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2011年5月31日火曜日

繭世界

水色文庫の新作「繭世界」をupしました。
段組みのある詩なので、40字以上表示できる画面でお読みください。できれば等幅フォントで。

この詩は、8月7日に一宮のギャラリーの作品展のオープニングセレモニーで、榊原忠美氏ともうひとりが朗読パフォーマンスを行なうためのテキストとして書きました。

放射線被曝を軽減するためのいくつかの方法

ある程度の放射線被曝が懸念される地域から「逃げろ」という人がいて、とくに子どもを避難させたり移住させたりする活動をしている人がいる。
俳優の山本太郎は事務所をみずから辞めてまでして、活動をつづけている。
頭がさがる思いだ。
一方でさまざまな事情や、みずからの考えで、その地域にとどまることを選択した人たちも多い。むしろそういう人のほうが多いだろう。
福島県でなくても、関東周辺はいくらかずつ線量値があがっているので、たとえば東京にとどまる人だって放射線被曝のことを知らんぷりするわけにはいかない。

原発が危険だ、放射能が危ない、という大声での危機的な言葉や情報はよく耳にはいってくるが、一定の放射線量が観測される地域でどうやって安全に生活したらいいか、という情報はなかなかはいってこない。
しかし、そういう情報を出しつづけている心優しい人たちもいることを、私は最近知った。大きな声を聞くのではなく、かすかな声に耳をすましてみたら、聞こえはじめたのだ。
今後はそういう情報を見つけたら、みなさんと共有すべく、なるべく発信していこうと思う。

そして、今日見つけたもの。
「脱原発ポスター展」というサイトに、食べ物についてなにを気をつければいいのか、かわいいインコのイラストで説明したポスターが掲示されていた。
子どもでもわかるような平易なポスターで、しかししっかりと情報が描きこまれている。
「だって逃げられないんだもん」
「安全な土地の食品が手に入れられればいいけど、むりな場合」
「放射能を含みやすい食品/放射能を含みにくい食品」
などといった説明がある。
野菜などの扱い方も具体的に役に立つ。

もうひとつ。
「できることから、はじめたい」というブログ
これも食品に関する有益情報で、イラスト付きで「放射能を少なくする下ごしらえ」などが紹介されている。
いずれも女性の視点だなあ。
生活者の視点が必要だし、優しく有益な情報だし、声高でない。
ほかにもこういった情報を見つけたら、ぜひ教えてください。集約していきたいと思います。

朗読パフォーマンス「気の毒な奥様」の前のひととき

大阪から来たナレーター/朗読者の窪田涼子と、羽根木の家で朗読パフォーマンス「気の毒な奥様」を映像収録しました。
原作は岡本かの子。
その前に、Ustream番組「水城ゆうチャンネル」用にトークも収録しましたが、その部分のみPodcastでも配信します。

ケロログ「RadioU」で配信中。

「水城ゆうチャンネル」該当バックナンバーはこちらから視聴できます。

朗読パフォーマンス「気の毒な奥様」の映像はこちらから視聴できます。

朗読パフォーマンス「気の毒な奥様」朗読:窪田涼子

岡本かの子作「気の毒な奥様」をテキストに窪田涼子が朗読パフォーマンスをおこないました。
場所は羽根木の家。
パフォーマンスとともにおこなった窪田涼子と水城ゆうのトークは、Ustreamのバックナンバーで観ることができます。そちらも合わせてどうぞ。


Ustream番組「水城ゆうチャンネル」5回め

今日で5回めとなるUstream生番組「水城ゆうチャンネル」、今日も無事に配信できました。
先日5月25日に下北沢〈Com.Cafe 音倉〉でおこなった音楽ライブ「初夏うふ2011」の前半部分を、ノーカットでお送りしました。

「水城ゆうチャンネル」は毎日午前10時からオンエア(オンライン)です。

今日の放送を見逃した方は、バックナンバーをどうぞ。
こちらから視聴できます。

2011年5月30日月曜日

事故原発の近接地域にとどまることを決意した人たちへ

福島出身の知り合いが、肉親の言葉をTwitterで紹介していた。
「放射線のことに詳しい人から避難したらっていわれたけど、これまでと変わらず生活すると決めてそう答えると、ぱたっと話をしてくれなくなる」
私は放射線のことには詳しくないけれど、原子力発電所については多少人より知識があると思っているので、これまで私なりに情報を整理していろいろと流してきた。そのなかには放射線に関することもある。
なので、なんとなく責任を感じて胸が痛む。
以下、私なりに、被曝地域にとどまると決意した場合、どのように対処すればいいのか、考えてみた。
そしてこれはきちんとわかってほしいのだが、私はこのことに関して、自分を部外者とは思っていない。コトは福島だけではないのだ。
たとえば、今日は台風が去って、北東からの強い風が吹いている。茨城、栃木、埼玉、千葉、神奈川、そして東京ももちろん、かならず線量値があがってくるだろう。線量値が多い/少ないではなく、放射性物質に対する不安はだれもが抱える問題だ。とくに小さなお子さんをお持ちの方はその心配も並大抵ではないだろう。私の知り合いにも子どもを抱えて不安を覚えている方が何人もいる。
当事者なのだ。
以下、当事者として考え方をまとめておきたい。

まず、放射線被曝といっても、その被曝量によって問題は著しく異なる。ここがまず事態をわからなくしている。
そして線量値もさまざまな単位で表現される。ますますわかりにくい。
確実にいえるのは、原発の敷地内で起こっているような高被曝水準は、よほどのことがない限り周辺地域でも可能性がきわめて低い、ということだ。
ここで問題になっているのは、低水準ではあるけれど長期に渡って浴びつづけた場合、どうなるか、ということだ。
具体的には発ガン率ということになる。ガンになる確率とその時期だ。

国立がん研究センターのデータを元に考えてみる。
発ガンリスクについてのデータがある。これは、ある原因がある人とない人とで比べた結果を倍率で示した数値だ。
たとえば煙草を吸っていない人と吸っている人とでは、発ガンリスクで1.6倍とある。
ここに興味深いデータがいろいろとあるので、ちょっと紹介しておこう。

 受動喫煙 1.02〜1.03
 野菜不足 1.06
 塩分のとりすぎ 1.11〜1.15
 運動不足 1.15〜1.19
 肥満 1.22
 やせすぎ 1.29
 毎日の飲酒 1.4
 喫煙 1.6

肥満よりやせすぎのほうが発ガンリスクが高い、というのにも驚く。
で、放射線被曝による発ガンリスク。

 100〜200ミリシーベルトの被曝 1.08

この数字を高いとみるかどうか。
年間100ミリシーベルトの放射線量のある土地で生活しているとして、発ガンリスクはそれでも塩分や運動不足や肥満ややせすぎよりも低い値とされている。
ましてや飲酒や喫煙となると、はるかにリスクは高い。
たとえば福島市や郡山市に住みつづけることを決めた場合、どのくらいの被曝量になるか、まずそれぞれしっかりと計算してみる必要がある。
原発事故がいつ収束するかわからないので、一生住みつづけたとしてその被曝総量がどのくらいになるかわからないし、余命によっても変わる。
が、おそらく、ほかの発ガン要因を減らすことで放射線被曝による発ガンリスクを相殺することは可能ではないか。
もちろんこれは数字の計算で、実際にはどうなるか不確定要素は多いと思うが、少なくともそのような考え方はできる。
煙草をやめる、酒をひかえる、運動不足を解消する。要するに生活習慣を改善する。食事のバランスに気をつける。規則正しい生活を心がける。
そもそも健康を維持するためにはあたりまえのことだ。
放射線被曝は、その場から逃げる以外には自分でどうすることもできない。完全に受動的なものだ。ならば、自分でどうにかできること、能動的な対処を積極的におこなって、元気で明るく生活していきたい。

以上、無責任なことをいいやがる、とおしかりを受けることを覚悟で、ひとつの考え方として書いておく。
私も東京にいる以上、この考え方でやっていく。

■窪田涼子と羽根木の家で縁側トーク(後)

大阪から来たナレーター/朗読者の窪田涼子と、羽根木の家の縁側で縁側トークしました。
その後編です。

ケロログ「RadioU」で配信中。

Ustream番組「水城ゆうチャンネル」4回め

録画に一回失敗したので、収録ずみのトークと朗読パフォーマンス部分のみ、再放送しました。
窪田涼子とのトークと朗読パフォーマンス。朗読は岡本かの子の「気の毒な奥様」というテキストを使いました。

