いまここ」の集中力を高めることは確かなのです。真剣に聞き、真剣に感じたことを受け止めて、それを表現しあいます。
 このテキストゼミも含め、この日一日、私は自分自身の「いまここ」を大切にできた、とても充実した一日のような感じがしました。毎日このようにすごしていけたら、悔いのない生き方となるに違いありません。

2011年11月26日土曜日

コンテンポラリーアートとしての「槐多朗読」

京王線明大前にキッド・アイラック・ホールという東京でも老舗といっていい小劇場があります。演劇、音楽、朗読、美術、いろいろな文化的な催しが連日行なわれています。私が住んでいる羽根木からは歩いて行ける距離なので、いつかここで現代朗読のイベントをやれるといいなあと思っているんですが、私たちは集客力に自信がないので、いまのところは指をくわえて見ています。
 このホールの地下に〈槐多〉というブックカフェがあります。ゼミ生のなおさんがいつもここに現代朗読イベントのチラシなどを置きに行ってくれていたんですが、あるとき、ブックカフェのほうで朗読をやらない? という素敵な提案をカフェの方からいただきました。もちろん、やりますとも!
 というわけで、次の月曜日・28日の夜、ブックカフェ〈槐多〉で朗読会「槐多朗読」をやります。
 定員は18名ととても限定的なんですが、まだ席はあります。どうぞお申し込みください。直接「090-9962-0848」こちらまで電話ください。
 カフェは高い天井と本棚にこだわりの本が並んだとてもおもしろい空間です。そこでコンテンポラリーアートとしての現代朗読をおこないます。空間とパフォーマンスを楽しみにいらしてください。ドリンク付きで1,500円です。

2011年11月25日金曜日

二級ボイスセラピスト講座が開催されます

ボイスセラピストの二級資格を認定するための講座が、次の日曜日(27日)にあります。これは、本格的に音読ケアワーカーとして自立をめざすほかに、ちょっと家庭や職場、あるいは自分自身の心身ケアのために有効なボイスセラピーの方法を身につけておきたい、というような人におすすめです。
 いうまでもなく現代人は多くのストレスにさらされて生活しています。そのストレスは心身の不調となって現われます。それを「解消する」「注意をそらす」のではなく、どうやって「付き合っていく」のか、その扱い方に上達する方法のひとつがボイスセラピーです。
 ストレスを受けると、怒り、悲しみ、後悔、さまざまな感情に身体を含めて支配されてしまいます。その感情を消したり、注意をそらすのではなく、まずは完全に受け止めて自分がどのような状態にあるのかを認めます。自分のなかにどのような感情が生まれているのか、それはどこから来たのか、を認識するのです。これを「メタ認知」といいます。これができるだけでも人は随分落ち着きを取り戻します。
 このプロセスを、自分の呼吸と声を使って行なうのがボイスセラピーです。
 一日で終わる講座ですので、気楽にご参加ください。詳細はこちら

2011年11月24日木曜日

日本の語り芸の伝統の延長線上に現代朗読を置く

いま、日本で普通におこなわれている朗読会や朗読ライブを見ると、たいていは朗読の教室や勉強グループの人たちが発表する形で行なわれているものが多いようです。たまにひとりで企画したり、同好の士が集まって開いたりするものもあるようです。いずれにしても、出演する人はなんらかの形で朗読を「習った」あるいは「勉強した」人が多いようです。我流で始めて、人のことなんか我関せずとオリジナリティを打ち出して突っ走っている人もなかにはいるんでしょうが、私はあまり見かけたことはありません。
 では、その朗読を「習う/勉強する」というのは、なにを「習う/勉強する」ということなのでしょうか。

 私は朗読教室に行ったことはありませんが(なにしろ自分では朗読をやったことがないので)、聞いたところでは、日本語の「正しい」発音発声をまず教わるそうです。つまり、正しい母音や子音の発音や滑舌、共通語アクセント、鼻濁音、無声化などの技術を習います。
 ほかにも呼吸や姿勢をやったり、文芸作品の読解をやったりもするようですが、基本的におこなっているのは「放送技術」の習得といっていいようです。
 この放送技術はどこから来たものなのかというと、言葉どおり、ラジオやテレビの放送が始まったとき、その放送の現場から始まったものです。大正から昭和にかけて、まずラジオが普及しました。戦後、昭和30年代に今度はテレビが全国に普及しました。放送メディアというものが出現したわけですが、それにともなってアナウンサーやナレーター、声優といった、放送に関わる専門職も発生しました。
 全国津々浦々に電波が届くわけですから、話の内容が全国の人に伝わらなければなりません。そのために、放送のための話し方「放送技術」が生まれ、工夫され、現在にいたっているわけです。
 ラジオでは朗読も流れ、それは彼ら専門職が中心となってやがて朗読会も開かれるようになりました。それを聞いた一般人も、自分も朗読をやりたいと思い、彼らに習うようになっていきます。朗読を習いたいという需要が、朗読講座や教室の需要を生み、放送局の朗読指導講座やカルチャーセンター、ナレーター事務所の養成所といったところでも、日本語の話し方・朗読の技術の教育がおこなわれるようになりました。
 これが現在の朗読の普及のありかたです。
 こうやって見てくるとわかるように、いまの日本で一般的におこなわれている朗読は、放送技術をもっとも大きなよりどころとしています。「表現」としての朗読について深く思考/試行されているわけではありません。

 一方で、日本ではいにしえから豊かな「語り」の芸が脈々と引き継がれています。もっとも古くは「語り部」でしょう。一家のおばあちゃんが語っていたものから、専門職までさまざまな語り部がいたことでしょう。
 平安時代には琵琶を演奏しながら朗々と語る(うたう)琵琶語りが各地をめぐりました。
 それから能や狂言が生まれました。これは舞台表現の始まりです。私が「舞台」といっているのは、表現のための設置する「場」のことです。かならずしも文字通りの「舞台」がなければならないわけではありません。
 その後、浄瑠璃・文楽が生まれました。そこには専門的な語り手がいます。また江戸時代には、演劇に近いものですが、やはり声も使う舞台表現といっていい歌舞伎が生まれました。落語や講談も江戸時代に生まれました。
このように、「語り芸」の歴史が日本にはあるのです。
 朗読はこの語り芸の流れの延長線上にあるといえるでしょうか。
 私はいえないと考えています。朗読は放送メディアが生まれたことによって突然出現した「技術」です。技術的な面から「表現」へのアプローチは確かにあります。文芸作品を深く読みこんで、なんとか「表現」へと高めようと努力している人は多くいます。が、私はこの「放送技術」を出発点とした一般的な朗読にはどうしてもなじめないのです。

 では、現代朗読はなにをよりどころとしているのでしょうか。
 現代朗読では「表現」が前提としてまずあります。しかもその「表現」は、多くのコンテンポラリーアートがそうであるように、個人の唯一無二の存在そのものを伝えることを目的にします。技術もやらないことはありませんが、技術はあくまで表現に付随するものであり、下位レベルです。
 表現といえば、日本には古来から「語り芸」という表現の立派な歴史があります。現代朗読も、実はこの伝統から学ぶべきものを学び、この語り芸の延長線上に朗読表現を起きたいと思っています。しかし、あくまで「現代」の「いまここ」に焦点をあてた表現ですから、伝統技能を学ぶということではありません。日本が長らくつちかってきた表現の思想、そして身体使いの方法を学びながら、なおかつコンテンポラリーでなにものにもとらわれない表現を模索しようというのです。
 こう考えることで、私のなかで違和感がすっきりと解消しました。いま、現代朗読が向かうべき方向性がはっきりしたと感じています。

秘密のNVCコマンドー

コロンビアから来たNVCトレーナーのホルヘ・ルビオによるワークショップが、昨日終わりました。約一週間の日本滞在の最後のセッションでした。私は昨日も含め、すべてのセッションに参加したほか、丸一日、彼と東京観光を楽しみました。とても濃密で、大切で、学びの多い特別な一週間でした。そしてこの一週間はなにかが終了したのではなく、なにかが始まる一週間になるような気がしています。
 今日のワークショップでホルヘはおもしろい言葉をいいました。
「The Secret Empathic Commnado」
 極秘共感的部隊とでもいいましょうか。
 NVCを学んできた、と親しい人にいうと、なにか変な自己啓発セミナーみたいなものを受けてきたんじゃないかと警戒されることがあります。そして私が口を開くたびに、怪しいワザを使っていいたくもない秘密を暴かれるんじゃないか、と。
 NVCに違和感を感じ、意識的に距離を置いていた私にも、そういう時期がありました。しかし、なにもわざわざNVCという言葉を教える必要はないのです。ただ実践すればいい。それを生きればいい。なにもいわずに。秘密にしておいたっていい。極秘のコマンドーとして行動すればいい。
 秘密のNVCコマンドーが世の中に増えれば、どれほどたくさんの存在が尊重されることでしょうね。

2011年11月23日水曜日

自分自身の面倒をきちんと見る

なんとなくここ数日間で生まれ変わったような感じがしています。もちろん、NVCトレーナーのホルヘ・ルビオとのセッションのおかげです。
 自分が自分を否定してきたこと、他人を否定的に見ていたこと、エネミー・イメージを持っていたこと、そういったことが全部クリアになって、すべては人生や生命が本来あるべきニュートラルな土俵があらためて見えてきたような気がしています。
 もちろん人生には限りがあって、私もかなり長く生きてきましたから時間が余りあるわけではありませんが、たったいま、ここにいる私が、クリアな状態でいられることに感謝したいです。この感謝は、次世代へと具体的に伝えていきたいというのが、私の望みのひとつです。
 欲張りなので、もちろん望みはそのひとつだけではありません。些細なことから大きなことまでいろいろあります。書きたい、描きたい、奏でたい、作りたい、たくさんあります。いずれにしても「いまここ」の私の意識、ホルヘのいう「Vivencia」。
 人はきちんと自分自身の面倒をみることが大切です。それができていないと、いろいろなことのクオリティが低下してしまいます。一度きりの人生、大切に、丁寧に生きてみたいですね。

2011年11月22日火曜日

NVCの実践でもマインドフルネスがキーワードだった

ちょくちょくと書きましたが、先週の金曜日からNVC(Nonviolent Communicatio / 非暴力コミュニケーション)の合宿が始まって、明日のワークショップで一連のイベントの最終となります。
 私がNVCのイベントにここまでべったりと関わったのは初めてのことです。
 今回、招いた国際公認インストラクターは、コロンビア人のホルヘ・ルビオ。私に最初にNVCを教えてくれて、以来ずっとプライベートにリードしてくれている友人のケンちゃんの推薦で、日本でも招聘チームが作られ、私もその端っこに加えてもらっていたのです。

 ホルヘの教えるNVCは、これまでのどのトレーナーとも異なっています。
 もちろんこれまでのトレーナーはいずれもすばらしい人たちで、だれひとりとして忘れることができません。が、ホルヘは「私にとって」特別な感じがします。うまく文字で書くのは難しいんですが、一種の相性といってもいいかもしれません。曖昧な言葉なのであまり使いたくないんですが。
 NVCについては勉強をつづけてきたし、人にも勧めたり、また現代朗読協会の活動やゼミで実践したりもしていたんですが、どうとははっきりいえない違和感が身体の片隅にずっとわだかまっていて、居心地の悪さを感じていました。それが今回のホルヘとのセッションでじつにすっきりと取り払われたような気がします。それは、私がNVCとは関係なく考えたりいいつづけてきたことが、ホルヘのNVCのなかにとても似た形ではいっていることを発見してうれしかった、ということもあります。
「なんだ、とても似たようなことをやっていたんだ」
 という喜びもあります。

ホルヘは Vivencia という言葉を強調します。これは訳するのが難しいんですが、私たちが「いまここ」でなにを経験し、どう感じ、どのような生きていることの感触(クオリア?)を持っているか、ということについての意識のことです。
 これはまさに「マインドフルネス」の状態のときに起こる「メタ認知」にほかならないと私は思っています。これが起こるとき、私たちはものごとや感情に対するさまざまな執着からのがれ、感覚のシフトを経験します。
 ホルヘは怒りや悲しみ、妬み、寂しさ、といった、私たちが通常「よくない」と思っている感情にも居場所を与えようとします。だれかに対して強い怒りを覚えたとき、その怒りを存分にふくらませるスペースを自分のなかにあたえ、メロドラマじみた怒りのドラマを自分のなかで作らせます。
 自分のなかにスペースを作ることを「puff up」と表現していました。そしてその自分の状態を「puffer fish(ふぐ)」にたとえ、とてもコミカルに仕草で表現してくれるのです。その姿が私の脳裏に染みつき、「puff up」の具体的なイメージが私のなかに浸透したのでした。
 だれかに対して共感的になれずにいる自分を発見したとき、ついその自分を否定しがちです。そして「共感的にならなければ」と自分に強います。が、そのとき、「共感的になりたくない自分」を押し殺してしまうことになるのです。自分の一方をないがしろにすることで、自分の命の半分を殺してしまいます。
 そうではなく、「共感的になりたい自分」も「共感的になりたくない自分」も Vivencia として認め、そこに存分に活躍のスペースを与えてやる。そのあとで、ゆっくりと呼吸をし、落ち着いてものごとに対処する。
 怒りの感情を自分のなかで暴れさせ、自分で自分の感情に共感を与えたあとは、とくにだれかにあらためて共感してもらわなくても落ち着けるのです。そのテクニックをホルヘは教えてくれました。

