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2011年11月24日木曜日

日本の語り芸の伝統の延長線上に現代朗読を置く

いま、日本で普通におこなわれている朗読会や朗読ライブを見ると、たいていは朗読の教室や勉強グループの人たちが発表する形で行なわれているものが多いようです。たまにひとりで企画したり、同好の士が集まって開いたりするものもあるようです。いずれにしても、出演する人はなんらかの形で朗読を「習った」あるいは「勉強した」人が多いようです。我流で始めて、人のことなんか我関せずとオリジナリティを打ち出して突っ走っている人もなかにはいるんでしょうが、私はあまり見かけたことはありません。
 では、その朗読を「習う/勉強する」というのは、なにを「習う/勉強する」ということなのでしょうか。

 私は朗読教室に行ったことはありませんが(なにしろ自分では朗読をやったことがないので)、聞いたところでは、日本語の「正しい」発音発声をまず教わるそうです。つまり、正しい母音や子音の発音や滑舌、共通語アクセント、鼻濁音、無声化などの技術を習います。
 ほかにも呼吸や姿勢をやったり、文芸作品の読解をやったりもするようですが、基本的におこなっているのは「放送技術」の習得といっていいようです。
 この放送技術はどこから来たものなのかというと、言葉どおり、ラジオやテレビの放送が始まったとき、その放送の現場から始まったものです。大正から昭和にかけて、まずラジオが普及しました。戦後、昭和30年代に今度はテレビが全国に普及しました。放送メディアというものが出現したわけですが、それにともなってアナウンサーやナレーター、声優といった、放送に関わる専門職も発生しました。
 全国津々浦々に電波が届くわけですから、話の内容が全国の人に伝わらなければなりません。そのために、放送のための話し方「放送技術」が生まれ、工夫され、現在にいたっているわけです。
 ラジオでは朗読も流れ、それは彼ら専門職が中心となってやがて朗読会も開かれるようになりました。それを聞いた一般人も、自分も朗読をやりたいと思い、彼らに習うようになっていきます。朗読を習いたいという需要が、朗読講座や教室の需要を生み、放送局の朗読指導講座やカルチャーセンター、ナレーター事務所の養成所といったところでも、日本語の話し方・朗読の技術の教育がおこなわれるようになりました。
 これが現在の朗読の普及のありかたです。
 こうやって見てくるとわかるように、いまの日本で一般的におこなわれている朗読は、放送技術をもっとも大きなよりどころとしています。「表現」としての朗読について深く思考/試行されているわけではありません。

 一方で、日本ではいにしえから豊かな「語り」の芸が脈々と引き継がれています。もっとも古くは「語り部」でしょう。一家のおばあちゃんが語っていたものから、専門職までさまざまな語り部がいたことでしょう。
 平安時代には琵琶を演奏しながら朗々と語る(うたう)琵琶語りが各地をめぐりました。
 それから能や狂言が生まれました。これは舞台表現の始まりです。私が「舞台」といっているのは、表現のための設置する「場」のことです。かならずしも文字通りの「舞台」がなければならないわけではありません。
 その後、浄瑠璃・文楽が生まれました。そこには専門的な語り手がいます。また江戸時代には、演劇に近いものですが、やはり声も使う舞台表現といっていい歌舞伎が生まれました。落語や講談も江戸時代に生まれました。
このように、「語り芸」の歴史が日本にはあるのです。
 朗読はこの語り芸の流れの延長線上にあるといえるでしょうか。
 私はいえないと考えています。朗読は放送メディアが生まれたことによって突然出現した「技術」です。技術的な面から「表現」へのアプローチは確かにあります。文芸作品を深く読みこんで、なんとか「表現」へと高めようと努力している人は多くいます。が、私はこの「放送技術」を出発点とした一般的な朗読にはどうしてもなじめないのです。

 では、現代朗読はなにをよりどころとしているのでしょうか。
 現代朗読では「表現」が前提としてまずあります。しかもその「表現」は、多くのコンテンポラリーアートがそうであるように、個人の唯一無二の存在そのものを伝えることを目的にします。技術もやらないことはありませんが、技術はあくまで表現に付随するものであり、下位レベルです。
 表現といえば、日本には古来から「語り芸」という表現の立派な歴史があります。現代朗読も、実はこの伝統から学ぶべきものを学び、この語り芸の延長線上に朗読表現を起きたいと思っています。しかし、あくまで「現代」の「いまここ」に焦点をあてた表現ですから、伝統技能を学ぶということではありません。日本が長らくつちかってきた表現の思想、そして身体使いの方法を学びながら、なおかつコンテンポラリーでなにものにもとらわれない表現を模索しようというのです。
 こう考えることで、私のなかで違和感がすっきりと解消しました。いま、現代朗読が向かうべき方向性がはっきりしたと感じています。