放送スタートするまでの間に音楽を流す方法を思いつきました。明日、できたらやってみます。
毎日午前10時からオンエア(オンライン)です。

今日の放送を見逃した方は、バックナンバーをどうぞ。
こちらから視聴できます。

「読み聞かせ」の本質的な目的

 二十代のなかばから朗読のライブパフォーマンスや公演をおこなうようになり、近年は朗読や音読の指導、演出、ワークショップなどで多くの地域や学校に行く機会が増えました。しかし、読み聞かせの指導に関わるようになったのは、実をいえば最近のことなのです。
 ほんのここ数年のことなのですが、そういう私が読み聞かせについての本を書こうと思ったのは、ある危機感を覚えたからです。
 読み聞かせの現場でいくつかびっくりするようなことに遭遇しました。
 私に筆をとらせるきっかけを作ったいくつかのエピソードのうちから、ひとつの例をあげてみましょう。
 その小学校では月に一回、給食後の昼休みの時間を利用して、お母さんたちの読み聞かせのグループが交代で読み聞かせをしています。図書室をちょっと広く片付けて、どの生徒も自由にそこに来てお話を聞けるようになっています。一年生から六年生までまちまちの年齢の学童が五十人以上、ときには百人近くもやってきて、とても盛況です。
 時間が限られているので、一回にふたりのお母さんがふたつのお話をそれぞれ分担するということです。
 私はそれを見学させてもらったのですが、見ているうちにとても奇妙なことに気がつきました。読み聞かせをしているどちらのお母さんも、絵本を読んでいる顔を決して子どもたちのほうに向けようとはしないのです。
 とても変な印象を受けた私は、終わってから読み聞かせグループの皆さんにそのことを訊いてみました。返事はびっくりするようなものでした。
「区の読み聞かせ講座で講師の先生からそのように教わった」
 というのです。
 具体的には、読み手のお母さんが絵本から顔を子どもたちのほうに向けると、子どもたちの注意も読み手に向いてしまう。そのため、絵本のなかの世界から注意がそれて集中できなくなるのでよくない、というのです。そのために読み手は決して子どもたちの顔は見ずに、ただ絵本だけを見て読むように、と教わったというのです。
 区の講師の方がそのような読み聞かせの方法を多くのお母さんがたに教えているのだとしたら、本当に驚くべきことだと思います。

 読み聞かせはなんのためにおこなうものなのでしょうか。
 家庭内でお母さんやお父さんや家族が、まだ文字が読めない小さな子どものために本を読んで聞かせる、ということがあります。これが読み聞かせの原型、基本形ではないかと思います。なぜなら、これはごく自然な行為で、親が子どもを大切に思うところから始まることだからです。食事をあたえたり、衣服の世話をすることとおなじことです。
 つまり、自然な愛情表現であり、大人の側から見れば、
「この子を愛している。大切に育てたい。よい子に育ってもらいたい」
 という保護と養育のニーズから生まれた行為です。
 子どもの側から見れば、自分が愛されており、安心できる場に保護され養育されているということが確認できる行為です。
 ここで重要なのは、
「なにが読まれているか」
 ではなく、
「どのように読まれているか」
 なのです。
 どれだけ子どもに役に立つ内容の本であったとしても、それがおざなりな愛情でぶっきらぼうに読まれたのだとしたら、子どもはどう感じるでしょうか。たとえお母さんが自分の好きな絵本を読んでくれたとしても、ケータイ電話を片手にとか、テレビを見ながらとか、家事の合間にしかたなく、といった風だとしたら、子どもはどう感じるでしょうか。
 たしかになかにはこういうお母さんもいます。家事が忙しいあまり、仕事が忙しいあまり、子どもにきちんと向き合い、そのためだけに時間を確保するのが難しい。もし確保できたとしても、心はもう自分の次の用事のことに向けられていて、読み聞かせの際もきちんと子どもに向かい合っているわけではない。
 大人がそういう態度でいるとき、子どもはしっかりとそのことを感じています。論理的には理解していなくても、無意識や全身でそのことがわかっています。
 読み聞かせの時間は、子どもにとって、自分が親から、家族から愛されており、安心・安全の場にいることを確認できる大切なときなのです。
 それがまず、読み聞かせという行為の前提にあると、私は考えています。それは学校でもおなじことです。

 子どもがすくすくと豊かな心で育つには、安心できる安全な場所と、大人からの無償の愛情が不可欠です。これらのひとつでも欠けるとどうなるか。だれでもたやすく想像することができるでしょう。
 子どもたちにはいろいろな機会で大人からの愛情と質のよいつながりを持つ必要があります。核家族化が進み、また仕事に忙殺される親が増えている現代社会において、家庭だけでは不足しがちのサポートを、学校や地域の活動のなかでおこなう必要が出てきています。その活動の一環として、読み聞かせの運動もあります。
 ここで最初のエピソードに戻ります。
 区の読み聞かせ講座の講師が教えていたことは、
「絵本の内容だけの子どもたちを集中させる」
 ための方法でした。
 たしかに絵本の内容は大切だし、なかにはぜひ子どもたちに聞いてもらいたい、見てもらいたいすばらしい作品もあるでしょう。しかし、それは大人の側の都合です。
 大人はいろいろな都合で、たくらみをもって読み聞かせをしてしまいます。動物や植物の名前、あるいは英単語などの有用な情報を与えたい。教訓的なストーリーを聞かせたい。複雑な情報を処理できるようになってほしい。など、など。
 そのたくらみは、残念ながら、子どもたちには見抜かれています。自分が子どもだった頃のことを思い出してみてください。大人がなにかたくらみをもって自分になにかしようとしてきたとき、思わず身構え、警戒した経験はありませんか? そして大人に対する不信感をつのらせていき、中学生のころには決定的に親を信じられなくなっていた。それはなにも思春期のせいばかりではなかったでしょう。
 現代はあまりに、子どもに「学習効率」や「成長効率」を求めすぎます。そのために犠牲になっていることのなんと多いことか。子どもはもっとゆっくりと、愛情に包まれて成長すればいい。たとえめまぐるしい現代社会のなかにあっても。いや、むしろ、めまぐるしい現代社会のなかにあるからこそ。

 読み聞かせの時間に子どもたちが受け取るのは、表面的には絵本のストーリーや絵などの楽しさです。夢中になってそれを受け取っています。しかし、それ以上に子どもたちは多くのことを受け取っているのです。大人が「どのように読んでくれているか」という情報です。
 それは大変豊かなな情報です。人間のコミュニケーションにおいては「その言葉がどのように発せられているか」が情報のほとんどを占めているといっていいほどです。人は無意識にその情報を渇望し、全身で受け取ります。子どもたちも同じで、「なにが読まれているか」よりも「どのように読まれているか」という情報をたくさん受け取っています。
 絵本から目を離さず、自分たちのほうをまったく見てくれない大人からは、どのような情報を受け取るでしょうか。
 逆に、絵本を読みながら、しばしば自分たちのほうを見て、「聞いてくれているか」「楽しんでくれているか」「退屈している子はいないか」気にしてくれている大人からは、どのような情報を受け取るでしょうか。
 読み聞かせにおいてもっとも大切なことは、読み手である大人があふれんばかりの愛情をもって「絵本を読む自分自身」を子どもに伝えようとすることです。そのことで子どもはお母さんや大人たちとのつながりを確認し、安心し、豊かなものを受け取ってゆっくり成長します。
 そのとき、大人の側の都合やらたくらみは邪魔になるばかりです。子どもに有益な情報を与えてやろう、この歴史のことを知っておけば学校の成績に有利になる、英語を早くからおぼえさせよう、悪い話は聞かせないでおこう、そんなたくらみは読み聞かせという豊かなコミュニケーションの場に持ちこんではいけません。
 本当に大人が子どもたちを包みこんで、自分自身も楽しみながら質の高いコミュニケーションを取ること。お互いに心を開いて、物語と、物語を読んだり聞いたりしている自分たち自身を楽しむこと。これが読み聞かせの本質的な目的だと私は考えています。

2011年5月29日日曜日

窪田涼子と羽根木の家で縁側トーク(前)

大阪から来たナレーター/朗読者の窪田涼子と、羽根木の家の縁側で縁側トークしました。
その前編です。

ケロログ「RadioU」で配信中。

Ustream番組「水城ゆうチャンネル」3回めを放送しました

今日で3回めとなるUstream生番組「水城ゆうチャンネル」、今日も無事に配信できました。
音声セッティングがだいぶまとまってきたので、今日はピアノを接続して、ピアノ演奏をおこなってみました。童謡の「雨降りお月」です。
ピアノといっても、デジタルピアノのキーボードを使っているだけで、音はピアノから出ているわけではありません。midiで MacBook Air とつないで、MainStageという演奏用音源ソフトから音出ししています。なので、かなりいいグランドピアノの音が鳴っています。

放送スタートするまでの間、音声は消して映像のみをしばらく流しているんですが、ここになにか音楽を流せたらいいですね。
次回以降の課題です。
毎日午前10時からオンエア(オンライン)です。

今日の放送を見逃した方は、バックナンバーをどうぞ。
こちらから視聴できます。

2011年5月28日土曜日

朗読パフォーマンス「祝祭の歌」の前のひととき

大阪から来たナレーター/朗読者の窪田涼子と、羽根木の家で朗読パフォーマンス「祝祭の歌」を映像収録しました。
その前に、Ustream番組「水城ゆうチャンネル」用にトークも収録しましたが、その部分のみPodcastでも配信します。

ケロログ「RadioU」で配信中。

「水城ゆうチャンネル」該当バックナンバーはこちらから視聴できます。

朗読パフォーマンス「祝祭の歌」の映像はこちらから視聴できます。

朗読パフォーマンス「祝祭の歌」朗読:窪田涼子

水城ゆう作「祝祭の歌」を窪田涼子が朗読パフォーマンスをおこないました。
場所は羽根木の家。
ちょっと変わった演出で、まさにコンテンポラリー朗読。
パフォーマンスとともにおこなった窪田涼子と水城ゆうのトークは、Ustreamのバックナンバーで観ることができます。そちらも合わせてどうぞ。