というような堅苦しい話とは別に、昨日はホルヘが一日なにも予定がない、アテンドできる人もいない、ということで、私がアテンド役を買って出て、大変楽しい一日を彼とすごしてきました。
 午前中に渋谷のホテルまでホルヘを迎えに行きました。最初に彼の目的地であった赤羽のお茶店に行こうとしたんですが、念のために調べてみたら、なんと今日と明日は臨時休業とのことでした。
 予定を繰り上げて、浅草へ。
 浅草ではホルヘが大変喜んでくれて(初来日だったのでまあそうでしょうね)、おみやげを大量に買いこんでいるのにはちょっと心配するほどびっくり。
 ツイッターで「浅草なう」とつぶやいたら、すぐにホルヘ招聘チームの久美子さんが応えてくれて、休養日だったにもかかわらず夫の陣さんと駆けつけてくれました。浅草に詳しい久美子さんのおかげで、おいしい昼食とお茶屋に案内してもらって、ホルヘも大満足。
 久美子さんたちと別れて、秋葉原へ。パチンコ屋に連れこんでびっくりさせたり、プリクラを撮って遊んだりしていたら、もう夕方。ぐるっと渋谷にもどり、焼き鳥屋でビールと焼き鳥。
 一杯やったあと、ホテルまで送って、解散。子どもにもどったみたいに楽しい一日でした。

 明日は茗荷谷で最後のワークショップが一日あります。
 あいにく、50名の定員はすでに一杯であらたに参加をすすめることはできないんですが、招聘チームの一員としてみなさんのサポートができることに期待をふくらまらせています。
 明日も私が私とともにいられる一日でありますように。つまりはマインドフルにいられる、ということですが。

朗読の記事・中国新聞

中国地方に住む私の友人・よねらさんが、ブログに興味深い新聞記事を紹介してました。
「注目浴びる朗読」
「文学の「生命力」声で解放」
「小説の「音楽性」」
 といった小見出しがついてます。
 いつも私がいっていることと重複する部分は多いんですが、朗読が注目を浴びているというのはほんとかな、と半信半疑ですが。
 よねらさんのブログ記事はこちら

 あ、そうそう。
 来週28日(月)の「槐多朗読」には、皆さんぜひ来てくださいよ。一般的な朗読とはまた違った内容になるはずです。演出・音楽の私としては「沈黙の朗読」の系列として位置づけているコンテンポラリー朗読のつもりです。
 くわしくはこちら

クレイジー東京観光の一日

エキサイティングな二日間のNVC合宿のあとは、トレーナーのホルヘ・ルビオと東京観光の一日でした。
 スタッフのだれもホルヘのアテンドをできる者がいないようだったので、名乗り出て彼を観光に連れ出したのです。コスタリカに一年留学していたことがある某女子大生も同行。というのも、ホルヘはコロンビア人なので、母国語がコスタリカとおなじスペイン語なのです。NVC合宿では英語を使いますが。
 私はスペイン語ができないし、英語も話すほうはからきしダメなので、彼女がいてくれて大助かり。
 定番の浅草と秋葉原に行きました。ガイジンの眼になっておもしろそうなところを案内。浅草ではNVCをいっしょに勉強している仲間の久美子さん夫妻も駆けつけてくれ、おいしい店や、ホルヘの大好きな日本茶の店に案内することができました。
 おもしろかったのは、秋葉原で通りがかって「パチンコってなに?」と聞かれたので、百聞は一見にしかずと店内に連れこんだら、それはまあびっくりすること。大音量と、人々が台に向かって目を血走らせている光景。あらためて見ると、日本人ってクレイジーな面も多分にありますね。
 でも、日本に生まれ、日本に住んでいる幸せがあります。なかなか認識しにくいですが。ホルヘはよほど気にいってくれたらしく「帰りたくない」を連発してました。

2011年11月21日月曜日

大波でサーフィンを楽しむように生きよう

エキサイティングなNVC(非暴力コミュニケーション)合宿の二日間が終わりました。
 にわかにいいつくせないほど多くの学びがあった二日間でしたが、そのなかでもとくに深く心に刻まれたことがあります。それは「人に共感的であらねばならない」と自分が思ってそうふるまっているとき、共感的でありたくない気分の自分を抑え付けてしまっているこということです。そのことのストレスが生まれます。「共感したい」にせよ、「いまはめんどくさいので共感したくない」にせよ、いずれも自分の内側から来ている大きなメッセージであり、それをまず自分が受け取ることが出発点だと、今回のトレーナーのホルヘはいうのです。
 怒りや悲しみ、平和を乱すもの、暴力といった、私たちが否定的にとらえているものすら強い命のメッセージから来ているので、それをスペースをもって受けいれることから出発したい。
 この二日間で受け取ったことは、とてもにわかに消化しきれるものではないですが、それがゆっくりと私の身体のなかに浸透していく時間を楽しみたいと思っています。
 ホルヘ・ルビオのセッションは自由で、気ままで、なにも決まりごとがなく、どこへ向かうのかまるでわからず、しかし瞬間瞬間に驚くようなことが起こり、まさにライブでした。私の友人のケンが、私をホルヘに会わせたいといってくれたときから、半信半疑でこのときを待っていましたが、想像以上のことが起こったことをケンとホルヘに心から感謝します。

2011年11月20日日曜日

いい人であろうとすることの代償は高い

NVC合宿の一日めが終わりました。お昼すぎから始まって、夜までみっちりとトレーナーのホルヘ・ルビオとの学びの時間。時間がゆっくりと、しかし濃密に流れていきます。
 一日めの学びで私にとってもっとも印象的だったのは、「他人に対していい人であろうとすることの代償は高くつく」という言葉でした。私にも心当たりが大いにありますが、なにか人から頼まれごとをする、あるいは悲しんでいる人や困っている人を見たとき、自分のニーズを棚にあげて「いい人」になろうとする習癖があります。それはおそらく、自分を他人の尺度のなかで「よい評価」を得ようとする習慣的な行動でしょう。
 私たちはだれかの期待に応えようとする習性を身につけて成長してきたのです。それは親であり、教師であったかもしれません。
 その期待に応えようとする行為が、自分のニーズにつながっていないとき、私たちはいずれ代償を払うことになります。それは相手についてもおなじことです。ある行動が自分のニーズにつながっていないとき、「ノー」といえる勇気を持つこと。結果的にそれが自分と相手の尊重になるということ。
 ほかにも「木と風のエチュード」という、とても温かで創造的な、そして言葉を使わないコミュニケーションのエチュードがあって、とても楽しかったので、これは現代朗読のエチュードとしてもお借りしようと思いました。

2011年11月19日土曜日

われ、5キロダイエットに成功せり

3月の震災を契機に体重が増えつづけ、気がついたら5月には65キロになっていました。かつて経験したことのない重量です。当然ながら身体は重く、動きも鈍い。
 その前の2月には気管支炎から肺炎になりかけるほど体調をくずし、一時57キロ台まで落ちていたので、8キロ近い急激な増加です。身体にいいはずがない。
 というわけで、体重を絞ることにしました。それが5月のこと。
 もともと私は学生時代、体重が50キロそこそこしかなかったんですが、その後じわじわと増えていって、40歳以降は60キロ前後でほぼ安定してました。したがって、今回もせめて60キロまでは落としたい。できれば、筋肉量を増えしながら、それを上回って脂肪を落としたい。

 ダイエットの方法はシンプルで簡単なもの。

(1) 毎日体重を計ってグラフにつける。
(2) 夜は食べない。もし食べるなら極力糖質は取らない。
(3) なるべく歩いたり、運動する。

 これだけです。
 (2)のところで「えー」という人が多いんですが、慣れればどうってことないです。人間はもともと一日二食だったのです。それが産業革命以後、三食以上食べてカロリーをたくさん摂取し、馬車馬のように働くことを資本家から強要されるようになったのが、現代社会習慣としていまだに続いているだけですから。
 慣れると、お腹になにか入っていると気持ち悪くて寝られないようになります。お腹をからっぽにして眠りにつき、翌日中にしっかり食べる。
 (3)が一番実行が難しかったですね。いまだになかなか運動量を増やせていません。5キロ落としたのは全部脂肪分です。今後の目標は、筋肉量を増やして同時に脂肪を落としていくことです。ほとんど家にいて、パソコンに向かっている生活なので、意識的に運動しないとなかなか運動量は増えません。だからプールに通っているんですが、これも週に二回くらいが限度です。それでもやらないよりはましです。

 この半年くらいの間、自分へのプレッシャーとして「ラーメン断ち」を決行しました。
 私は毎日ラーメンでもいいくらいラーメン好きなんですが、体重が60キロを切るまではラーメンを口にしないと決めたのです。
 それが昨日、ようやく60キロを切ったので、今日の昼、ラーメンを食べてきました。ささやかなお祝いです。ひとりで孤独に、でしたが。
 今後も「60キロを切っていないときはラーメンを食べられないルール」を自分に適用しつづけるつもりです。

コミュニケーションの目的は静けさの質と奥行き

NVC(非暴力コミュニケーション)のトレーナーであり、コロンビア人のホルヘ・ルビオによる集中ワークショップが始まりました。
 おもしろすぎる。私にとってしっくり来る言葉がたくさんあって、わくわくします。
 たとえば、
「コミュニケーションの目的は静けさ。静かさの質と奥行きが大切。おたがいになにもいわなくてもいい状況を作るために、言葉を使う」
 というようなことをいうわけです。これ、普通はなかなか意味がわかりませんよね。でも、ホルヘのセッションを受けながらこれをいわれると、すとーんと来るんです。とくに日本人的資質に触れるものが多くあるような気がします。
 NVCトレーナーのセッションは、これまでもどれもすばらしいものでした。いずれも心に深く残っています。ホルヘのものもおそらくそうなることでしょう。
 現代朗読協会はNVCの理念を実践しながら運営されていますし、現代朗読という表現もNVCととても親和性が高いものです。げんに私は「沈黙の朗読」という朗読パフォーマンスのシリーズを作っていますが、まさに芸術表現が非暴力とつながっているありさまを具現化したいと思ってやっているものです。
 私が学んだことを、今後いくらかでも皆さんと共有できれば、こんなにうれしいことはありません。

2011年11月18日金曜日

プール、ラーメン、NVCのホルヘ・ルビオ

震災後に5キロも増量してしまった体重を、半年かけてようやく減量に成功。継続的に体重を維持しつつ、しかしもう少し筋肉量を増やして基礎代謝をあげ、脂肪を減らしたいので、せっせと運動をしようと思っています。なので、油断せずにさっそくプールに行って泳いできました。
 ひさしぶりだったにもかかわらず、意外に距離を稼ぐことができました。小牧、名古屋や実家との往復、東北ツアーなど、このところ移動が多く、身体を動かす機会が多かったからかもしれません。
 調子に乗って、半年以上「断って」いたラーメンを、自分に許可しました。

 とりあえず近場で、東松原の〈哲麺〉へ。豚骨醤油味で。
 いやー、おいしかったなあ。日常的に食べているとこれほど感動することはないんでしょうね。たまに食べるから、おいしいものもおいしいんでしょう。おいしいものに感動したいなら、平素は質素な食事をすべし、ということかも。

夜はNVCのトレーナーでコロンビア人のホルヘ・ルビオが来ました。ケンちゃんが彼の招聘をプッシュしていて、はるのさんを中心に招聘のためのチームを作って準備していたのです。それがついに実現したというわけです。今夜はそのコアメンバーとホルヘとの顔合わせ的なセッションでした。
 ケンちゃんから聞いてはいましたが、ホルヘは本当にNVCの深いレベルを見せてくれるトレーナーで、しかも自分の言葉で語ってくれるので、私にはとても腑に落ちることが多かったです。彼の語るNVCのストーリーは、私のニーズにつながる美しさを感じました。音楽的であり、沈黙を大切にするコミュニケーションです。これは日本人の資質にもまっすぐにつながるものだと思いました。
 明日と明後日は羽根木の家で合宿がおこなわれます。また、来週の月曜日から水曜日までワークショップがみっちりと開催されます。この学びの機会がとても楽しみです。

音楽としての朗読

はじめにことばありき。ことばがあるところにはうたが生まれる。
 といいますが、実はことばより先にうたがあったのかもしれません。鳥など動物にはことばはありませんが、うたはあります。もっとも彼らがそれをうたと認識しているかどうかはわかりませんが。
 それはともかく、ヒトの声帯は音を発するだけでなく、その音の音程を筋肉の働きによって変化させることもできます。そのことによって、言葉にメロディをつけることができるのです。そうやってヒトは原初のころからうたを歌っていたんでしょう。
 その後、文明が興り道具が発達すると、楽器が生まれ、メロディやリズムを奏でるようになります。ギリシャ・ローマ時代、インダス文明、古代中国の文明で音楽が奏でられていたことは確かです。
 いま私たちがよく聴いたり歌ったりしている音楽は、どこにルーツがあるのでしょうか。ごくおおづかみでいえば、歌謡曲、フォークソング、J-POP、ロックなどの大衆音楽は、リズムと和声の上にうたを始めとするメロディラインが乗った形式です。この形式の音楽が生まれたのは、ヨーロッバのクラシック音楽の古典派と呼ばれる時代です。作曲家でいえばモーツァルトやベートーベンの時代です。
 それまで音楽は、和声ではなく、旋律が主役でした。中世の宗教音楽はほとんどが単旋律で、聖書などの言葉をある音階の規則にのっとって歌われていました。グレゴリオ聖歌がその代表です。