Ustream番組「水城ゆうチャンネル」2回めを放送しました

昨日から始めたUstream生番組「水城ゆうチャンネル」を、今日も無事に配信しました。
できるだけ毎日配信しようと思ってますが、どこまでつづくことやら。ネタがつきたら、ピアノライブをしようと思っています。

そのために、今日は内蔵マイクではなく外部マイクから音声入力ができるようにセッティングしました。
これができると、今度はマイクとキーボード音源をミキサーに入れて、ミックスした音声を流せるようになります。
また、音質も外部マイクのほうがクリアですしね。
徐々に進化させていこうと思ってます。
毎日午前10時からオンエア(オンライン)です。

今日の放送を見逃した方は、バックナンバーをどうぞ。
こちらから視聴できます。

2011年5月27日金曜日

Ustream番組「水城ゆうチャンネル」始まりました

Ustreamを使ったストリーミング生番組「水城ゆうチャンネル」を始めました。

私からの私信、日頃考えていること、ピアノ演奏、ゲストとのトーク、朗読パフォーマンス、ライブ映像、告知など、いろいろなものを流していく予定なので、ぜひチェックしてみてください。
保存しているけれどまだどこにも出していないような蔵出し映像も、今後出していく予定です。
毎日、午前10時に生放送する予定です。
午前10時にそんなものを見ている余裕はない、という方のために、番組はUstreamのほうで録画されてますので、そちらをご覧ください。
ご要望やゲスト出演も受け付けてます。気楽にコンタクトしてください。

水城ゆうチャンネル
今日の番組の録画

ひさしぶりにUstream放送します(10:00から)

窪田涼子と私のトーク、および「祝祭の歌」の朗読パフォーマンス映像を、これからUstream「水城ゆうチャンネル(mizuki-u)」で配信します。
今後、ちょくちょく、ここから生配信していきます。

水城ゆうチャンネル

本日5月27日の放送は 10:00から。
録画モードで放送しますので、見逃した方も後でどうぞ。

2011年5月24日火曜日

テキスト表現ゼミ秀作選「美齢は遠くへ行きたかった」

毎週日曜日の夜、羽根木の家でおこなっている「テキスト表現ゼミ」の習作から秀作を不定期に紹介していく。

昨日も書いたように、4月から始めたこのゼミの参加者がメキメキと腕をあげている。まるで「メキメキ」という音が聞こえそうなほどだ。
「同人誌でも出すか」
という話も出たが、お金がかかるので、電子書籍にしよう、ということになった。しかし、その前に手っ取り早くブログで秀作を発表してみることにした。私のコメント付きで。
かつてNIFTYでやっていた「小説工房」のスタイルだ。もっとも「小説工房」では商業出版を目指したエンタテインメント小説を扱っていたのだが、テキスト表現ゼミにはそういう制約はない。「表現」としてのテキストを扱うのだ。

まずは野々宮卯妙の作品を取りあげたい。
これは「三つ編み」というテーマで1000字、という制約を与えてみんなに書いてきてもらったもののひとつだ。
結末は特異なアイディアというわけでもないが、そこへ至る描写のなかに、丁寧に主人公の手触りを織りこんである。三つ編みが彼女にとってどれほど大切なものか。そして彼女の貧しい生活。中国を舞台にしたというのも、そのリアリティを強固なものにしている。
彼女の存在に読者はより沿い、彼女の痛み、悲しみを共有する。体験としてのテキスト読みが提供されている。すぐれた作品だ。

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「美齢は遠くへ行きたかった」(三つ編み)

 美齢《メイリン》は毎日朝七時に、自転車で工場に出勤します。
 家から三十分、黒くて重い自転車のペダルをぐんぐんと踏みます。
 お給料をためて、フレームが細くて軽い、赤い自転車を買いたいと思うこともあります。でも、買い物は我慢しています。貯金をするからです。
「そんなに貯めてどうする。服も買わないくせに。使いみちがないのなら、もっと家に入れろ」
 お父さんが言います。
 でも出しません。
 これは、美齢の結婚資金なのです。でも、そのことは誰にも言いません。馬鹿にされるに決まっているからです。
 美齢は、学校の成績は良い方でした。でも、上の学校には行きませんでした。両親は学費を出してくれませんでした。
 都会の子に生まれればよかった。
 一人っ子には祖父母の四つのポケットがあると言うけれど、それは都会の裕福な家庭の話です。美齢の祖父母はもう亡くなったし、生きていたとしても貧しい農民でしたから、美齢のために、それも教育のためにお金を出してくれはしなかったでしょう。
 だから美齢は、工場に勤めて自分でお金を稼ぎ、貯めます。
 美齢は、長い長い、長い髪を三つ編みにしていました。
 小さいころ、髪の毛が売れるという話を聞いて、伸ばし始めたのです。
 自分でお金を稼ぎたいと思ったとき、どうしたら稼げるのかわからなかった美齢が、唯一できることでした。
 それからずっと切りません。毛先が痛むので思いのほか伸びませんでしたが、三つ編みにしてほとんどくるぶしにつくほどでした。
 何がなくても、この毛さえあれば。
 朝七時、美齢は工場に出勤しました。
 機械を動かし、監視しながらラインからこぼれたものをラインに戻します。
 今日は、機械の調子が悪いようでした。ラインからこぼれるものが多く出ました。美齢はいちいちラインへ戻すたび、監視の集中力が切れるので、不安が増してくるのを感じました。
 気付くと、こぼれたものがどんどん先へ流れていました。
 美齢は、ふだんほとんど動いたことのない自分の立ち位置から、五歩、ラインに沿って踏み出しました。
 それは、美齢が自分で初めて踏み進めた五歩でした。
 五歩歩いたところに、回転ギアがありました。次のラインへの接続ポイントでした。
 こぼれたものをラインへ戻して、美齢が元へ戻ろうと振り返った時、ギアに触れたものがありました。
 美齢の長い長い、長い三つ編みが、ギアにしゅるりと巻きつきました。
 ギアはしゅるしゅると回って三つ編みを巻き込んで行きました。
 声を出す間もなく、美齢はギアに噛まれて行きました。
(了)
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※テキスト表現ゼミは、随時、参加者を受け付けています。
 問い合わせ・お申し込みはこちらから。

2011年5月22日日曜日

祝祭の歌

水色文庫に新作「祝祭の歌」を掲載しました。
「初夏うふ2011」で披露した作品です。

2011年5月21日土曜日

「初夏うふ2011」終了、ご来場感謝

10時半、丸さんが車で羽根木の家まで来てくれる。機材の運搬を手伝ってくれる。
今回は機材は少なく、シンセキーボードやMacが2台、その他ケーブル類がいくらか。それでも車で運搬できるのはありがたい。野々宮も同乗して、下北沢〈Com.Cafe 音倉〉へ。11時、予定時刻どおりに搬入。すでに伊藤さやかと唐ひづるが来ていた。
ステージ上のピアノを少し移動し、シンセとMacのセッティング。音響テスト。すぐに終わり、ざっとリハーサル。朗読とはほとんど合わせていなかったのだが、リハでもごく簡単に合わせたのみ。
私が昨日書いた「祝祭の歌」という詩を、急遽、野々宮と唐のふたりに朗読してもらうことになった。

12時半、開場。さっそくげろきょのみんなや、私の知り合い、さやかの知り合いがやってきた。今回は集客にとても苦労して、それでも20人くらいは来てもらうことができた。ありがたい。
予約の方には(ほとんどがそうだった)もれなく、オリジナル曲が3曲はいったCDをプレゼント。
開演前に皆さんと話をさせていただく。
prayerさんがカメラを持って、来てくれた。まりもちゃんが3歳のお嬢ちゃんを連れて来てくれた。お嬢ちゃん、かわいい。さやかのお母さんも知り合いを連れて来てくれた。さやかファンのとっしーさんも友人の方といっしょに来てくれた。櫻子さんがひさしぶりに顔を見せてくれた。バンガードさんが奥様を連れていらしてくれた。
げろきょのみんなも来てくれてうれしい。ありがとう。

1時半、時間どおりに開演。
予定ではいきなり前振りなしで私のソロから入るつもりだったが、アットホームな感じの来場者の様子を見ているうちに気が変わった。トークからはいる。
そのあと、前半は童謡・唱歌の演目。

黄金虫
鯉のぼり
かたつむり
雨降りお月さん
富士の山〜カモメの水兵さん〜しゃぼん玉(メドレー)

「黄金虫」はモードジャズで。「鯉のぼり」はボサノバで。「かたつむり」はバロック音楽風に。
ほかに「カモメの水兵さん」をワルツでやったりした。

いい感じに開場がほぐれてきたところで、後半のオリジナル曲と朗読へ。

わたげの旅立ち
朗読〜砂の旅人
底知れぬブルー
いつも
朗読〜青い空、白い雲
鳥の歌

「砂の旅人」の朗読では、野々宮卯妙が「狂気系」で怪しさてんこもりの読みを。
「青い空、白い雲」では、唐ひづるが会場のあちこちに仕込んだ原稿を拾い集めながら、動きまわってキュートに、胸きゅん朗読。
最後は「大人の事情がわかっている客」に助けられて、アンコール。「祝祭の歌」の朗読から「スカボロフェア」へとつづいて、全終了。

私としては大変リラックスしながらも、集中して楽しくやれた。
今回、集客に苦労したので、うふのライブもしばらくはお休みかなあ、と考えていたのだが、来ていただいた皆さんがとても喜んでくれ、また暖かい励ましの言葉もたくさんもらったので、できればまた夏にもやりたいと思えてきた。

2011年5月19日木曜日

ゼミ生ユニット〈マメサーカス〉による「お菓子の大舞踏会」

を「げろきょラ・テ」のほうにupしました。
先日5月15日の朗読ライブの抜粋映像です。
視聴はこちらからどうぞ。

現代朗読で生活が変わるといううれしい話

明後日のライブ「初夏うふ2011」で来場者にプレゼントするCDの楽曲を、早朝からがんばってマスタリングする。
今回もなかなか来場者が増えず、苦労している。「初夏うふ」の次は「夏うふ」をやりたかったんだけど、しばらくお休みかな。
明後日は下北沢〈Com.Cafe 音倉〉にて、13:30スタートです。朗読ゲストで唐ひづると野々宮卯妙も出演してくれます。
詳細はこちら

午前中は朝ゼミ。午後は昼ゼミ。
出席者がいつもよりちょっと多く、にぎやかだった。にぎやかだが、穏やかな空気。最近参加したひとりが、
「いつもの私とはまったく違うゆったりした時間の流れのなかですごせていやされます」
ということをいっていた。
また、去年から参加している人が、昼食のとき、いろいろ話をしてくれた。あえて名前を伏せるが、この人は以前、子どもや親とのコミュニケーションで困難を感じていたのだが、最近は穏やかになったという。自分が変わったのが原因だそうだ。以前はものごとをとても狭く見ていて、視野が狭くものごとを大きくとらえられなかったのだが、げろきょに参加するようになって気持ちが明るく穏やかになり、いろいろなことをゆったりととらえられるようになったそうだ。
現代朗読の活動が生活のなかで役に立っているのを聞くと、とてもうれしい。
目先の利益には役に立たないが、長い目で見ると人生全体を豊かにしてくれるんじゃないか、ということをみんなが共通に感じてくれているということで、うれしかった。またがんばろうという気持ちをあらたにした。

昼ゼミでは、唐さんが明後日のライブで読んでくれる「青い空、白い雲」のリハーサルを一回だけやる。なにやらおもしろいアイディアを作ってくれていて、本番が楽しみだ。

最後にまりもちゃんに、次にオーディオブック収録する予定の半七捕物帳「帯取りの池」を読んでもらったのだが、その読み手としての成長ぶりに驚いた。まりもちゃんは朝ゼミをほとんど皆勤賞なのだが、これだけの実力をつけてきたのだとびっくりすると同時に、誇らしくなった。

2011年5月17日火曜日

福島第一原発の事故はチェルノブイリ以上なのか?

ブログを読んでくれている方からメールをいただきました。
こちらでコメントさせていただきます。

「福島の放射能汚染は、チェルノブイリに匹敵、もしくはそれよりひどくなる可能性もあるとか。。けれど、どの情報が正しいのか、真実はどうなのか、正直何を信じていいのか分からないのが正直な気持ちです」

現在、東京電力福島第一原発に存在している放射性物質(核燃料)の総量は、たしかにチェルノブイリ原発を凌駕する量です。なにしろ6基もありますからね。
使用済みのものも合わせると92トンあります。
チェルノブイリは10トン程度。
これだけ見ると青くなります。
問題は、これらが大気中、海水中、土壌などにどれだけ放出されたのか、放出されているのか、放出される可能性があるのか、ということです。
完全に閉じこめることが必要です。もっとも、これらが存在すること自体が問題だと私は思いますが。しかし、現実は現実です。
マスコミや政府、東電の発表は、私もなにも信じられない、というのがいまは正直なところです。自分で調べ、考え、信頼できる情報源を自分で判断するしかありません。

「今日、友達に質問されて自分も考えてしまいました。
福島原発では、使用済みの燃料がいろいろと問題を起こしている。原発は、停止したとしても、燃料自体は冷えるのに何年もかかるのだから今日浜岡原発を停止したとしても、燃料が冷える前に駿河湾に大地震がきたら結局同じなのでは? そしたら電力不足でどうのと言うのならば、稼動していたほうがいいのではないの?
・・ということを言われました。・・・うーーん、確かに、稼動している原発と停止している原発との、地震が来たときの安全具合の差って実際どのくらいあるのでしょうか」

もちろん停止していたほうが稼働中よりリスクははるかに小さくなります。
稼働中は核反応が継続しているわけで、そのために停止中よりはるかに大きな熱が発生しています。連続的に冷却しつづけなければ、今回のようなメルトダウンを起こ可能性が出てきます。
今回は地震や、建屋内の配管経由で侵入した水素が原因で、停止していた4号炉の建屋が破壊され、使用済み燃料プールに瓦礫が落下し、おそらくそれが原因で燃料集合体が損傷を受けたことと、プールに冷却水を循環させるシステムが壊れてしまったことで、重大な事態に陥ってしまいました。これも大変な問題です。が、原子炉そのものの問題ではないので、対処は可能なのではないかと思います。

私は浜岡原発について、とにかく停まったことが評価できると考えています。
停める、そしていずれは廃炉にしていく。そのような世論の大きな流れが、政治や財界のゆがんだ欲望をどこかで静止させなければなりません。私たちの子どもたちにこれ以上汚れた世界を渡すわけにはいきません。

基礎講座参加者による朗読パフォーマンス

を「げろきょラ・テ」のほうにupしました。
先日5月15日の朗読ライブの抜粋映像です。
視聴はこちらからどうぞ。

急成長するテキスト表現ゼミ生たち

一昨日は羽根木の家で朗読ライブパーティーがあり、そのあとに打ち上げをしたが、さらにそのあとの夜、いつもどおりテキスト表現ゼミを開催した。
ライブ出演者らが何人か見学参加して、いつもより多い人数。若干名は打ち上げで飲みすぎて酔っぱらいのまま。

前回の宿題のテーマが「山へ行く」だったので、各自の作品の読み合わせ。
書くテキスト分量についてのアドバイスが、みんなの間にも浸透してきたようだ。つまり、400字書くときには、その倍の分量を書き、それを半分に削る、という方法。書く練習を始めたときは、この方法が大変有効。その成果が現れてきている。みんなの文章の密度がしだいに上がってきている。
どこから書きだすか、という問題が、まだうまくいかないようだ。まだまだ無駄な書き出しが多く、いかにずばりと書きだすかについて、今回はアドバイスをする。

それぞれオリジナリティがはっきりしてきて、ますますおもしろくなってきた。
残りの時間は2題3行話を書いてもらった。「ティッシュ」と「そばぼうろ」という言葉を入れこんだ3行の文章のエチュード。
次回は5月22日。
テキスト表現ゼミの参加方法はこちらをご覧あれ。

徳久ウイリアムによる呼吸&ヴォイスワークショップ

現代朗読協会「羽根木の家」で、ヴォイス・パフォーマーの徳久ウイリアムさんによる呼吸と声のワークショップが開催されました。
その直前にゼミ生のれいこさん、ワークショップ参加者の愛香さんとともに、ワークショップの内容や、声の表現の話をうかがいました。
世界のさまざまな声についての興味深い話や、ホーミーのデモンストレーションもあります。

ケロログ「RadioU」で配信中。

2011年5月15日日曜日

楽しかった朗読ライブパーティー@羽根木の家

今日は朗読ライブパーティーを羽根木の家でおこなった。
出演メンバーは基礎講座の受講メンバーを中心に、ゼミ生が何人か。
朝から、いつもワークショップやゼミをやっている羽根木の家の座敷を片付けて、会場の準備。ついでに座敷も夏モード。襖やガラス戸をはずして、広々と使えるようにする。

11時に出演メンバーが来て、打ち合わせとリハーサル。体調不良でリハーサルに出られない者や、集合時間を勘違いして遅れて来た人など、ハプニング続出だが、ライブには必ずあることだ。じたばたしてもしかたがない。
メンバーが欠けたまま、リハーサル。そして問題続出。それらをどたんばになって調整する。

昼食後、14時半開場。15時、開演。昨日の体験講座に参加してくれた方も来てくれた。
最初は基礎講座参加メンバー6人による朗読パフォーマンス。「これはもはや朗読ではないでしょう」というくらい身体を使ったパフォーマンスで、終わったら全員、汗だくになっているという演目。リハーサルではなかなかうまくいかなかった箇所も、本番ではうまくいって、おもしろいパフォーマンスとなった。
これは近日、YouTubeかUstreamで公開したい。

次はユニット名「まめサーカス」になったまぁや、久保りか、瀬尾明日香の3人による、夢野久作の「お菓子の大舞踏会」という作品。
自由にのびのびと楽しくやってくれた。観ているほうもわくわくするパフォーマンスだった。この若手たちも本当にクオリティが高くなった。今回はお座敷ライブだったが、どんなライブ会場でやってもオーディエンスをギュッと引きつけることだろう。これほど楽しい朗読作品はめったにあるものじゃない。