 その後、ルネッサンスを経て音楽は複雑で華やかになっていきます。宗教のくびきから解放され、人間の楽しみのためのものになります。いくつかの旋律を組み合わせて壮大なハーモニーを作りだすようになりました。楽器の種類も爆発的に増えました。対位法という作曲法が生まれ、バロック音楽が花開きます。
 しかし、このように旋律がいくつも交錯した曲は、主旋律の強さが失われます。うたが曲のなかで埋もれがちなのです。そこで、旋律と和声が役割を分担する方式が生まれました。モーツアルトのピアノ曲などを聴けばわかりますが、左手が和音(分散和音のこともあります)、右手が旋律を奏でる構造になっています。
 オーケストラのような壮大なサウンドでも、オーケストラ全体で和声を構成し、旋律のパートが独立している、という構造を持つようになりました。
 現代の大衆曲も、基本的にこれとおなじ構造です。現代ポップスはこれにリズムやベースラインが加わって強調され、よりダンサブルに、より刺激的になっただけです。

 先日、あるライブカフェでギターとボーカルというふたり組のライブを聴いていました。歌はとても静かでナチュラル。まるで語りかたるように、ボサノバとかシャンソンのような歌いかたです。ギターはコードを控えめに進行させて伴奏に徹しています。
 そのときふと、歌手が歌っている歌詞、つまりことばが、メロディラインに拘束されているように感じたのです。もしメロディラインの拘束から解放されたら、ことばはより自由にならないだろうか。
 いや、しかし、そういう音楽はすでにあるではないか。ラップミュージックです。メロディラインの拘束から逃れた言葉が、リズムに乗せて「うたわれる」音楽。ヒップホップのラップです。
 では、リズムの拘束もはずしてしまったらどうなるだろうか。
 それは朗読そのものですね。
 ことばがメロディや和声やリズムに拘束されていった音楽の歴史があるなら、今度はそこからことばを解放していくことが音楽としての朗読ということにならないだろうか。

 実はそれはすでに現代朗読でやっていることです。
 音楽(たとえばピアノ演奏など)がサウンドを形成しているなかへ、朗読がすべりこんでいく。そのとき、朗読者に要求されるのは、音楽的センスにまちがいありません。声のトーン、リズム、音質、ボリュームなどのコントロールによって、音楽演奏者とともに音声表現を即興的に作りあげていくのです。ここに要求される音楽的センスは、音楽家と同等、あるいは同等以上のものでしょう。なにしろ、即興的に音声表現を組み立てていくわけですから、ジャズの即興演奏のようなものです。いや、ジャズにはジャズフォームという形式があります。朗読にはフォームがない分、自由であると同時に難しくもあります。
 ジャズのなかでも最高に自由で、最高に難しいフリージャズのスタイルに近いといえるかもしれません。
 一般的な朗読では、滑舌だのイントネーションだの、重箱の隅にあるような技術が問題視されますが、朗読表現の世界はそんなせせこましいものではありません。音楽と対等、あるいはそれを超えるような広大な表現の可能性を、ほとんど未開拓地として持っているのが、朗読という表現行為なのです。そしてそれはまちがいなく、音楽の延長線上にあります。

声の表現者のためのスキルアップセミナー・名古屋編

本拠地東京で声の仕事のプロやプロ志向の表現者を対象に大きな成果をあげ、現在もっとも注目されている現代朗読協会によるユニークなスキルアップセミナーが、ついに名古屋登場!

◎対象者
 アナウンサー、ナレーター、声優、朗読者、俳優など、日本語表現を仕事としている方、またはそれをめざしている方。

◎日時 2011年12月9日(金)10:00~17:00

◎場所 劇団クセックACT アトリエ
    名古屋市北区下飯田町3-58 パルテール2F
    地下鉄名城線「平安通」から徒歩7分

◎費用 10,000円

◎内容
 ただきれいで流暢なだけなら替えはいくらでもいる「いま」において、「あなたにお願いしたい」と言われるためにはなにができるのでしょうか。「これから」の放送・収録の現場で必要とされるもののなかで、あなたに足りないものは何でしょうか。
 問題を自覚している人にはその解決法を、自覚はないが不安のある人にはその問題の洗い出しと対応を、プラクティスを通じて見つけていきます。
 表面的な対症療法ではなく、本質に迫り毎日の意識を変えることをめざします。
 プロの「サバイバル」のためのセッションです。

・他と取り換えのきかない存在になるためにあなたができること、めざすべきことを見つけましょう
・美しく流暢に話せる「一技術者」から、さらにステップアップするポイントとは?
・個性の「出し入れ」を自在におこなえる「真のプロフェッショナル」とは?
・現場で役立つコミュニケーション能力とその伸ばし方
・リップノイズ対策ほかクオリティの高い音声表現を獲得する

◎定員15名
 可能なかぎりマンツーマンでのセッションもおこないたく、一般参加者を先着15名に限らせていただきます。

◎講師 水城ゆう
 NPO法人現代朗読協会主宰(演出)。
 名古屋では2008年よりウェルバ・アクトゥスの活動をおこない、2009年には「Kenji」(芸術創造センター)、2010年には「Ginga」「特殊相対性の女」「沈黙の朗読」(芸術文化センター)などの公演実績を持つ。現在は「こまきみらい塾」にて受講生40名を対象に「現代朗読講座」を開催中。
 東京・世田谷にて音読療法士の育成プログラムを主催中のほか、セミナー、朗読講座など数多くおこなっている。
 近著に教員向け指導書『音読・群読エチュード』(ラピュータ)、小説『原発破壊』『BODY』『浸透記憶』『桟橋』『祈る人』

◎申し込み先
 電子メールまたは電話で、氏名・年齢・性別・電話番号・住所を明示してください。
 mail : info@roudoku.org
 電話 : 090-9962-0848(現代朗読協会)

◎主催 NPO法人現代朗読協会/共催 劇団クセックACT

NVCウイークが始まる

今日からNVC週間です。わたし的に、ですが。
 NVCというのは Nonviolent Communication のことで、日本語では非暴力コミュニケーションとして知られています。堅苦しい言葉なので、「共感的コミュニケーション」とか「思いやりのコミュニケーション」などとほぐされることもあります。
 内容について詳しくは書きませんが、興味のある方はホームページがありますので、そちらをご覧ください。
 昨日からコロンビア出身のホルヘ・ルビオという国際公認インストラクターが来日していて、そのワークショップが開催されます。すでに定員いっぱいの申し込みがあって、NVCへの関心の高さがわかります。
 私はホルヘの招聘チームの一員になっていて、そのコアメンバーとしていくつかの特別なセッションを受ける予定です。
 NVCというのはあくまでコミュニケーションの方法であり、ツールなので、それを学ぶこと自体が目的化することは避けたいと思っています。NVCを学ぶことで、生活の質を変える。仕事の質を変える。表現活動の質を変える。それが目的であって、NVCの「学び」そのものは目的ではありません。私はそう考えています。
 手段と目的。それを取り違えないようにしたいと思っています。

2011年11月17日木曜日

現代朗読体験講座とテキスト表現ゼミ、そしてげろきょについての感慨

先週の土曜日。名古屋から羽根木の家に戻り、すぐに体験講座でした。ゼミ生の美子さん、豆々子さん、ピリカさんが参加して、受付なども手伝ってくれました。
 今回もさまざな立場、さまざなニーズを持った方が参加して、カリキュラムなど準備のしようがないけれど、朗読表現の根本的なところを確認しながら進めていく現代朗読の方法をみなさんにある程度わかってもらえたのではないかと思います。

 夜はテキスト表現ゼミ。
 今回のお題は「缶コーヒー」でした。

 このところげろきょのゼミ生がほんのちょっぴり(やめていく人を上回って)増えたので、定員制にすることを提案したら、即却下を食らってしまったので、取りさげました。ま、そんな取り越し苦労をしなくても、これ以上急に増える心配はありませんけどね。
 それにしても、ただのお教室でもなく、学校でもなく、劇団でもなく、しかし30人近い表現者が深いつながりをもって集まっている現代朗読協会って、あらためて見るとすごいなと思うのですよ。そしてここは、ひとりひとりが個性的であること、自由でいることを保障されている場です。

羽根木プレーパークで青空朗読

昨日は午前中から羽根木公園内のプレーパークに行って、朗読をしてきました。
 こちらのプレーリーダーのめぐむさんと世田谷パブリックシアターのワークショップカフェで知り合い、一度プレーパークで朗読をやらせてもらえないか、といっていたのです。快く「どうぞ」といってもらえたので、昨日、げろきょのゼミ生何人かと行ってきました。

 メンバーはうたえ、ピリカ、みぞれ、フジサワの4人と、私。
 プレーパークにはピアノがある、という情報があって、半信半疑だったのですが、行ってみたら本当にありました。リーダーハウスと呼ばれる木造の小屋の軒先に、ほぼ雨ざらしに近い状態でポンと置いてありました。アップライトです。
 全体が泥とほこりだらけですが、蓋をあけて弾いてみたら、ちゃんと音が出ました。もちろん調律などという面倒なことはしてありませんが。
 これを私が弾いて、みんながフリースタイルの朗読。いつもはもっと乳幼児を連れたお母さんがたくさん来ているといってましたが、昨日はなぜか人影が少なく、それでも数人のお母さんやリーダー、学生の研修生を相手に、新美南吉の短編をいくつか朗読しました。
 いわば「場読み」です。
 田中泯さんがやっている「場踊り」の朗読版です。

天気がよく、空は抜けるような秋の青。風がやや強くて、木々のざわめきが音楽のようです。
 それらを感じながら、開けた空間でおこなう「場読み」はとても気持ちよかった、とみんながいってました。
 こうやってどんどん「いまここ」に対して感覚を開いていくことで、表現も確実に変わっていきます。とてもいい経験ができました。

 プレーパークのあと、みんなで梅丘駅前に行って、洋風料理〈タナカ〉でランチ。私が食べたのは、有機野菜とベーコンのパスタ。

夜の新宿ですばらしいフラメンコに出会った

いろいろなことが次々とやってきて、書いている暇がありません。書きたいことがだいぶ漏れてしまっているかもしれませんが、とにかく忘れないうちに覚えているものについては書いておきます。

 一昨日は石巻でのボランティア・イベントから戻った翌日で、身体はゆっくり休みたいと望んでいたようですが、そうはいかず、たまっていた仕事・雑用の片付けに早朝から追われ、日中はそれでほとんどつぶれました。
 夕方から出かけて、まずは下北沢まで歩いて。雨や雪のときに履くショートブーツの、もう10年近く履いていたのが、去年ついに壊れてしまったので、新調しました。といっても、販売店ブランドの安いものですが。革はいいものを使っているといっていたので、買ったんですが、どうも具合が悪い。底がすべりやすくて、ぶかぶかしか感じです。それで元々傷めている膝が痛くなってしまいました。
 中敷きを入れたらどうかと思い、店に行ってインナーソールを入れてもらったら、まあまあよくなりました。

 それを履いて、新宿へ。
 これまた十年くらい着ている防寒着が、さすがによれよれでみっともなくなってきたので、新調したいと思って、山用品の〈好日山荘〉へ。年内で移転するらしく、セールをやっているという情報を得て。が、行ってみたら、どれもかなり高く、どれがいいのか判断基準がわからず、玉砕。だれかこういった防寒着に詳しい人といっしょに行ったほうがいいみたいです。なにも買わずに、撤退。
 それにしても、5万円とか7万円とかが普通みたいですね。いいものは長く使えるから、結局はいいんだろうけど。

 そして、この日の最終目的だった〈エル・フラメンコ〉へ。もちろん、フラメンコの店です。フラメンコを鑑賞しながら、飲食するライブ・レストランです。
 白状すると、実はフラメンコ・レストランというものに対して、ちょっと馬鹿にする気持ちを持ってました。フラメンコという「出し物」で客を集める方式だし、出演者だってスペインから二流のグループを何か月契約かで呼んで、毎日適当に手を抜いた日本人が喜びそうなエキゾティックなダンスと演奏をルーティーンでやっている程度のものだろう、と勝手に思いこんでいたからです。実際にそういう店はかつてたくさんありましたしね。
 しかし、実際に行ってみると、かなりびっくりしました。演奏が始まった瞬間、その演奏とダンスのクオリティがとてつもなく高いことがわかったからです。間違いなく本物のフラメンコなのです。
 そのあとの1時間あまりは本当に楽しく、スリリングでした。フラメンコという表現がすばらしいものであることもたっぷりわかりました。
 出演していたのは、ダンスがホセ・マヌエル・ラモス(エルオルーコ)、カロリーナ・ゴンサーレス(ラ・ネグラ)、ジェニファー・ゴメス、歌がダニエル・ボニージャ、ロシオ・ロペス、ギターがセバスチャン・カラスコ(チャノ)、ルーベン・エスカローナ。
 もうひとつ気づいたのは、フラメンコの踊りは大地に根ざしたものなんだな、ということです。バレエのように飛んだり跳ねたりはしません。しっかりと両足を踏みしめ、時には強く踏み鳴らし、重心を低く保って踊るのです。このあたりも大変東洋に近いものを感じました。
 インスピレーションをたくさんもらった夜でした。