その後、照井数男と野々宮卯妙による、太宰治の「女生徒」。本来、照井とシマムラでやるはずだったパフォーマンスだが、シマムラが来れなくなったので、急きょ野々宮が代役に立った。が、さすがにクオリティの高い即興パフォーマンスになった。
そして、ふなっち著者朗読。自分の「三つ網」というテキスト表現ゼミの課題作品を読む。ふなっちは著者として急成長中。
しまだなおこさんは私の「コップのなかのあなた」という、大きな数字の羅列が出てくるやっかいな作品を、とても自由に楽しく読んでくれた。
最後は野々宮卯妙が私の「鳥の歌」を、集中力をさらに高めて読んだ。

終了後はお茶会から飲み会へと移行し、まあにぎやかなこと!
なおこさんが手作り餃子を焼いてくれたり、持ちこみのワインや日本酒がおいしかったり、いろいろな差し入れでにぎやかなテーブルとなった。

2011年5月14日土曜日

雨降りの羽根木の家で朝ゼミ、マリコランチ、昼ゼミ

一日、雨降り。
午前中から朝ゼミ。今日からゼミ生として近藤さんが参加することになった。
気づき報告のあと、共通テキスト「なめとこ山の熊」の読み合わせ。全4ページのうち、2ページ目を重点的に。
最後に呼吸、発声、エチュードをやる。

ひさしぶりのマリコランチ。10人が参加。800円で前菜、スープ、メインディッシュ、デザートまで付く豪華ランチ。
今日もおいしかった。
さらに最後には、唐さんに先日の「路地裏GIG」でやった東北の狐と人間の化かし合いの昔話を朗読してもらい、ライブ付きのランチとなった。

午後2時から昼ゼミ。
「この道はいつか来た道」を使ったエチュード、芥川「鼻」、林芙美子「晩菊」、太宰「女生徒」などの個人読みを稽古する。
一日気温があがらず、もう5月もなかばだというのに、ストーブをつけていた。

福島県でお子さんをお持ちの方々へ:避難という決断とその支援について

早尾貴紀さん(東京大学研究員)という方のメッセージを、一部抜粋して紹介します。
全文はこちらでお読みください。

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 お子さんを保育園や小中学校に子どもを行かせていいのか、不安に思われていることと思います。
 
 私は、福島県の生まれ育ち、宮城県在住で、7歳の子どもがいます。
 最初に書いておきますが、私自身、その子どもを関西へ避難させています。3月中は私がいっしょに、4月からは里親さんに預けるかたちで関西で小学校にも通わせています。とけ込めるか心配もありましたが、楽しくやっている様子で、ホッとしていますが、たまたまそうなっただけで、被曝を避けるためなら、一ヶ月や二ヶ月、学校に通わなくてもいいだろうという気持ちでいました。
 
 文科省が学校活動に関する放射線量の基準を示しましたが、みなさんがどこかで気づかれているとおり、これは子どもの健康を守るための数字ではなく、避難させないための数字です。避難にともなう費用や賠償を避けるという、国の都合を優先させました。
 文科省は、子どもを守ってはくれません。もちろんそのことについて、文科省を追及する必要はありますが、そのあいだも被曝は進んでいきます。指示を待つのではなく、自主避難することを勧めます。
 
 避難がとても難しい決断であることは、私も重々承知しています。どこへ行くのか、いつまで離れるのか、費用はいくらかかるのか、自分の子どもだけが先に避難していいのか、家族が離れるのではないか、などなど。
 しかし、福島県が測定している各学校の放射線量は、通常の安全基準をはるかに越えています。
 放射線を扱う研究所などで、管理区域として従事者以外立ち入り禁止とされるのは、年換算で5.2ミリシーベルト、時間当たり0.6マイクロシーベルトです。この放射線管理区域には、専門の知識を持った大人でも必要最小限の時間しか入ってはならず、18歳未満は完全に立ち入り禁止なのです。
 文科省は、そうした一般的な基準を無視して、時間3.8マイクロシーベルト(年換算33ミリシーベルトになりますが、屋内活動の分として6割に見積もって年20ミリシーベルト)を基準として示してきました。これは小さな子どもに対して許される許容量ではありません。放射線管理区域をはるかに越えて、大人でさえも十分に危険な水準であり、これは通常の原発労働者の被曝上限と同じなのです。実際この程度で白血病を発症し、厚労省から労災認定を受けている人もいるのです。
 その他、内部被曝のことが考慮されていないことなど、さまざまな問題もありますが、ここでは長くは書きません。
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(抜粋、ここまで)

全文はこちら

ふたたび先行きが見えなくなった福島第一原発事故

東京電力が福島第一原発の「メルトダウン」を認めたという。
メルトダウンなのかどうかということなんてどうでもいい。第一、メルトダウンという言葉がきちんと定義されておらず、さまざまなシチュエーションで使われてしまっている。
現実的事実。
福島第一原発1号機において、炉心の水位がある程度確保されていると観測されていたものが、実際にはダウンスケールに陥っており、燃料集合体は完全に空焚き状態であったこと。
そのために、燃料はすべて圧力容器の底部に溶け落ち、さらには配管の溶接部分などにあいた穴から格納容器の底部へと漏れ落ちている。
これまでは水棺という、炉心をすべて水につけてしまって冷却する方法が計画されていた。圧力容器と格納容器をすべて冠水させるためには約7,000トンの水が必要だ。ところが、これまで1万トンの水をすでに投入しているにも関わらず、水位はまったく確保できていない。
つまり、格納容器の気密性もなく、だだ漏れ状態であるということだ。
冠水どころの話ではない。

原子炉全体を水で満たすためには、格納容器の破損部分を探しだし、それを塞ぐ工事が必要だ。
これまでに示された工程の大幅な変更、というより、いちからの見直しが必要になるだろう。
これらの事態は、東電が説明していた「津波によるもの」ではない可能性もある。格納容器そのものが破損したのは、そもそも地震の震動によるものではないのか。そういった事実を隠蔽したり、ねじまげたりしているのではないかという疑いは、これまでの東電の行動から見て充分にありうる。
要するに、信用するに足りない企業体質を持った会社だ、ということだ。
私たちに必要なのは、正確な情報と事実、そして「なんらかの立場」によらない安全のための判断と決断だ。

2011年5月13日金曜日

現代朗読協会に来るのをためらっている人が多い?

ゼミや体験講座に来る人のかなり多くから、
「しばらく前からホームページを見てたんですが、なかなか踏ん切りがつかなくて。でも思い切って来てみてよかったです」
といわれることが多い。
前から思っていたのだが、そんなに現代朗読協会は来にくい感じなのだろうか。カルチャーセンターの朗読講座などはどこも盛況で、どれも定員をオーバーするほどの生徒さんが来ているというのに。
もっとも、げろきょ(現代朗読協会)のゼミや講座はいわゆる「お教室」でも「お稽古」でもない。

でも、実際に思い切って来てくれる人がいる。ありがたいことだ。
何ヶ月もウェブサイトに書かれていることや、私のブログを読みこんで、
「ここなら行ってみたい」
と決意して来てくれる人がいるのだ。本当にうれしい。
こういう人がどういう経緯をたどってゼミ生、つまりげろきょの一員になってくれるのか、そのルートを紹介しておこうと思う。

まず一番手っ取り早いのは、体験講座だ。これはだれでも、2,000円の参加費で、現代朗読の手がかりを体験できる。
ここに来てくれて人は皆さん、
「目からウロコでした。朗読がこんなに自由で楽しいものだったなんて」
という感想を残してくれる。
体験講座に参加して多くの方が、基礎講座やライブワークショップに参加してくれたり、ゼミを見学に来てくれたりして、最終的にはゼミ生になってくれる。

体験講座にタイミングがあわなくても、いきなりゼミの見学に来ていただいてもかまわない。
見学からそのままゼミにとけ込んで、ゼミ生になってくれた人もいる。
げろきょの講座やゼミは、だれにでも開放されている。興味がある方は、どうぞ思いきって飛びこんでいただきたい。取って食うようなことはありません。また、特定の宗教や思想とはなんの関係もない、完全にインディペンデントなNPO法人です。

明後日5月14日は、午後1時から体験講座が開催されます。
気楽においでください。詳細はこちら

2011年5月11日水曜日

竹の子の豆板醤揚げ

ひさしぶりのオリジナルの創作料理です。
といっても、竹の子の煮物を大量に作りすぎて「苦し紛れにでっちあげた」といったほうがいいかもしれませんが(汗)。
でも、おいしいです。

■材料 二人分
・竹の子の煮物 お玉2杯分くらい
・豆板醤、小麦粉、醤油、砂糖

ボウルに竹の子の煮物を入れ、そこに豆板醤を小さじ1杯くらい入れます。辛いのが好きな人は豆板醤を増えし、苦手な人は減らします。
さらに醤油を大さじ半分くらい、砂糖も同じくらい加えて、手でまんべんなく混ぜます。
しばらく置きます。5、6分でいいでしょう。
余分な水分を捨ててから、小麦粉を大さじ2杯くらい加えて、また手で混ぜます。
それを油で揚げます。
油は普通のサラダ油、温度は170度くらい。表面の色がこんがりとなり、カリッと揚がったら完成です。
写真では、右下隅の鶏の唐揚げみたいに見えるやつですね。この時はたまたま、レンコンの素揚げもいっしょに作りました。

路地裏GIGに行ってきた

昨日、夢の中で、部屋の模様替えをしていた。狭い部屋(8畳)なので、家具の配置方法もそんなにはバラエティはないのだが、夢の中ではなんだか画期的な配置をしていた。
目がさめてもそれを覚えていて、急にそのとおりに模様替えをしてみることにした。
午前中いっぱいかかって模様替えをしたのだが、夢の通りのいい感じの配置になった。こういうことは珍しい。

夕方、石村みかがぶらっと遊びに来る。差し入れのケーキをいただきながら、コーヒー。

夜、三軒茶屋のジンギスカン〈羊羊〉へ。
この店の定休を利用して、ゼミ生のずずこさんがロードクライブを企画した、その最初の試み。
カウンターだけの、10席しかない店で、朗読者はカウンターの内側に入って読むという、至近距離朗読。今回の出演はずずこのほか、唐ひづる、玻瑠あつこの3人と、店主の小梨さんがパーカッションで参加。客は飲みながらそれを聴くという趣向。10席は満席。
バラエティに富んだ演目とトークでたいへん楽しく聞かせてもらった。
私が一番うれしかったのは、このライブには私は一切関わらず、当然演出もしていないのだが、3人が自然に「現代朗読」の方法でやってくれていたことだ。ちゃんと身につけ、自由に、のびのびと朗読しているのを見て、涙が出るほどうれしかった。

2011年5月9日月曜日

竹の子の煮物(シンプルバージョン)

いただいた竹の子がたくさんあったので、下処理をして、冷蔵庫に保存してありました。
それを一番シンプルな方法で煮物にしてみました。
下処理のやりかたから書いておきます。

・掘りあげた皮つきの竹の子の下処理

竹の子が丸ごとはいる大きな鍋が必要です。まずは鍋の調達がひと仕事ですね。
竹の子はてっぺんのとがったところを、大胆にざっくりと切り落とします。思いきり、10センチくらい切り落としちゃってもいいでしょう。てっぺんのほうにはあまり身ははいってません。
次に、胴体に縦に切り込みを入れます。中までお湯が通るようにするのと、あとで皮がむきやすいからです。
鍋に入れ、水にひたし、火にかけます。そのとき、米ぬかを入れてアクを抜く方法が一般的ですが、重曹のほうがいいようです。こちらのほうが確実にアクを抜けます。竹の子一本につき重曹大さじ軽く一杯くらいでしょうか。適当です。
これで小一時間、煮ます。
アクが出て、お湯が真っ黒のドロドロになります。
火をとめて、そのまま冷まします。
ある程度さめたら、水洗いしながら皮をむきます。これで竹の子の水煮の完成。

・竹の子の煮物を作る

竹の子は食べやすい大きさに切ります。
根元の硬いほうは5ミリ厚くらいにスライス、上のほうの柔らかいところはざっくりと適当に塊に切ります。
これを鍋に入れ、ひたひたになるくらいのだし汁で煮ます。
だし汁は、昆布と鰹節で作りました。昆布を水から煮だし、沸騰したら取りだし、鰹節を入れてすぐに火をとめます。鰹節は網ですくって取りだします。

火にかけたら、酒をたっぷりと入れます。だし汁の分量の10分の1くらい入れます。
煮たってきたら、塩、薄口醤油で味をつけ、あとは少しずつミリンを加えて甘みを調節します。甘いのが嫌いな人は入れなくてもいいです。
このまま小一時間、弱火にかけて、味を煮ぶくませます。
完成。
一度そのまま置いて冷ますと、味がよくしみるようです。暖めなおして食べてもいいですし、冷たいまま食べてもいいです。お好みで。

群読の楽しみ、群読のススメ

新刊『音読・群読エチュード』から抜粋して紹介します。

 音読や朗読というと、ひとりでおこなう活動のように思われがちですが、多人数でおこなうのも楽しいものです。
 多人数で読むことを「群読」といいますが、これにもさまざまな形があります。
 おなじ文章を声を合わせて同時に読む群読。「コロス」といったりもします。
 ひとつの作品をいくつかのパートに切りわけ、読む場所をそれぞれに割り振って読む群読。
 演劇のようにセリフが主体となり、ナレーションもふくめて役を割り振って読む群読。これは「朗読劇」などと呼ばれることもあります。
 読み手が椅子に座ったままおこなう形もあれば、原稿を手に持って立ったり動き回ったりしながらおこなう形もあります。
 現代朗読協会では形にとらわれず、さまざまに工夫をこらしておこなっています。
 学校の演劇部に指導に行くこともあります。私も経験がありますが、ひとつの演劇作品をみんなで力をあわせて作るというのは、とても楽しいものです。が、現実には楽しいばかりではすまないこともたくさんあります。舞台装置や衣装を準備しなければなりません。演技指導も必要です。照明や音響の知識も必要になってきます。経験の浅い子どもたちにとって、ひとつの舞台を作るというのは大変なことです。
 が、群読作品なら演劇作品ほどの労力は必要ありません。装置や衣装にかかる時間をへらし、稽古にあてることができます。照明や音響もおおがかりなものは必要ありません。演技指導も不必要です。
(特別付録より)

『音読・群読エチュード』の詳細と購入はこちら

「マーケット」だけが世界ではない

私たちは現代生活をいとなむために、なんらかの商業活動をおこなっている。
所得のために働き、住んだり食べたり着たり学んだりするためにお金を払う。
こういう経済活動というか、お金や物品や情報の循環は、産業革命以降、しだいに大きな商業経済(マーケット)を形成してきた。とくに近年は交通手段や情報通信の発達によってとくに規模が大きくなり、地球全体を覆い包むようになった。
そのせいで、えてして多くの人が、自分の生活そのものがマーケット経済のなかでしか存在していないように勘違いしてしまう。そしてマーケット内で価値判断できないものは無価値だと思いこんでしまう。

私たちの生活は、よく見てみると、マーケット経済に関係があるものと、あまり関係がないもの、そしてまったく関係がないものとでなりたっている。
会社に勤めて給料をもらうのは、もちろんマーケット内での経済活動だ。自動車を作って売るのもそうだし、商品を流通させるのもマーケット内でのできごとだ。
では、主婦の家事はどうだろう。これも経済行動だろうか。
そうであるとも、そうでないともいえる。

家事労働をマーケット経済の尺度で計ることはできる。
さまざまな試算が提示されているが、育児、洗い物や洗濯、掃除、食事の支度といったものを、労働単価として換算し、家事労働を金銭価値に置きかえることはできる。それはひとつの目安としての数字ではある。
しかし、多くの主婦は経済行動として育児や家のことをやっているわけではない。子どもを育てることに自分の多くの労力をつぎこむことに理由はない。ただ自分の子どもを愛しているからだ。
家事をこなすのもそうだろう。家庭を愛し、夫を愛するゆえに、とくに理由づけなどしなくても毎日家事をおこなう。経済活動だと思ってやっている人は、なかにはいるかもしれないが多くはないだろう。

人の行動だけでなく、マーケットのなかになくても私たちにとって大切なものはいくらでもある。
たとえば、春になったら咲く桜や花はどうだろう。木々や草花は多くがただそこに咲いているのであり、経済システムのなかには組みこまれていない。それらの世話をする人も、労働だと思ってやっているわけではない。ただ好きだから、愛しているからやっているにすぎない。そして私たちはそれを愛でて、豊かな気持ちになれるのだ。感謝ゆえに道ばたの草花にお金を払ったりはしない。
つまり、マーケットとは関係がない。

芸術表現はどうだろう。
ここまで読まれた賢明な読者ならもうおわかりだろうと思う。
人が「表現したい」「自分を人に伝えたい」「だれかと共感し、つながりたい」という欲求は、そもそも経済活動とは関係のないものだ。もともと絵を描いたり、歌を歌ったり、踊ったり、だれかに本を読んで聞かせたりといったことを、最初からお金のためにやる人はいない。
が、どんな行為でも、そこに「需要」が生まれ、価値基準ができたとき、現代社会ではマーケットが生まれる。
CDが何枚売れるか、ライブに何人集客できるか、どれだけ視聴率が稼げるか、どれだけ部数が出るか、といった金銭的物理的基準で価値の優劣が決まるのがマーケットだ。それが原理だ。
すると困ったことに、そもそもは経済活動とは関係のないはずの表現行為ですら、マーケット価値を得る(お金を稼ぐ)ために行なうものが出てきて、またいくらかがそのとおりに成功する者が出てくるのだ。
また、お金が稼げない、人を集められない表現は価値のないもの、という錯覚におちいっていく。表現側だけでなく、オーディエンス側もそのような価値基準を持つ。
そうやって人々は、なんのために表現活動をしているのか、なんのために芸術に接するのか、見失っていく。