音読療法士の育成に向けて着々と

現代朗読協会の2回めとなる東北被災地支援ボランティアツアーに行ってきました。
 詳しくはこちらのブログにレポートを書いたので、お読みください。
 今回行ってきたのは石巻市の仮設住宅でした。その集会所を2か所回って、計4回のイベントをおこなってきたのです。
 皆さんといっしょに、歌、朗読、音読エチュードなどで声を出してきました。
 イベントを通じて感じたのは、呼吸と声に意識を向け、声と言葉を発するのは、本当に心身のケアになるのだということです。参加された皆さんの顔つきがみるみる明るく元気になっていくのを見るのは、私も大変うれしいことでした。
 この音読の効果を集大成した講座を、いくつかつづけて行ないます。11月27日には、まず、ボイスセラピスト2級を取得してもらうための講座を行ないます。続けて1級の講座は、年明け早々に行なう予定です。
 このボイスセラピストの資格を取った方を対象に、今度は音読療法士の資格取得のための長期講座を開催する予定です。こちらは150時間以上の講座なので、生半可な気持ちでは難しいかもしれません。社会貢献のための仕事として真剣に取りくんでいただける人が対象です。
 興味がある方は現代朗読協会までお問い合わせください。

2011年11月16日水曜日

なぜ『原発破壊』を書いたのか

よく聞かれることなので、この際、おおやけに発表しておきます。
 地震大国である日本では原発稼働は非現実的な無理経済だと思っていますし、人間はそろそろ経済活動を退行させて物質的豊かさより精神的豊かさをまじめに追求したほうがいいと思っているので、私のかんがえは脱原発といっていいでしょう。が、それを「立場」や「主義」としてつらぬくつもりはありません。
 私は小説書きなので、小説を書くことで自分の無意識も含めた考えを世に問います。つまり、表現します。
 小説を書く、というのは、なかなかひとことで説明するのは難しいんですが、なにかテーマがあってそれを書くわけではありません。テーマがはっきりしているなら、論文などで直接的にそれを書いてしまえばいいのです。たとえば「脱原発」なら「自分は原発依存の社会を変えるべきだと思う。なぜなら……云々」と書きつらねて発表すればいいのです。
 しかし、小説という装置はそんなに単純ではないし、そのことがまた「小説を書く」というめんどくさい行為に意味を持たせています。
 実際に書いてみればわかりますが、小説を書いていくと自分でも思いもよらないことを書いてしまうことがあります。あるいは、思いもよらない方向に話が転がっていってしまうことがあります。こういうとき、たいていは書き直したり方向を修正したりして、強引に筋書きを自分がかんがえていたものに戻すわけですが、こんなふうにして書かれたものが実はまったくおもしろくない、魅力的でない、そして自分自身を表現したものではないことに気づきます。たいていの商業小説がつまらないのはそのせいです。

 長々と前置きしましたが、ようするに『原発破壊』という長編小説を書いた理由については、自分でもよくわからない、というところが正直なところです。
 この小説は当初、商業小説として出版することを目的に書きはじめましたが、1996年当時、商業出版としては出せないことがわかりました。書きあげてからはっきりしたわけですが、書いている途中でもなんとなくそのことは察していて、途中から自分でも思ってもいない方向に話が進んでいってしまいました。けっこう複雑な話になり、自分でも先が読めない展開になっていきました。
 それで、あのような終わり方になっているわけです(笑)。
 あえて『原発破壊』を電子書籍として発表した理由をこたえるとするならば、小説を読んだ読者がなんらかの形で原発のことを考えたり、エネルギー問題のことを考えるようになってくれるといいなあ、というものがあります。さらにいえば、水城ゆうという人間にも少しでも興味を持ってくれればうれしい、ということもあります。小説書きに限らず表現というものはそういうものでしょう。
「談」みたいになっちゃったな。
 ちなみに『原発破壊』はこちらで読めます。まずは立ち読みでどうぞ。

ボイスセラピスト2級講座開催のお知らせ

声で癒し、癒される……自分の持つ「声」で人を安らわせることができたら、どんなにいいでしょう。そして、自分の「声」が自分をも落ち着かせ、癒してくれたら、どんなにいいでしょう!
 声による療法の基礎を身につける「ボイスセラピスト2級」を受講、取得して、身近な人とのコミュニケーションに活用してみませんか。
 お子さん、パートナー、親、友人、同僚などとのつながりを、柔らかく心地よいものにしたいと願う方に。
 今回初の開講で、うれしい早割特典も。
 家族が集まりやすい年末年始に向けて、チャレンジしてみませんか。

◎日時 2011年11月27日(日)10:00~17:00
◎受講費 33,000円(2級資格取得料含む)
    →20日23時59分までのお申し込みで早割28000円

◎内容
 ボイスセラピーの基礎知識
 声と身体とこころの基礎知識
 声と身体の関係、声とこころの関係の確認
 ボイスセラピーのさまざまな事例を用いたノウハウ学習
 参加者同士によるセラピー実践体験

◎こんな人におすすめです
 子どもなど家族に心身の不調を訴える人がいる
 落ちこんでいる友だちの気持ちを楽にしてあげたい
 ささいなことが気になって眠れない
 あがり性を克服したい
 ひと前に出るとうまく話せない
 声が通らない
 よく聞き返される
 家族や他人とのコミュニケーションでいらいらすることが多い
 ひと前で話すことが多い職業についている
 落ちついた話し方や態度を身につけたい

※お申し込みはこちら

【お知らせ】
 現代朗読協会では、これまで蓄積してきた膨大なデータと検証をもとに、音読療法士の育成をスタートさせました。
 現在、第一期生が毎日の課題と週一回の講義を最低一年間、150時間の研修に取り組んでいます。
 来春、第二期生を募集予定です。興味・関心をお持ちの方はお問い合わせください。受講にはボイスセラピスト2級と1級の資格認定を受けている必要があります。

げろきょ石巻ボランティアツァー報告(4)

(写真:三木義一)
 二日めの、3回めとなるボランティアイベントが始まりました。
 この日もたくさんの人が来てくれて、こちらの集会所は昨日より狭いので、席を作るのが大変でした。遠慮深い人が多くて、みなさん、後ろのほうから詰めていくので、あらたに入ってくる人が入口でぎゅうぎゅうになってしまいました。前のほうにとおすすめするんですが、なかなか前に来てくれません。さすがに窮屈なのでようやく前のほうにも座ってくれました。

 さて、二日めも唱歌の歌詞の朗読と唱和、呼吸法の伝授、朗読パフォーマンス、そして朗読エチュードでにぎやかに声出しと、ノリよく進めさせていただきました。
 初日と同様、最初は控えめだったり、警戒ぎみだった皆さんの表情が、時間がたつにつれどんどん明るく元気になり、全体がほがらかな雰囲気になっていくのは、こちらもとてもうれしいことでした。呼吸法もとても真剣にやってくれたので、今後の生活のなかでもきっと役立ててくれることと思います。

午前10時半から始まった午前中の部が1時間くらいで終わり、私たちも昼休み。近くのコンビニで昼食を買ってきて、集会所でみんなといっしょに食べました。
 午後1時からこの日2回め、計4回めとなる最後のイベントがスタートしました。
 最初はやや少なかったんですが、始めたらどんどん人がやってきて、途中からやっぱり満杯に。椅子や座布団をどんどん追加して、にぎやかになりました。
 4回めともなると、みなさんが楽しんでもらえることやウケがいいことがわかってきて、こちらの進行も手慣れてきました。しかし、これが最終回なのでした。だいたいこういうイベントやライブは、なじんできた頃が終わり、ということがよくあります。しかし、即興的にやっているので、それがまたいいのでしょう。
終わったら、皆さんにおみやげを持ってかえってもらいます。これは三谷産業が用意してくれた金沢のおいしいコシヒカリです。
 そういえば、三谷産業は震災直後から被災地の支援に動き出していて、今回イベントをおこなった仮設住宅にも、私たち現代朗読協会が行く前にも何度か行って、食器などの物資の提供をしていたとのことです。そのことを覚えていた方もたくさんおられました。私たちもまたここに来たいと思いましたが、私たちのことも覚えていてくれるかなあ。

 こうやって石巻での4回のボランティアイベントを終えて、私たちは帰路についたのでした。
 帰りの道中も楽しかったのですが、割愛します。午後9時前に無事に羽根木の家に到着。
 現地への交通手段と宿、イベントの告知、その他あらゆる面で私たちの活動をサポートしていただいた三谷産業株式会社と、その都平さん、東さん、高木さんには、本当に感謝します。ありがとうございました。
 また、カンパしてくれたり応援してくれたり、とさまざまな形で支援してくれた船渡川広匡くん、藤沢真弓さん、ほか現代朗読協会ゼミ生の皆さんにも、心からありがとうをいわせていただきます。
 みなさんの思いは、私なりに現地に届けることができたと思います。

げろきょ石巻ボランティアツァー報告(3)

石巻のホテルがどこもいっぱいで宿泊予約ができなかったので、仙台市内のホテルが宿となりました。
 復興関係、とくに建築や土建関係の人が長期滞在しているそうです。実際、仙台のホテルでも、ニッカボッカをはいたお兄さんがたを何人か見かけました。
 石巻から仙台へ戻り、三谷産業の高木さんとは仙台駅ではお別れ。ホテルで仙台在住の友人・那月テツとひさしぶりの再開。彼女とは震災後、何度か連絡を取り、貴重な情報を直接もらったりしていたのです。
 仙台市内でもかなり地震がひどかったらしく、損傷のひどい家があったり、なかなか電気が復旧しなかったりと、不便な生活をしいられたそうです。もちろん、海に近いところは津波で甚大な被害と犠牲者を出しました。
仙台で夕食するといったら、テツにおいしい寿司屋に案内するといわれ、お願いすることにしました。驚いたことに、現れた彼女は「寿司屋では食べられないから」といって、私たちの大好物の牛タンをわざわざ買って持ってきてくれたのです。牛タンは〈利久〉という有名な店のもので、わざわざ予約を入れて取りに行ってくれたそうです。ここの牛タンは厚切りで、それが最高においしいのです。
 さっそく車のなかでいただいてから、今度は寿司屋に行きました。回転寿司ですが有名な店で、こちらでも大満足の食事でした。テツくん、ありがとう! そして明日のための英気をたっぷりと養うことができたのです。

ホテルにもどり、チェックイン。ここでも寝心地のいいベッドでゆっくりと休むことができました。
 翌14日はすっきりと朝6時半くらいに起きて、ホテルで朝食。7時45分、出発。晴天にめぐまれました。
 この日も石巻の仮設住宅地を訪問しました。場所はトゥモロービジネスタウン県営石巻渡波住宅用地です。
 集会所は昨日よりもこじんまりとしています。この住宅地は規模が大きく、いくつものブロックに別れています。集会所もいくつかあるようでした。チラシなどで告知は広くしてありましたが、足腰が弱いお年寄りや動けない人も多く、遠くの人はなかなか来れないというようなことを、あとで聞きました。
(つづく)

2011年11月15日火曜日

げろきょ石巻ボランティアツァー報告(2)

(写真:三木義一)
 この仮設住宅は、正式には「石巻渡波地区宮城水産高校第二グランド県営石巻渡波住宅用地」といいます。
 私たちが準備を始める前に、すでに集会所は開いていて、お兄さんがひとり、子どもたちを遊ばせていました。あとで聞いたら、長野からボランティアではいってきている人で、子どもたちの活動を支援しているのだそうです。とくに音楽を使って子どもたちの組織を作り、活性化する活動をしていきたいと計画しているそうでした。
 こういう活動ともリンクできるといいかも、とちょっと思ったりしました。

 参加者が続々とやってきました。前回よりずっとたくさんの人が来てくれました。前回来てくれた人もいて、見覚えのある顔が何人かありました。向こうでも覚えてくれていたようです。
 高齢の方が多いんですが、子どもや子ども連れのお母さん、中年の男女も何人かいました。
 こういうイベントでの私のやりかたは、いくつか演目やエチュードを準備しておいて、実際にみなさんの顔を見てからなにをやるか、どういう順番にやるか、即興で組み立てていく方式です。これは、いっしょにやる仲間も即興的な対応を迫られるので、信頼できる仲間がいないとやれない方法です。
 今回も、最初に朗読をやろうと思っていたのを捨て、いきなり歌から入ることにしました。伊藤さやかに出てもらって、みなさんといっしょに日本の季節の唱歌を歌いました。ただし、歌うだけでなく、歌詞を、これも声を合わせて朗読してから歌うのです。
 みなさん、本当に声を出すのが楽しいらしく、やっているとどんどん明るい表情になっていくのがわかります。