ここでもう一度、マーケットのなかにはないけれど、価値がないわけではないばかりか、とても大切なものがたくさんあることを思い出してほしい。
芸術表現はそもそもそういうもののひとつなのだ。春に咲く桜の花とおなじだ。
現代社会が作りだしたマーケットという狭小な経済社会構造よりも、私たち人間が生きるのはもっと広大な世界だ。その世界では経済価値はないけれど大切なものがたくさんある。マーケットはその世界のほんの一部構造にすぎない。
もちろん私たちは現代社会のなかで生きていかなければならなので、なんらかの形でマーケットに関わらざるをえない。まったくマーケットと無縁で生きていくことはできない。が、それは私たちの世界のごく一部であり、その世界の価値基準に捕われることはとても狭小なことであることを、いつも思いだしたい。

もうすぐ体験講座

今週末の5月14日(土)午後1時から、恒例の現代朗読体験講座がある。
恒例といっても、恒例なのは開催する私たちの側の話であって、参加する人は初めてのことだ。
体験講座の所要時間は2時間。なので、ざっくりと現代朗読の考え方と方法について「体験」してもらうことになる。

来られるのはさまざまな方だ。
これまで表現活動にはまったく関わってこなかったが、これからなにか表現活動をやっていきたいと思って、まずは敷居の低そうな「朗読」で検索して来た、という方。
音楽や文章書きなど、表現活動はある程度やっていたが、朗読に興味を持って来てみた、という方。
そして、これまで朗読をやってきたが、なにかいまひとつ納得できない部分を感じていた、ネットで検索し現代朗読協会のウェブサイトにたどりついたら、そこに書かれていることに共感を覚えて来た、という方。
いくつか朗読教室を受けてみたが、なにかしっくり来なかった、という方。
いずれの方も、体験講座を受けて共通に出てくる言葉は、
「目からウロコでした」
「朗読がこんなに自由で楽しいものだとは知りませんでした」
というものだ。
これ、本当なのだ。

体験講座の特徴のひとつに、カリキュラムがないことがある。
カリキュラムというのではないが、簡単な進行内容を作り、それに沿っておこなっていたこともある。が、いつしかそれもやめた。
どういう人が来られるのかあらかじめわからないし、さまざまなニーズの方がこられる。各位知的なカリキュラムでは対応できないのだ。いつも参加者の顔ぶれを見、ニーズを聞いてから、臨機応変に進めていくことにしている。これも数十年にわたる経験の裏打ちがあって、私も最近ようやくできるようになったことだ。

今週末の体験講座はまだ参加申込が少ししかない。
連休明けの気持ちのよい季節、世田谷まっただ中にある築76年の古民家〈羽根木の家〉で、あたらしい表現体験をしてみてほしい。
現代朗読体験講座の詳細はこちら

テキスト表現ゼミ、5月も始まってます

先月からスタートした「テキスト表現ゼミ」。今月も昨日から始まった。
毎週日曜日の夜におこなっているこのゼミは、ほかの文章講座/小説講座などとは一線を画す内容である。
従来ほとんど着目されてこなかった書き手の「身体性」や「無意識」からのサインを重視し、そこからオリジナリティのあるテキスト表現をいかに獲得するか、というアプローチの講座である。
この方法は、私が音楽演奏、小説執筆、ラジオ番組制作、朗読演出と経験を経てきた過程で、すべての表現に通底する原理のようなものはないか、と考えつづけてきたとき、発見した原理を用いている。

とはいえ、とくにプロの作家や書き手をめざしていなくても、どんな人でも気楽に参加できる雰囲気となっている。
現時点での参加者も、OL、会社員、学者、主婦と、さまざまである。
もちろん皆さん真剣だが、ゼミの雰囲気は大変なごやかだ。
ここではお互いに「評価」や「批評」はおこなわない。そのような方法が百害あって一利なしであることは、私の長年の経験でよくわかっている。表現とは、他人の評価基準をくんで行なうものではない。

テキスト表現ゼミの詳細については、こちらをご覧ください。

2011年5月7日土曜日

手抜き料理その2:玉ねぎスープ

おろしぶっかけ豚しゃぶを作ったときに残った煮汁を使って、スープを作ります。
これもあっという間にできて、しかも激うま。
写真の右上のスープです。

■材料 二人分
・豚肉の煮汁の残り
・玉ねぎ 半分
・細ネギ 少々
・塩、コショウ、酒、醤油(薄口)、あればピンクペッパー

玉ねぎを薄切りにして、煮汁の残りに入れ、火にかけます。
塩、コショウ、酒を入れ、薄口醤油で味を整えます。
あればピンクペッパーを散らします。香りと色合いがいいですね。ピリッとした風味も。
最後に細ネギの小口切りを散らして、完成。
たった10分くらいで、おろしぶっかけ豚しゃぶと、玉ねぎスープの2種類ができました。

手抜き料理その1:おろしぶっかけ豚しゃぶ

ひとり住まいで、きちんと料理をするのが面倒なときに、よく作るものを紹介しましょう。
所用時間、たぶん10分以内。あるいはもっと短いかも。

■材料 一人分
・豚肉(バラ肉の薄切) 150グラム
・大根 5センチくらい
・ネギ 5センチくらい
・醤油、(ごま油、ポン酢)

分量の豚肉をたっぷりひたしてゆでられるくらいの分量の水を鍋に入れ、火にかけます。
お湯が沸騰するまでのあいだ、大根をおろします。ネギは薄い小口切り、またはみじん切りにします。
お湯が沸騰したら、豚肉を入れ、箸でほぐしながら茹でます。
肉の色が変わったらすぐに火をとめます。それで充分に火は通っています。
茹であがった肉をザルにあげます。ゆで汁は別の料理に使いますから、とっておいてください。
お湯が切れたら、皿に盛り、大根おろしとネギを上に乗せ、醤油を回しかけます。
これで完成。

ごま油を少しかけてもおいしいです。
醤油の代わりにポン酢でもいいですね。醤油とレモン、コショウでも大丈夫。
マヨラーの方はマヨネーズをかけるのもいいかも。

浜岡原発停止要求会見から一夜あけて蠢きはじめたモノたち

昨夜の菅首相の浜岡原発停止要求会見から一夜あけて、案の定、有象無象がわらわらと蠢きはじめた。
原発推進派はその利権ゆえに、反原発派はそのイデオロギーゆえに、それぞれの立場からたくらみに満ちた発言をわき上がらせている。これらの発言を私はまったく信用しない。
私が信用するのは、
「自分の子どもや孫にどのような世界を引き渡したいか」
という視点でものを見ている人たちの発言だ。ママたちに多い。
私もその視点でしかものを見ない。
次世代に渡すエネルギーは、クリーンで持続可能なエネルギーシステムであり、またそれらを無駄にしないローカライズされた仕組みとライフスタイルであってほしい。その世界には原発も火力発電所もないことが望ましい。
いますぐは無理かもしれないが、その方向を向くことは可能だ。

ネイティブアメリカンの言葉にこういうものがあるそうだ。
「この大地は祖先から譲り受けたものではない。子孫から借りているものだ」
そのとおりだと思う。私たち自身の肉体や精神もまた、そう考えるとよい方向に向かいたくなる。

3.11以来、私たちはよきにしろ悪しきにしろ、大きく変わった。価値観が根底から変わってしまったともいうべきだ。
もし「なにも変わらない」と思っている人がいるといたら、救いがたいまでに感覚と精神を鈍化させてしまっているのだろう。そんな人がいるのかと思ったら、政財界にごろごろいるようだ。もはや「人」ではないと思って、私はそのように処遇する。

3.11後、人々は混乱し、沈みがちになり、自粛ムードが蔓延して活力を失っていたが、このゴールデンウイークの動きを見ているとその空気が一転したように思える。
自粛の反動なのか、GW中の高速道路は大渋滞、公共交通機関は激混み、観光地もゲロ混み。日本全体の空気が、サッと変化したようだ。
前向きの気分が出てきたのはいいと思う。しかしまた、思考停止の烏合の衆に戻ってしまわないか、危惧する。
震災を機に、緻密に考え、行動する日本人の美徳が現れてきたようだったが、これが持続し、この社会の通奏低音として定着していってくれるといい。

菅内閣も、指導力不足とかいろいろいわれているけれど、自民党が作り自民党がやれなかった原発の、稼働中のものを停止要求を出すというのは、かなり評価できることではないか。
まずは支持したい。
この流れがこれからの地震列島日本の国政の流れになっていってほしい。流れはじめた新しい潮流が、政財界の老醜をさらした化物たちによってつぶされてしまわないように、私たちはしっかりと監視し、声をあげつづけなければならない。

2011年5月6日金曜日

祝! 浜岡原発4・5号機停止要求 by 菅直人

いま聞いたばかりのニュースだが、うれしくて思わず筆をとっている(キーボードを叩いている)。
菅直人首相が、現在稼働している静岡県御前崎市の中部電力浜岡原発5号機と6号機の停止を要求した、との速報と記者会見。
浜岡原発は1号機と2号機がすでに廃炉が決まっている。また3号機は定期点検中で停まっていたが、今回の首相要求を受けることになれば、これも稼働再開はないだろう。
東海地震の震源域の真上にあることで、学者などから再三、危険を指摘されていたが、これでようやく浜岡原発はすべて停止することになった。