歌をうたい、手を叩き、詩を読み、朗読を聴いてもらい、予定の1時間があっという間にすぎました。こちらのメンバーも汗だくになって熱演です。
 あとで聞いたら、岩崎さとこはこの日、イベントはこの1回だけだと思いこんでいて、全力を使いはたしてしまったそうです。といっても、ちゃんともう一回、がんばってやったんですけどね。
 皆さん、生き生きとした顔をして「楽しかった〜」「また来てね」「声を出してすっきりしたよ」などと口々にいいながら帰っていかれました。私たちもかえって贈り物をいただいたような気持ちです。

2回めは16時からです。
 インターバルのとき、中学三年生だというはるなちゃんという女の子が楽器にさわりたそうにしていたので、弾かせてあげました。ピアノを習ったりはしていないんですが、耳がよいらくし、耳コピーでいろいろなメロディを弾けます。
 学校で使うアルトリコーダーを持ってきているというので、いっしょに演奏したりもしました。この時間も楽しかったのです。
 2回めもにぎやかに始まり、やっているうちにさらにどんどん人がやってきて、大変盛況になりました。笑い声と歌声と拍手と朗読がつづくにぎやかなイベントで、仮設住宅という気詰まりな環境に暮らしている皆さんに少しでものびやかな時間を持ってもらえたのではないかと思います。また、私たちも思いきり楽しませていただいたことは、いうまでもありません。
 こうやって石巻の一日めのイベントは終わりました。

げろきょ石巻ボランティアツァー報告(1)

東北ボランティアツアーも9月につづいて二度めとなりました。2011年11月13日と14日の両日、宮城県石巻市の仮設住宅地の集会所を回っておこなってきたボランティアイベントの報告をします。

 11月13日朝。
 前回9月と同様、今回のツアーも金沢と東京に本社がある三谷産業株式会社の全面的支援をいただいておこなうことができました。その三谷産業の都平さんが、10人乗りのワゴン車をレントして、午前6時に羽根木の家まで迎えに来てくれました。
 羽根木に集合したげろきょ側のメンバーは、私、野々宮卯妙、それから今回初参加だった岩崎さとこ、三木義一の4人。楽器などの荷物を積みこみ、5人で次の集合地点である北戸田駅に向かいました。
 順調に走って、北戸田駅で三谷産業の東さん、げろきょ側メンバーの伊藤さやか、山田みぞれと合流。コンビニで朝食を買いこんで全員が車に乗りこみ、いざ東北に向かって出発です。
 外環道、東北道と乗りついで、北上。折しも日の出の時間で、東は朝焼けが美しく、西には入りの丸い月が見えます。

途中、何度か休憩を取りながら、順調に東北道を北上。前回からのメンバーはとくに被災地に向かうという緊張もなく、ほとんど遠足のような気楽さ。いや、これは悪い意味でいっているのではないのですよ。しかし初参加の、とくに三木くんは、少し緊張ぎみだったかな。彼は前から直接自分の目で被災地を見たいといってました。ま、写真家ですしね。
 ツアーイベントの稽古がほとんどできなかったので、車中で打ち合わせ。とくに歌の伊藤さやかと歌の練習。キーを合わせたり、曲の構成やコード進行を確認したり。そのためにわざわざ、車中でも使えるミニキーボードを持ってきたのです。

いったん仙台で降り、仙台駅で三谷産業の高木さんをピックアップ。人事異動があって前回の松嶋さんと交代になったそうです。
 仙台はひさしぶりでした。少し時間があったので、駅前のながめのいい、青葉通りが見える場所をみんなに案内しました。ついでに無印良品に寄り、旅行用の首枕を購入。これがあると車のなかで仮眠するのに楽なのです。
 仙台駅で牛タン弁当を買い(ちょっとがっかりでした)、車内で食べながら、石巻に向かいました。イベントをやることになっている渡波地区の仮設住宅の集会所に、午後1時すぎに到着。すぐに準備をしました。
 ここは9月末に一度来ていて、勝手はわかっています。三谷産業のみなさんはさっそく、人集めに回ってくれました。

明日は羽根木プレーパークで突発朗読ライブ

先週から今週にかけて、小牧市のこまきみらい塾、朗読体験講座、そして宮城県石巻での4回にわたるボランティアイベントへの2日間のツアーと、スケジュールと移動が立てこんでいました。これについてはあらためて報告します。
 今日は一日、たまったメールやら各種のお知らせを片付けているところですが、明日はまたおもしろいイベントがあります。
 梅丘の羽根木公園内に子どもたちの遊び場〈羽根木プレーパーク〉があります。そこではプレーリーダーと呼ばれるお兄さん・お姉さんがお母さんたちといっしょに子どもたちを見守り、自由に遊ばせています。そこになぜか、ピアノが置いてある、という話を小耳にはさんだので、先日、プレーリーダーの方に確認してみました。
 たしかにピアノはある、ということで、にわかにげろきょメンバーによる朗読パフォーマンスを、子どもとお母さんたち相手にやってみよう、ということになりました。

 明日の午前11時です。
 まったく私たちもどうなるのかわからないんですが、歌を歌ったり、朗読パフォーマンスを観てもらったり、なにかいっしょにやれることがあればやってみたり、とにかく臨機応変に突発ライブをやってみようと思っています。
 興味がある方、参加したい方は、明日の午前11時に羽根木プレーパークまで来てください。

12月のミニコンサート@下北沢・音倉のお知らせ

下北沢のライブカフェ〈Com.Cafe 音倉〉で毎月一回第二水曜日の午後1時から、ランチタイムコンサートをおこなっています。
 ピアノと朗読、ときには歌も加わる30分程度のミニコンサートです。下北沢でのお昼ご飯やコーヒータイムに気軽にお立ち寄りください。

◎日時 2011年12月14日(水)13:00〜13:30
◎場所 下北沢ライブカフェ〈Com.Cafe 音倉〉
    世田谷区北沢2-26-23 EL・NIU B1F/下北沢駅よりゆっくり歩いて3分
◎料金 無料
 飲食代のみ、それ以外のライブチャージなどはありません。予約も不要です。

 演奏の後はお茶でも飲みながらおしゃべりしましょう。
 みなさんのおいでをお待ちしてます。

※2012年1月からは第三水曜日の開催となります。

2011年11月12日土曜日

名古屋行き、こまき朗読講座3回め、東京戻り

昨日はこまきみらい塾の現代朗読講座3回めのために、新幹線で名古屋へ。
 いつもの加藤珈琲店でバラさんとコーヒーを飲みながら、よもやま話。演劇や朗読のこと、公演やワークショップのことなど。観客動員についていろいろと教えてもらいました。ここがげろきょの一番弱いところです。

 バラさんと別れて小牧市へ。午後7時半から朗読講座。小林サヤ佳ちゃんとお母さんが見学に来られたのに、担当職員が休みだったり連絡が食いちがってしまって、見学はできないといわれて帰られてしまったそうな。大変気の毒なことをしました。おられたら、ゲスト演者として少し語ってもらってもいいかな、なんて勝手に考えていたんですが。残念でした。
講座内容としては、現在あちこちでおこなわれている朗読会や朗読講座が、いったいどういう根拠にのっとっているのか、ということの確認(放送技術の延長線上にある)と、私たち現代朗読はどういういまと未来を考えているのか(日本のいにしえからの語り芸の身体使いや呼吸・発声を学び、日本の語り芸の延長線上にある「コンテンポラリー」をめざしたい)といったことを話しました。その上で、すり足の練習による身体訓練法(体幹を強化する)をいっしょにやりました。
 また、『三四郎』を使って文芸作品を深くふかく読み解いていく方法についても解説しながら、実際に読んでもらったりもしました。
 今回もみなさん熱心に参加してくれて、私も楽しくやらせてもらいました。

名古屋にもどり、新栄の宿に投宿。
 今朝はひさしぶりにバスタブに熱いお湯をはって、ゆっくりつかりました。そのあとホテルで朝食。和食中心でヘルシーでした。
 9時前にはチェックアウトし、名古屋駅から新幹線でまっすぐ東京戻りです。

集団行動ができない男(私だけど)

いつごろからか、集団行動がとても苦手になりました。たぶん中学生くらいから。
 かといって、孤独癖があるとかそういうのではありません。普通に人と会ったりするのはなんでもないし、グループでなにかすることも嫌いではありません。が、集団でなにかひとつのことを規律正しく目的に向かってやる、ということが異常に苦手なのです。苦手というより、嫌悪、それも生理的嫌悪に近いものがあります。
 行列にならぶのも、たぶんそれと同列で苦手。
 きっとなにかトラウマがあるんですね。
 自分がたくさんやっていながらこういうのもナンですが、なにか学ぶための合宿やワークショップの類に参加するのも苦手です。参加してもいつも居心地の悪さがつきまとってしまいます。とくに、
「さあ、みんなでいっしょにやりましょう」
 というようなことがあると、尻込みしてしまいます。
 ロックコンサートなどに行って、一斉にスタンディングしたり、拍手したり、ノッたりすることも嫌です。やりたくないです。
 なので、私がおこなうワークショップでは、
「やりたくない人はやらなくていいですよ」
 といいますし、なるべく「一斉に」そろってやることは少なくするように心がけています。こういう者を日本では昔から「天の邪鬼」と呼んで、嫌っているんでしょうね。

2011年11月11日金曜日

ダンス公演「ジゼル達の森」を観てきた

下北沢・北沢タウンホールでおこなわれたモダンダンス公演「ジゼル達の森」を観てきました。出演者のおひとり・高橋京子さんに明治大学での朗読の臨時講義でお世話になり、この公演の案内をいただきました。

「ジゼル」はクラシックバレエの有名な演目ですが、それに着想を得たモダンダンス作品でした。300席近くあるホールが満席で、びっくりしました。
出演者たちのダンスパフォーマンスや身体性のクオリティは非常に高くて、これにもびっくりしました。でも、これは失礼ですね。考えてみれば、高橋京子さんは大学で教えておられるような方で、そういうレベルの方たちが集まっておこなわれた公演なんですから。
しかし、正直いうと、物足りなさも感じました。
せっかくクオリティの高いダンサーたちがいながら、公演自体のコンセプトがかなり古臭い。クラシックバレエの公演に近い作りです。あるいは、ミュージカルのダンス部分だけ抜きだしたようなショー的な印象です。ダンサーたちの「個あるいは群としての表現」の本質的な核をまったく見せてもらっていないという気がしました。

表現の本質とはなんでしょう。
テクニックを誇示することではないはずです。ダンサーの存在そのものを観客に伝えること、ではないかと思うのです。その点に関して、十全な思考と準備と演出がおこなわれていたのかどうか、疑問です。
以下はいいすぎかもしれませんし、おしかりを受けるかもしれないことを覚悟で書くのですが、ダンスの世界はひょっとしてダンサーが指導したり演出することで限界を作ってしまっているのかもしれない、と思いました。
私の話で恐縮ですが、現代朗読では演出家(私ですが)は朗読をしません。演出は演出というプロセスに集中することで、朗読者のポテンシャルを可能なかぎり、あるいは可能性をさらに超えて引きだしていきます。自分が読んでしまうとそれができないのです。「ジゼル達の森」の演出はどうだったのでしょうか。

などと無責任に書きたい放題ですが、出演者のみなさんは本当にすばらしいダンサーでした。
たとえば高橋さんとは、朗読と共演してもらえないかな、なんてことを夢想しました。あるいは、大きな公演でなくてもささやかなライブでもいいので、音楽と演出を私にやらせてもらえないかな、なんてことも。
そのときには、「モダン」ではなく、より「コンテンポラリー」に行くとは思いますけどね。

現代朗読を知ってもらうためにどこへでも行きます

2週間おきの小牧行きの日です。雨降りです。ちょっと寒いですが、元気に行ってきます。
 小牧行きは「こまきみらい塾」という、いろいろな自治体にある市民大学講座とか生涯学習の一環の市民向け講座で現代朗読を教えるという内容のものです。定員いっぱいの40名の方が申し込んでくれました。毎回40人の方といっしょに汗をかきながら楽しくやっています。
 もともと40名が定員だと聞き漏らしていたので、始まるときに「40名の申し込みがありまと」と聞いてびっくりしたものです。数名の方か、せいぜい10人くらいの方を相手に、できるだけマンツーマンで現代朗読についてじっくりと学んでもらおうと思っていたのです。40人相手となると、手法を変えなければいけません。それはそれで楽しいんですが。
 このように、現代朗読を知ってもらうために、全国いろいろなところに出かけたいと思っています。高額な講師料なんてものを要求したりはしませんので、現代朗読について知りたい、学びたいという方が数人集まっていただけるなら、いつでもどこへでも出かけます。交通費程度はお願いしていますが、自由で楽しく、そして深い表現である現代朗読を知っていただいて、みなさんの人生が生き生きとしたものになるのなら、喜んで出かけたいと思っています。どうぞ気軽にお声がけください。

声、マダム朗読、iPad2、モダンダンス「ジゼルの森」

今日は午前中、現代朗読の朝ゼミ。ゼミ生がひとり、仕事の事情で辞めたのと、欠席がひとり。みんなが寂しい、寂しいというので、ほんとに寂しい気がしてしまいます。ほんとに寂しいんだけど。
 先週の文化の日におこなわれたげろきょ祭りの感想をみんなから聞きました。それぞれ楽しんでくれ、かつたくさん発見をしてくれたようで、うれしいです。毎回、げろきょのライブでは、予想できないことが起こるんですが、今回もそのとおりでした。そういうことにはもう慣れているはずなのに、今回も驚きの連続でした。そのことを、みんなの感想を聞きながら私も確認してました。
 今回のライブでは朝ゼミメンバーで「なめとこ山の熊」をやったんですが、これは元々、オーディオブックとして収録しようとして始めた作品でした。近いうちに収録をしようと思います。
 それとは別に、次期作品をなんにしようという相談。
 結局、いったん宮沢賢治から離れて、夏目漱石の『永日小品』のなかの「声」という作品をやってみようということになりました。その読み合わせを少しだけ。

朝ゼミ後はすぐに出発して、日榮、野々宮といっしょに、北浦和に向かいました。
 朝からなにも食べてなかったので、赤羽で親子丼。
 北浦和の公園のなかにある建物に行くと、すでに玻瑠さんと唐さんが来てスタンバイ。
 ここは楽器禁止のほか、コンピューターも禁止というわけのわからないローカルルールがあるらしいですが、私は朗読に音でからむべく、今日はBOSEのスピーカーとMacBookAirとAKAIのミニキーボードを持ちこんでました。それに加えて、野々宮のiPad2を貸してもらって、音出しのセッティング。
 結果的に、iPad2のみで音出ししてみることになりました。

 午後3時から朗読会のスタート。
「蜘蛛の糸」の群読から始まって、玻瑠さんによる新美南吉の「花を埋める」、唐さんの東北の民話、野々宮の「夢十夜・第八夜」、そして「なめとこ山の熊」の群読。
 さすがにげろきょのベテラン揃い。群読もソロ朗読も、まったく不安なく、ガンガンやってくれました。こういう朗読を聴いたことのない人には刺激が強すぎたかもしれませんが、みなさん、おおむね楽しんでくれたようでよかったです。
 私はiPadで音入れをしていて、けっこうおもしろいことができることがわかったんですが、決定的なネックがひとつあることに気づきました。それは、iPadで音入れするとき、iPadの画面を見続けなくてはならなくて、朗読者たちのほうを見ることができないのです。
 私のスタイルは、朗読者たちを見て、聴いて、ほぼ手元の鍵盤を見ることなくリアルタイムで即興的に音を入れていくものです。それができなくて、最後までもどかしさを感じてしまいました。やはり、物理的な鍵盤がインターフェースとして指の下にないとだめかもしれない、と感じました。

それはともかく、マダム朗読会は大変クオリティの高い内容で終わり、この先の展開をぜひ考えたいような内容で終了しました。
 みなさん、お疲れさまでした。

 新宿でちょっと家電店に寄ってから、下北沢へ。軽く食事してから、北沢タウンホールへ。
 明治大学の臨時講義でお世話になった高橋京子さんが出ている「ジゼルの森」というダンス公演を観に行きました。
モダンダンスの公演でしたが、こちらもいろいろと思うところがあって、大変刺激的でした。表現とはなにか、ということについて、深く考えさせられました。
 これについて、あらためてじっくりし書いてみたいと思います。

2011年11月10日木曜日

退屈ではない楽しくスリリングな朗読をやりたい方へ

 出演者だけが自己満足の退屈な朗読会がそういつまでもつづくとは思っていませんでしたが、最近すこしずつ、いろいろな形の朗読会が開かれるようになってきたように見えます。音楽との共演をはじめ、ダンスや美術、その他さまざまなパフォーミングアートとの組み合わせを見かけます。また、会場もホールだけでなく、民家やギャラリー、カフェなど、おもしろい場所でやっているようです。
 とてもうれしいことです。もっとも、これらのバラエティが、現代朗読協会の活動によって広まったものだなんて傲慢なことは微塵もかんがえていません。むしろ、現代朗読はまだまだ、いやまったく知られていないので、もっと皆さんに知ってほしいのです。
 というのは、自由でバラエティ豊かな朗読会がひらかれるようになってのはとてもいいんですが、それらがまだたんなる「思いつき」の域を出ていないものが多いみたいだからです。また、音楽などと「共演」するといっても、「伴奏」や「添え物」的に使われることが多く、あくまで主導権は朗読の側にあるようです。
 現代朗読では、朗読が「主導権」を握るのではなく、「共演」することが目的です。どちらが主導ということはありません。ともに表現するのです。お互いにコミュニケーションを取り、触発されながら、表現を高めていくのです。
 また、いろいろ自由にやっているといっても、そこには「コンテンポラリー」という理念があり、表現を根底から支えているものがあります。けっして思いつきでやっているわけではありません。
 バラエティ豊かな表現も、たんなる思いつきだけだと、やはり深みを持つのは難しく、長続きもしません。退屈な朗読を打ち破りたくてやっている方は、ぜひ一度、現代朗読協会をのぞきに来てください。だれもが一様に「目からウロコが落ちました」といってくれます。
 私たちは従来「やってはいけない」といわれていたことを「やってもいい」といい、「やらなくてはいけない」といわれていたことを「やらなくてもいい」といいます。あまのじゃくでいっているのではなく、理念が根底から違うのです。
 現代朗読では、
「表現において〈~ねばならない〉ことはなにひとつない。やりたいことは全部それを自分に許してあげましょう」
 という考え方でやっています。自分を表現するんですからね。そこになんらかの制約があっては意味がないでしょう。私たちはただ一回きりの人生を生きているんですから。

 現代朗読を気軽に体験できる体験講座を毎月やっています。
 次回は次の土曜日、11月12日午後1時からです。くわしくはこちら

ランチタイムコンサート、クレープ屋、ワークショップカフェ、羊をめぐる

毎月第二水曜日にやっている音倉のランチタイムコンサートでした。
 名古屋の古い友人せっちゃんが用事で上京するというので、ちょうどいいとばかりにランチタイムに来てもらうことになりました。
 正午すぎに店に行くと、すでにせっちゃんが来ていました。お互いの近況やら、重大事件やらについて話をしていると、出演者の野々宮が大学生の娘を連れて来ました。ゼミ生のまりもちゃんや、あとで小梨さんも来てくれました。ありがとう!

 ほぼ身内ばかり、お客さんはほとんどいないなか、ピアノ演奏スタート。
 最初は完全な即興曲。といっても、フリージャズのような無調のスタイルではなく、調性やゆるやかなリズム進行を保持したスタイル。このために準備した映像があったんですが、持ってくるのを忘れてしまいました。なので演奏のみ。
 二曲めは「この道」という日本の曲。本当は「赤とんぼ」をやろうと思ったんですが、なぜか「この道」と出だしが似ていて、ふと「この道」の出だしが浮かんでしまったのです。そうなるともう「赤とんぼ」の出だしが出てきません。そのまま「この道」を演奏。
 野々宮に出てもらって、夏目漱石の『夢十夜』から「第八夜」を朗読してもらいました。リズムがのってきて、コミュニケーションがかみあった感じが気持ちよく、タンタンタンと共演しました。楽しかった。
 最後はようやく「赤とんぼ」が出てきたので、それをやって終了。
 終わってからは、おいしくてオーガニックな音倉のランチをいただきながら、みんなでお話。

コーヒーも飲んでから、店を出ると、まりもちゃんが近くにおいしいクレープ屋さんがあるので行く、というので、私もくっついて行くことにしました。クレープ屋なんて、生まれて一度も行ったことありません。
 メニューがたくさんあって、どれを選んでいいのかわからないけど、とにかくメニューの上のほうに載ってるやつを注文。カシスとチーズと生クリーム。クレープはしっとりとサクサクが選べるので、サクサクのほうで。
 できあがったクレープはずっしりと重く、甘く、そしてチーズの塩味がほどよく効いておいしいけれど、これはもうしっかり一食分。すでに昼ご飯を食べてきた身にとっては、おやつを通り越してました。
帰りがけに〈せんだい屋〉という山梨の納豆の専門店があったので、納豆を何種類か買ったんですが、その店の外に納豆の自動販売機があったのには驚きました。

 夜、三軒茶屋のパブリックシアターでのSPTワークショップカフェに出かけました。トラストまちづくり世田谷の活動について、話を聞きました。参考になることが多かった。
 別れ際に、羽根木プレーパークのめぐむさんと、プレーパークにピアノがあるんだってね、という話になり、来週の水曜日にピアノと朗読のセッションをいきなり子どもとお母さんたち相手にやることになりました。こういう突発的な話は楽しいですね。
 そのあと、ひさしぶりに〈羊々〉でジンギスカン。知らない人だけど、女性ふたり組とカップルの人たちとテレビや映画の話で盛り上がってしまいました。なんだか新鮮でおもしろかった。

 帰宅してツイッターを見たら、トランジション世田谷・茶沢会の桃さんとあさわさんが、12月の羽根木の家でのイベントの話をもう進めてくれていて、早くも決定。こういうスピード感も悪くない感じで、今日はいろいろとおもしろかったな。

2011年11月9日水曜日

いろいろな健康法より朗読がいいのだ

 現代朗読は身体表現だということで、朗読者にはとにかく身体のことを意識してもらいます。意識してもらうだけでなく、自分なりに身体のクオリティ、身体使いのクオリティをあげていくことを、日常的に心がけてもらうようにしています。
 朗読では呼吸や姿勢がとても大切ですから、呼吸筋や姿勢筋、その他コアマッスルを鍛えるためのヨガや、さまざまな呼吸法を取れいれたオリジナルの呼吸法をやります。
 また、言葉に関係する舌の筋肉、表情筋なども鍛えます。
 そして読むための脳を鍛え、表現のための感受性を高めるさまざまな方法をおこないます。
 これらのことは朗読のためですが、そのまま老化防止や心身の健康にも役立ちます。現代朗読のエチュードを毎日欠かさず続けている人は、みるみる朗読が上達するだけでなく、心身ともに健康になり、生き生きとしてきます。これは嘘ではありません。げろきょのゼミに見学に 来られるとわかります。どなたも生き生きと楽しそうにしています。
 このところ会社で働いている人のメンタルヘルスケアが必要だということが盛んにいわれていますが、私にいわせれば、全員現代朗読をやればいいのです。たちまちみんな元気になりますよ。ほんとです。

2011年11月8日火曜日

げろきょ祭り第一部「処女航海」

2011年11月3日、下北沢〈Com.Cafe 音倉〉にてげろきょ祭り「しもきた奇譚」がおこなわれました。
その第一部「処女航海」からの抜粋映像です。
出演は嶋村美希子(セーラー服)、照井数男、ほか現代朗読協会のゼミ生数名。音楽演奏は水城ゆう。
この公演の詳細レポートは、以下のブログ記事(から始まる複数の記事)をご覧ください。

映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」を観た

原題は「Genius Within - The Inner Life of Glenn Gould」。
 平日の午後ということもあって、こんな映画、だれが観に来るんだろう、きっと席はガラガラに違いない、と思っていたのに、行ってみたらほぼ満席でびっくりしたのです。
 渋谷のアップリンク。女性客がほとんどで、しかも中高年が多い。が、男性や若い人もちらほらいます。こんな地味なドキュメンタリー映画に人がはいるというのは、思ったより日本の民度は低下していないということなのか、あるいはグールド人気はあいかわらず根強いということでしょうか。

 映画そのものはそれほど感銘を受けるような内容ではありませんでした。前半の記録映像は大半が「グレン・グールド 27歳の記憶」やDVDなどで観たものです。
 この映画のキモは、グールドの女性関係にスポットをあてたことで、その女性たちをはじめとする実在の人物相手にあらたにインタビュー映像を撮っていることでしょう。私はほとんど知らない話でしたが、いっしょに行ったグールドファンは本などで知っている内容だといってました。
 晩年の孤独や、孤独のなかで残された音は、さすがにグッとくるものがありました。とくに、グールドの名を世界に知らしめたバッハの「ゴールドベルク組曲」の1982年録音のものは、CDで何度も聴いているのに、あらためて映像とともに聴くとそれはそれは美しく、心に染みるものでした。あのような音の、たったひとつでいいから、鳴らすことができれば満足かも、とピアノを弾く人間のひとりとしては思いました。

「天才」というのは、私たちには手が届かない存在ですが、それに感情移入できるのはどういうことでしょうか。
「天才」であれ、そもそも人間であり、苦悩を抱えて生きていた(いる)という点に共感するのでしょうか。
 あさって、私は〈Com.Cafe 音倉〉でピアノを弾きますが、ちょっとグレン・グールドのことを思いながら弾いてみようかなと思ったりしてます。
 音倉ランチタイムコンサートのご案内はこちら

美しく生きる

 数学にとってもっとも重要な価値基準は「美しさ」だと、ある人が書いてました。それを読んでびっくりすると同時に、なるほどとも思いました。たしかに、ある数式を見て、意味はわからなくても「美しい」と感じることがあります。数学者は美しい数式や、美しい解法を求めているのかもしれません。
 では、「美しい」とはどういうことなのでしょう。
 景色や絵を見て「美しい」というのはだれにでもあることです。では、その美しさは人間に共通の価値なのでしょうか。ある風景を見て「美しい」と感じる人もいれば、「醜い」と感じる人もいます。たとえば、荒涼とした砂漠の風景を見たとき。あるいは、ビルが林立した大都市の風景を見たとき。
「美しい」の価値観は確かに人によってまちまちです。しかし、自分のなかにある「美しい」という基準は、他人との比較なしに独立して存在しているようにも思えます。
 この「自分のなかにある美しさ」を規範として行動すると、人生はかなり変化するように思います。
「いま、自分がやろうとしていること、やっていることは、自分にとって美しいことだろうか」
 というふうに。
 ひょっとして、そのように考えながら生きている人は、実はけっこういるのかもしれませんね。

2011年11月7日月曜日

朗読会「槐多朗読」@明大前ブック・カフェ槐多のお知らせ

文芸を現代朗読の手法で読む。
現代朗読とはテキストを素材とした音声表現である。
ある人は笑い、ある人は眉をひそめ、ある人は癒される。
そしてあなたはまったく別の受け取り方をするだろう。

◎日時 2011年11月28日(月) 20:00開演
◎場所 ブック・カフェ槐多 (Book Cafe Kaita)
世田谷区松原2-43-11 キッドアイラックホールB1F
京王線「明大前」駅下車、北へ徒歩1分
Tel : 03-332205564
http://www.kidailack.co.jp
◎会費 1,500円 (ワンドリンク付き)

朗読 野々宮卯妙
演出・音楽 水城ゆう

村山槐多作品をモチーフとして連想された作品群

※ご予約はこちらまで
MAIL : info@roudoku.org
TEL : 090-9962-0848
FAX : 03-6893-0595

◎この会のためのご挨拶
今回、縁あって〈槐多〉というブックカフェを朗読空間として使わせていただけることになりました。そこは地中になかば食いこんだ半地下でありつつ、垂直方向に大きくスペースを取った空間であり、多くの書籍を抱えた書棚が壁面を占める空間でもあります。ある種の個性を主張する「場」に朗読と朗読者がどのように介在しうるか。
また、刻々と移り変わりゆく時間のなかで、朗読者、そしてオーディエンスの心身も変化します。場の空気も変わっていきます。そういうなかで、あらかじめたくらまれ、準備されたものがほとんど有効性を持たないであろうことは容易に想像できます。
このライブは挑戦であり、実験であり、遊びでもあります。繊細な感受性をもって〈槐多〉といういわば「場朗読」をおこなえたら、と私たちは臨んでいます。
(水城)

◎野々宮卯妙
主婦、編集者、ライター、会社経営等を経て現職。代表作に「特殊相対性の女」(2010年愛知県芸術劇場小ホールにて上演)ほか。慶應義塾大学法学部卒。現代朗読協会正会員。ボイスセラピスト、音読療法士(仮)。

2011年11月6日日曜日

テキスト表現ゼミ、12月生を募集します

現代朗読協会では、テキスト(文章/文字)を使った自己表現を研究するためのゼミナールを開催しています。その12月生の募集のお知らせです。
扱うテキストは小説、随筆、詩、シナリオ、評論など、ジャンルを問いません。テキストを用いて自分を他人に伝えることを学び、研究成果をアウトプットしていくためのゼミです。

◎日時 土曜コース 12月3日、17日、24日 18:00〜20:00
水曜コース 12月7日、14日、21日 10:30-12:30
◎場所 現代朗読協会「羽根木の家」
世田谷区羽根木1-20-17
◎参加費 月額10,000円

※申込はこちら
申込講座名を「その他」とし、備考欄に「テキスト表現ゼミ」とお書きください。

※ゼミの模様の一部がPodcastで聴けます。

また、羽根木の家に来れない方のために、Google+のビデオチャットシステムを利用したオンライン参加も用意しています。ご利用ください。

こういう人におすすめです。

・小説家になりたい、BLOGで詩を発表してみたい、シナリオを書きたい、など、文章で自分を表現することを考えている人。
・これまで書きつづけてきたが、なにか壁のようなものにぶつかって思い悩んでいる人。
・朗読や演劇、音楽、美術などのためのオリジナル作品を書いてみたい人。
・その他、テキスト表現や文学に強い興味がある人。

※講師については最初のお知らせを参照ください。

新品の手帳ってわくわくする

 昔から手帳が好きで、いろいろなものを使ってきました。若いころは、手帳というよりノートですが、植草甚一さんに影響されてソニープラザで売っていたものを日記にしていました。
 その後、システム手帳ブームというものがやってきて、私も例にもれずはまりました。さまざまなサイズやメーカーのシステム手帳を試したものです。
 システム手帳の次は電子手帳にはまりました。
 でも、結局は手帳は手書きのものが私にはしっくり来るので、システム手帳にもどりました。フランクリンの分厚いやつを長年愛用しました。が、さすがに重いのとかさばるのとで、思い切ってモレスキンのポケットサイズを使いはじめました。それが意外にしっくりきて、気がつくとモレスキン歴も10年くらいになっているでしょうか。
 いま使っているモレスキン手帳がいろいろ終わりかけるので、次の真新しいものに変えようとしています。限定発売でスヌーピーのキャラクターがカバーに印刷してあるものを大事にとってあったので、それを使おうとしてます。あたらしい手帳って、なんだかわくわくしますね。古い手帳のなかの必要なものを書き移したりして。
 スヌーピーの次は「星の王子様」の限定発売のやつもすでに入手してあるので、何年後かわかりませんがそれを使うのも、気の早い話ですが、楽しみなんです。

2011年11月5日土曜日

朗読から現代朗読への突破口

 某所で朗読の公開講座があるというので、行ってきました。講師は元NHKアナウンサーの、だれもが知っている有名な方。あえて名前は伏せておきます。あまりこういうことは書きたくないんですが、内容は残念のひとことでした。ただのひとこともあたらしいことを教えてもらえなかった。時間を返して〜。
 というのはいいすぎですね。ごめんなさい。私なりに確認できたことは多かったです。
 現代日本の朗読会は放送業界(とその周辺)という狭い世界でしか考えられていないこと。それは「表現行為の追求」としてはとてもレベルの低いものであること。また「著者の思いに寄り添うことができる、それがよい朗読である」という幻想に取りつかれたものであること。
 帰りがけに講師のイントネーションがおかしかったことを確認しあって溜飲をさげているおばさまの集団の声が耳にはいってきました。重箱の隅をつつくような会話はとても美しいとはいえませんでした。このことに象徴される浅いレベルのことをちまちまやっているのが、いまの朗読。これをなんとか生き生きしたものに取りもどしていきたいと思っています。
 現代朗読(コンテンポラリー表現)というものをやっていますが、これをさらに深める鍵は、日本にいにしえからある能・狂言、文楽、歌舞伎、落語などの「語り芸」の身体使いだと思っています。伝統的身体使いを取りこみながら、伝統の枠を超えてコンテンポラリーに行く。これが現代朗読の突破口なのです。

2011年11月4日金曜日

げろきょ祭り「ここから前に向かう歩みをはじめる」

予想外の、しかしおもしろく、楽しく、すばらしいことが次々と起きたげろきょ祭り「しもきた奇譚」も、午後6時半には全終了しました。
 お客さんとお別れし、すみやかに撤収。羽根木での打ち上げが待っています。
 打ち上げに参加できない人たちと下北沢で別れ、みんなでそれぞれ羽根木の家に向かいました。
 羽根木での打ち上げ宴会はもう手慣れたもので、買い出し組、準備組に分かれてたちまち豊富な食べ物と飲み物がテーブルに並びました。そして打ち上げスタート。
 まあ、そのにぎやかなこと。
 ちょうど木曜日の夜で、ビデオゼミの日だったので、Google+を立ちあげたら、たるとさんと、仕事のために下北沢で別れた小梨(福豆々子)さんが接続してきました。が、こちらはにぎやかすぎて、ほとんど音声が聞こえません。そこで、コンピューターをひとりずつ回して、それぞれ話してもらいました。
 大量の食べ物があっという間になくなり、ビールやワインも次々となくなり、追加の買い出し隊が出るほどでした。

 時間の都合で途中で帰ってしまった人もだいぶいましたが、最後にみんなに今回の公演の感想をひとことずつもらいました。
 私にとってはこれ以上ないうれしい時間でした。というのも、私は現代朗読協会を最初に作ったとき、このような集団にしようと思っていたわけではなかったので。まさかこんなすごい、すばらしい集団ができるとは夢にも思わなかったことです。しかし、私の意志とは関係なく、自然に、みなさんのニーズが合わさって、このような暖かく、共感的で、しかも次々と驚くようなあたらしい表現が生まれる場ができていたのです。
 このような場に自分が居合わせることができていることに、私は最高の幸福を感じています。そして、これはまだスタート地点にすぎないのではないか、とも思います。
 現代朗読協会は表現の世界ではまだほとんど知られていません。ライブや公演をやっても、いつも集客に苦労します。が、来てくれた人はかならずびっくりして帰っていきます。まったく観たこともないものを観るからです。
 げろきょはここからスタートして、閉塞感の大きいさまざまなジャンルの表現に風穴をあけていけるのではないかと思っています。その「前に向かう歩み」に、いまのメンバーと応援してくれるお客さんが付き合ってくれるとうれしいんですが。
(おわり)

げろきょ祭り「25人でひとつの演目をフリースタイルでやるってか」

オーラスは、この日まで一度もリハーサルをしていなかったんですが、ぶっつけ本番での「一年生たちとひよめ」です。しかも、これ、出演者25名が全員参加で。
 いったい、ひとつのテキストを25名が打ち合わせもなしで、どうやって読むというのでしょう。私にも予想がつきませんでしたが、これがなんと、おもしろくなったんですね。実際にライブを見た方はわかると思いますが、こうやってこれを読んでいるだけの方は想像つかないことと思います。次回はぜひ、げろきょのライブにお越しください(笑)。
 全員でわっとステージに出て、瀬尾明日香とまぁやが主導権を握ってはいましたが、みんなで一体となって「一年生たちとひよめ」をやり、お客さんも巻きこみ、そして全員で歌をうたって大団円。
 最後のご挨拶でちょっといったんですが、お客さんよりもたぶん出演している私たちのほうがたくさん楽しんでいたのだろうと思います。そういうことに対する罪悪感を持つ人もいますが、私たちはまず自分が楽しむ、そしてその明るく開かれた身体性が観客に伝わったとき、共感が生まれ、お客さんも楽しんでくれる、という考え方なのです。

 ご来場のみなさんに書いてもらったアンケート用紙から、一部、抜粋して紹介します。

■とても楽しかったです。長丁場でしたが、すべて聞きほれてしまいました。これが「身体性」ということだなと目からウロコのロードクでした。演出も興味深かったです。

■朗読の概念を打ち破る様なライブに、正直なところ、驚きました。ああ、これはJAZZだなぁと感じました。しかも私の好きなフリージャズに近いと思います。

■とても楽しませていただきました。絵本をお母さんに読んでもらっているような気持ちになれました。

■朗読会の公演は初めてでしたが、とても楽しく観ることができました。とてもバイタリティがあり、もう少し、広いステージで行なった方がより魅力が増すと思います。

■おもしろかったです。「第三夜」が怖く引きこまれました。「双子の星」好きな話だったので嬉しかったです。素敵でした。生ピアノ、良かったです。

■皆さん、それぞれ個性的で楽しかった。敦子さん、麻奈さん、明日香さん、ひづるさん、たくさんの方々、次もみてみたい方がいっぱい! ありがとうございました。元気になりました。

(つづく)

げろきょ祭り「予定を大幅にオーバーしつつも最後まで持ちきる」

休憩後はいよいよ最後のステージ、第二部の後半です。
 演目は次のとおりでした。

 4. 宮澤賢治「なめとこ山の熊」
 5. 落語&漱石「三年めの第一夜」
 6. 新美南吉「二ひきの蛙」
 7. 新美南吉「一年生たちとひよめ」

 最初の「なめとこ山の熊」は朝ゼミメンバーによる群読です。
 木曜日の午前中に開催されている朝ゼミは固定メンバーで、みんなでひとつの演目を研究し、収録したり、ライブをすることが多いのです。今回もよい機会だということで、みんなで群読をすることになり、数ヶ月前から稽古を重ねていました。
 出演したのは、まりも、前野佐知子、藤沢真弓、日榮貴子、片岡まゆみ、近藤薫、弓子。比較的長くつづけている人もいれば、ごく最近入ったばかりの人もいます。年齢も経験もまちまち。ライブ初出演の人もいて、事前にはかなり緊張していたようですが、本番が始まってしまえばそこはげろきょメンバー。堂々と、多少のミスなど臆することなく、おこなってくれました。そして当然ながら、稽古とはまったく違うピリリとして空気感で、お客さんを引きつけてくれました。

二番めは唐ひづる、福豆々子、玻瑠あつこの、自称「マダムトリオ」による演目。これは落語の「三年め」と漱石の「夢十夜・第一夜」を巧妙に組み合わせた群読で、三人が自分たちで工夫して作りあげたものです。私はこれには演出として手を出してません。ピアノ演奏で参加しましたが、大変おもしろくやらせていただきました。

三番めはゼミ生のふたり、まぁやと瀬尾明日香によるフリースタイルの朗読セッション。
 フリースタイルというのは、だれがどこを読むとか、どう動くとかを、あらかじめ決めておかずに、その場で即興的にお互いの呼吸で組みたてたり、ぶつけあったりしてやる朗読のことです。
 このふたりは大変息もあっていて、ボケと突っ込みというより、ボケとボケみたいな味のあるかけあいが楽しく、ビジュアルもキュートでした。
 実はこのあたりの演目まで来たとき、予定時間を大幅にすぎていて、お客さんも大変だったろうと思うんですが、最後までちゃんとついてきてくれました。午後6時に終わる予定が、全部終わったときには午後6時半を回っていて、私もびっくりしたものです。
(つづく)

げろきょ祭り「年齢は関係ない現代朗読ってなに」

休憩時間にはお客さんと朗読出演者がにぎやかに交流。
 げろきょの特徴として、参加者もお客さんもとても若い、というのがあります。いや、若いというのは正確ではないかもしれません。年齢層にとても幅があるのです。たいていの朗読サークルや公演は年輩の方が多いので、それと比べると断然若い印象があるんですが、実際には幅広い年齢層といったほうがいいでしょう。
 現代朗読をするにはあまり年齢は関係ないのです。年齢ではなく、「その人自身のいま」という精神性・身体性を、飾らず偽りなく提示していくのが現代朗読なのです。年齢は、背が高い/低いとか、髪が長い/短いといったことと同様、あくまでその人の属性のひとつにすぎません。

 で、この場を借りて、今回のげろきょ祭りをいろいろな方に告知するにあたって私が書いた「現代朗読ってなに?」というテキストを紹介しておきます。

◎現代朗読ってなに?
 美術、音楽、ダンスなど、あらゆる表現の分野に「コンテンポラリー」があるように、朗読にもコンテンポラリーがあってもいいじゃないか、ということでスタートしたのが現代朗読です。
 いま、この時代の私たちが、ありのままにおこなう表現。伝統や決まりごとや既成の枠にとらわれない表現。
 私たちがおこなっている朗読では、まず「話者」が最初にあります。そこが伝統朗読との決定的な違いといっていいでしょう。
 たとえば、だれかが芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を読む。話者は、なんのために、なにを伝えようとして「蜘蛛の糸」というストーリーを読むのでしょうか。私たちはまず、その根源的な問いからスタートします。
 だれかが「蜘蛛の糸」を読もうとするとき、「蜘蛛の糸」を読むことでなにを伝えたいのか、という意識を持つこと。これが現代朗読だと私たちは考えています。
 音楽に言葉がかき消されるときがあるかもしれません。しかし、リスナーに言葉の一部が伝わらなかったとか、ストーリーが理解できなかったということは、もはや最重要問題ではないのです。重要なのは、話者の存在がどのように伝わったのか、ということなのです。
 現代朗読における主役は、テキストやストーリーではなく、話者の存在そのものです。

(つづく)

げろきょ祭り「予想できないことが次々と起こる朗読ライブ」

午後2時半に音倉にリターン。ランチタイムコンサートを終えたばかりのいまむらさんがまだ残っていらしたので、少しだけお話をしました。彼女もまた、朗読と共演することがあるということで、言葉と音楽のワークショップを始められたばかりだそうです。どんなことをやっているのか、ちょっと興味をひかれました。
 さて、第二部のセッティング。とくに照明のセッティングを変えました。
 書きわすれていましたが、今回の照明は、農大生のあいさんに全面的にやってもらいました。ほとんど経験がないにも関わらず、いいセンスでやってくれて助かりました。
 第二部は120分を予定していて、長丁場なので、途中で一度休憩をはさみます。
 第二部の前半の演目は次のとおり。

 1. 宮澤賢治「双子の星」
 2. 夏目漱石「夢十夜・第三夜」
 3. 太宰治「待つ」

「双子の星」は「朗読はライブだ!」ワークショップで取りあげていた作品で、出演者もライブワークショップ参加者の10名。
 近藤薫、弓子、みぞれ、佐藤麻奈、中村敦子、青木祥子、なお、鎌田絽未、山本美子、佐藤ピリカ。
 これがライブワークショップの第8期となります。
 ほとんどがライブ出演初体験。そして全6回のワークショップを経たのみでライブ出演。みなさん、さぞかし緊張でドキドキしてかたくなっているだろうと思いきや、開演前も仲良くわいわいとリラックスした様子でした。あとで聞いた話でも、とてもリラックスしながらも集中してやれたということで、これも現代朗読の方法の有効性を証明してくれたいい話でした。
 ワークショップ中の稽古と本番とでは、まったく違った空気感になり、出演者のみなさんがそれぞれの個性をしっかりと表現できていました。

二番目の演目「第三夜」は唐ひづる、福豆々子、玻瑠あつこ、まぁやの4人によるフリースタイルのパフォーマンス。あらかじめだれがどこを読む、どう動く、ということを決めずに、即興的に進めていくのも、現代朗読の方法のひとつです。
 これは私も演出というほどの演出はおこなっていません。出演者4人のまったくの自主性と、内在している表現欲求が「いまここ」で即興的におこなわれていく、スリリングなパフォーマンスでした。

第二部前半の最後の演目は、鎌田絽未と野々宮卯妙による「待つ」のパフォーマンス。これは全面的に私が演出に関わらせてもらって、コンテンポラリー朗読としての一種のチャレンジをおこなった作品です。
 鎌田絽未が読んでいる途中で私のピアノが入ると、鎌田絽未は口パク——つまり朗読はしているけれど声は出ていない状態——になります。私のピアノが止まるとふたたび声を出します。それの交代です。これは、げろきょがよく音楽と朗読のセッションをやるとき、非常にしばしば「音が大きくて朗読の言葉が聞こえなかった」というクレームがくることを逆手に取ったものです。
 朗読をするとは、どういうことなのでしょうか。文字情報を伝えることが朗読することなのでしょうか。私たちはそれは朗読のごく一部であって、もっと豊かなものが朗読者とオーディエンスの間でやりとりされているはずだ、という信念を持っています。そのことを浮きあがらせるためのパフォーマンスでした。鎌田絽未と野々宮卯妙の「からみ」もスリリングで楽しかったですね。

 そして第二部の前半が終わり、約15分の中休憩に入りました。
(つづく)

げろきょ祭り「インターバルと当日パンフレット」

午前の第一部が終わり、いったん撤収。というのも、この日は音倉のランチタイムコンサートの予定がはいっていて、ピアニストのいまむらなおこさんの演奏のために私たちはいったん、会場を明け渡すことになっていたからです。
 南口のダイエーの跡地にあたらしくできた食料品売場に行ってお弁当を仕入れ、羽根木の家にもどりました。午後2時半まで待機です。
 このインターバルを利用して、今回の公演の当日パンフレットのために私が書いた「しもきた奇譚について」「現代朗読の聴き方」というテキストを紹介しておきます。

◎「しもきた奇譚」について
 まずは当公演に足をお運びいただいたことについてお礼を申し上げます。
 現代朗読協会ではこれまでにも大小さまざまな公演/ライブをおこなってきましたが、今回の公演には特別な思いがあります。
 私たちは朗読という表現にもう一度、生命を吹きこもうとしています。狭い場所に閉じこめられてしまっている朗読を、もう一度広い場所に引っぱりだし、ときにはジャンルを超えてのびやかで自由にみずからを表現したいと思っています。
 それは、きっちりと作りあげられ、たくらまれたものではなく、「いまここ」にある私たちとあなたがたの間に起こること、その手触りを大切にしていく行為です。どうぞみなさんも「いまここ」の手触りをじっくりと味わっていただけたら、と思います。
 これが私たちの表現であり、くびきから解き放たれた朗読です。

◎現代朗読の聴き方
 わざわざこんなことを申し上げるまでもないと思いながらも、あえて書いています。というのも、私たちは自分たちの成長ばかりでなく、私たちを支えてくれるオーディエンスのみなさんとともに表現の場を育てていきたいと思っているからです。
 まず、申し上げておきたいのは、
「私たちは観客に対する自分たちの〈優位性〉を誇示するためにステージに立っているわけではない」
 ということです。
 多くのパフォーミングアートが、演者の〈特別性〉〈優位性〉を観客に示そうとします。たとえばだれもが絶対に弾けないような難曲を完璧に弾きこなすピアニスト。だれも踊れないようなテクニックを披露するダンサー。複雑で困難な立ち回りを演じる役者。観客はそれを見て驚嘆し、自分には絶対にできないパフォーマンスに対して賞賛を送ります。
 しかし、私たちは違います。私たちは、自分の「いまここ」のありのままを誠実にみなさんに提示することから始めます。私たちとみなさんはおなじフロアに立ち、私たちが提示する生の声や動きを共有し、味わいます。
 みなさんから入場料をいただいてますが、それもパフォーマンスに対する「対価」としていただくのではなく、この場、つまり私たちとみなさんが朗読表現を通して共感するための場、を成立するために必要な「経費」としてお願いしています。
 このようなことにご理解いただいて、ともに「作品」を作るつもりでご参加いただければ、どんなにうれしいかわかりません。

(つづく)

げろきょ祭り「セーラー服の肉体朗読」

午前11時、げろきょ祭り「しもきた奇譚」第一部がスタート。
 嶋村美希子のファンや、照井数男の知り合いなど、男性客が多いのはげろきょにはとても珍しい光景です。
 第一部の演目は次のとおり。

 1. 夏目漱石「夢十夜・第七夜」
 2. 水城ゆう「二匹と猫の冒険」
 3. 水城ゆう「ロンリーセーラー」
 4. 太宰治「女生徒」

まずいきなり、嶋村美希子がセーラー服を着て登場。ステージ中央に置いたストゥールによじのぼり、あぐらをかいて座ります。すでにその時点で観客の目は釘付けに(笑)。
 その背後に照井数男が立ち、「第七夜」がスタート。私がシナリオ化し、演出したものですが、椅子という「定点」からスタートして、次第にふたりが螺旋を描くように外側に向かって動いて(読んで)いくものです。
 最後はふたたび中心に向かって収束して、そのまま次の演目「二匹と猫の冒険」へと続きます。これは私のテキストですが、セリフだけの、朗読というより演劇に近いものです。会話がつづき、そこへゼミ生4人が次々と飛びこんできて、不条理な内容で終わるというもの。
 次の「ロンリーセーラー」は私がテキストを書いて演出した「コンテンポラリー朗読」。最初はフィットネスで使うステッパーを踏みながらやってもらう計画だったのですが、ステッパーが調達できなかったため、脚立を使うことになりました。脚立を嶋村美希子がゆっくりと登ったり降りたりしながら、ぶらさがっている原稿を読むというパフォーマンス。
 なるべく日常パターンではない動きを作りたかったので、嶋村は足を使わず腕だけで登るような動きを工夫しました。そのせいで彼女の両足は痣だらけになってしまいました。あとでだれかに「あれは労災を適用できないのか」といわれてしまいましたが。おかげで非常におもしろいパフォーマンスになりました。そしてもちろん、この際、ストーリーやテキスト内容はあまり重要ではないのです。言葉が人の身体からどのように生まれてくるのか、そしてその身体はどんな人のものなのか、パフォーマーそのものの運動と存在を観客に伝えるのが目的です。
 最後は照井数男がふたたび加わっての「女生徒」。なかなかおもしろい呼吸でふたりがからんでいます。私も演奏で参加していましたが、これまで何度かやったリハーサルとはまったく違った音を使いたくなりました。静かな、去年ここでやった「特殊相対性の女」のような雰囲気になっていったと思います。
 若手によるパフォーマンスでしたが、全体的に大変深みのある、クオリティの高いものになりました。終わってから、皆さんから大きな拍手をいただくことができました。

 以下、ご来場の方からいただいた感想のなかから、いくつか抜粋で紹介しておきます。

■一時間、飲み物に手を付けるのも忘れるほどくぎづけになりました。朗読もBGMも照明効果も、どれも素晴らしかったです! 演じられた朗読劇は四つとも空気が違っていて、とても密度の濃い一時間を過ごせました。

■すごくおもしろかったです! 少し声が聞き取りにくい所があったので、そこを直したらもーっと良いと思いました。キャラクターが良い。二人の息がびみょーにズレてる感じもか人的にはツボで、おもしろかったです! 来て良かったー。これからもがんばってネー。あ! 音楽も最高でした!

■ストーリーというより登場人物の話し方や動きに目がいってしまいましたが、音楽と共に独特の世界にひたってしまいました。

■テルイ君。キャラがとても立っていて面白かった。最初の20分くらいのところは、2人ともハクシン。とても感動しました。

■午前中の舞台を見たが、非常におもしろかった。朗読と伺っていたので、もっと座っていたりしていると思っていたが、動きがあり、イメージしていたものと全く違った。パンフレットに今回の題材のあらすじでもあればもう少し内容がわかりやすく、話の中に入っていきやすかったと思った。

■展開が様々ですごくおもしろかったです。いろんな情景が浮かんできて、頭の中にいろんな世界が広がりました。ステキな時間をありがとうございました。

■イメージとして知っている「朗読」よりは「演技」に近い印象を受けました。もちろん、朗読に演技の要素が全く無いとは思いませんが、大変刺激的な感動をもらいました。おもしろかったです。

■以前も似たような会を拝見させていただきましたが、今回の方がおもしろく感じました。日頃なかなか朗読?を聞くことはないので、新鮮だったし、いろいろな方にも見てもらいたいと思いました。これからも頑張ってください。

(つづく)