現在、東京電力福島第一原発の事態がまだまだ予断を許さない状況ではあるが、浜岡についてはうれしいニュースだ。
しかし、これだけの決断をくだすには、相当の葛藤と要因があったに違いない。
まずは浜岡原発の耐震性だろう。かねてから問題視されていたものが、福島の事故で実証された形になった。本当に大地震が起こったら、福島の二の舞になる可能性が非常に高い。そのリスクを避ける決断だろう。いまもし事故が起こったら、責任を問われるのは現政権であろう。

福島第一原発だって、そもそもは自民党が推進して建設し、稼働してきた発電所だ。いや、原発そのものがもとを正せば、読売新聞社主だった正力松太郎と自民党の中曽根康弘がアメリカと手を組んで日本列島に導入したものだ。その一号機は敦賀にあり、70年の大阪万国博覧会と同時に稼働をスタートした。
日本の原発の歴史はそこから始まっている。
今回の決断にあたっては、政財界の利権集団やアメリカ、フランスなどの外圧など、恐ろしい軋轢があるはずだが、それを断ち切って踏み切ったことは、評価に値する。

菅首相や現政権は、指導力不足とかいろいろなことがいわれているが、自民党ができなかった原発の停止という重大決断をくだせたということは、賞賛していいのではないか。政争ではなく、国民の声をきいたということになろう。
今後、この動きは、日本のすべての原発の稼働に影響を与えるだろう。他国の政策にも影響を与えるかもしれない。
この際、日本が先頭を切って脱原発、脱化石燃料を推進し、クリーンエネルギーに力をいれてほしい。
あとは福島の事態が一刻も早く収束し、周辺住民が安心できるようになることを祈るばかりだ。

声と身体はつながっている

新刊『音読・群読エチュード』から抜粋して紹介します。

 現代社会は多くの情報があふれかえっています。ただ歩いていても、さまざまな文字や映像などの視覚情報が飛びこんできますし、音の情報も膨大です。また、街にはさまざまなにおいも満ちています。
 これらの情報にいちいち注目していたら疲れきってしまいますし、生活できません。
 そこで私たちは「慣れる」もしくは「無視する/スルーする」という形で、膨大な情報の波から自分を防衛しています。それは子どもたちもおなじ事情です。
 私たちは自分にとって必要な情報だけを受けいれ、それ以外のものはすべて無視することで、うまくバランスをとって生活しているのです。
 毎日通い慣れた道を歩くとき、「駅・右、公演・左」といった標識は必要のない情報なので、目にはいったとしても無視します。逆に、初めて行くような土地では標識情報が重要なので、目をこらしてキャッチします。日常生活では前者のようなふるまいがほとんどをしめます。
 情報を「無視する/スルーする」とは、「感受性を閉ざす」あるいは「感受性レベルを低くたもつ」ということです。現代生活はそのように人間を「閉じられた状態」であるようにしむけます。電車のなかでは人々はほとんどが携帯電話を手にするか、イヤホンを耳に突っこんでいるか、眠っているか。自分の外に向かって感受性をひらいている人にはほとんどお目にかかれません。
 歩いている人もイヤホンを耳にいれ、必要最小限の情報しか自分のなかにはいってこないように遮断しています。
 逆に、感受性レベルを高くし、感覚を外にむかって開いた状態の人のことを想像してみてください。そこにはたちまち、生き生きとした人が登場するでしょう。目はきらきらと輝き、さまざまな物音に耳をすまし、嗅覚も鋭敏にはたらかせている。皮膚は風の冷たさや太陽の暖かさを感じています。
 まさに人が「生きている」というのは、このような状態ではないでしょうか。
 音読をふくめなにかを表現するとき、そしてだれかとコミュニケートするとき、人はこのような生き生きとした状態でいたいものです。現代ではこれが圧倒的に欠如しています。
 子どもたちは本来、あるがままで生き生きした存在ですが、しかし成長するにしたがってしだいに感覚を閉じることが「上手」になります。もちろんそれは彼らの責任ではなくて、現代がそういう環境だということです。
 しかし、いつでも生き生きした自分自身の感覚を取りもどし、はつらつとした人間になれるように、感受性を意識するための練習をしておくことはとても役に立ちます。
(第四章より)

『音読・群読エチュード』の詳細と購入はこちら

「早寝早起き」ではなくて「早起き早寝」

40代になってから生活を朝型に切り替え、以来ずっと早寝早起きを心がけている。
5月にはいり、東京では日の出の時間も午前5時を切ったが、日の出より早く、あるいは日の出と同じ時間に起きることができると、一日気持ちがいい。体調もいいし、腹もへるし、仕事もはかどる。
池田千恵著『「朝4時起き」で、すべてがうまく回りだす!』という本では、「早寝早起き」ではなく「早起き早寝」を推奨している。とはいえ、この本では午前3時起きといったにわかには実行できない設定だったり、結果的にかなり睡眠時間を削る生活になったりと、個人的に同意しかねる提案が多いのだが、「早起き早寝」は賛成である。

「早寝早起き」の生活に切り替えようとして、まず、夜早く寝ようとする人がいるが、急に早寝ができるわけはない。それよりは、気合いを入れてまずは早起きするほうが、リズムを作りやすい。
がんばって早起きすると、夜はその分眠くなる。そして徐々に早寝早起きに移行していけばいいのだ。
問題は、どうやって早起きするか、ということだ。私はいまでは苦痛ではなくなったが、朝早く起きることが苦手な人が本当にたくさんいる。
私が以前書いたブログ記事「睡眠時間を削ることなく朝の貴重な時間を確保するライフハック」を、一部、再掲してみる。

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世の中にはどうしても早起きができない人がいるらしいが、私が実行していることを紹介しよう。
用意してもらいたいものがひとつ。タイマー付きのコンセント。
私が使っているのはダイヤル式のタイマー付きで、クリクリと回すと30分、1時間、2時間、3時間といったふうに、スイッチが入る/切るの設定ができるようになっている。コンセントになっていて、そこに通電する/切電する時間を決められる。
私はこのコンセントに枕元の電気スタンドのコードを突っこんである。時間がたつとスイッチが「入」になる。
寝る前に、ダイヤルを回して、あと何時間後に電気スタンドのスイッチが入るかの設定をする。当然、同時にスタンドは消灯し、そのまま眠りにつく。
6時間とかに設定して寝ると、6時間後にスイッチが入り、電気スタンドがパッと点灯する。部屋には遮光カーテンをかけてあるので、スタンドの明かりでもかなりまぶしくて目がさめる。
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ようするに、光で体内リズムを強制的にリセットする方法だ。
電気スタンドより朝日のほうが効果的なことはいうまでもない。いまの季節だと夜明けとともに起きるリズムを作りやすい。
明るくなっても平気で眠りつづけてしまう人がいるが、これは光をトリガーとして認識しないように感覚を麻痺させてしまっているのだ。そういう人は、光をトリガーとして朝目を覚ました旨を、夜寝る前に自分によくお願いしておくといい。朝、明るくなったら起きてね、と自分に充分にお願いしてから眠りにつくのだ。子どもじみた方法で、バカみたいだと思う人がいるかもしれないが、これは有効な方法なのだ。

さて、こうやって夜明けとともに目覚める生活を手にいれたあなたには、実際そうなってみればわかるだろうが、朝の美しい空気と光景、そして気持ちのいい一日が待っていることになる。
省エネにもなりますね。

2011年5月5日木曜日

なぜアイ文庫は無料でハイクオリティのオーディオブックを配信するのか

アイ文庫の無料オーディオブック連続配信が、ひさしぶりにスタートした。
今回の作品は夏目漱石の長編小説『彼岸過迄』だ。朗読は窪田涼子。
前回はやはり漱石の『こころ』で、朗読は岩崎さとこだった。
いずれも全10時間以上の労作だ。
労作というのは、朗読者にとっても、制作者であるアイ文庫にとっても、という意味だ。

これだけの労作をなぜ無料で配信するのか。
多くの人にアイ文庫オーディオブックのことを知ってもらいたい、ということもあるが、それ以上に、そもそもオーディオブックの魅力を知ってもらいたい、ということがある。
以前にも書いたが、日本におけるオーディオブックのマーケットはさまざまな理由で正常な発育を遂げていない。
しかし、オーディオブックには魅力がある。きちんと作られ、高いクオリティを確保したコンテンツを聴いた人には、皆、その魅力を実感してもらうことができる。
アイ文庫はオーディオブック・マーケットの健全な成長を心から願っている。それがアイ文庫という弱小企業の存続にも直結しているからである。

今回の『彼岸過迄』の配信でも、少しでも多くの人にオーディオブックの魅力を感じてもらいたいと思っている。
配信にあたって、窪田涼子にインタビューした映像を公開している。こちら

オーディオブック『彼岸過迄』の無料配信は、今日からスタートしています。
聴取するには、アイ文庫のツイッターID「@iBunko」をフォローしてください。

また、アイ文庫はオーディオブックの読み手の育成にも力を入れている。
次世代オーディオブック・リーダー養成講座は、次回で第10期生となる。
詳細はこちら

次世代オーディオブック・リーダー養成講座受講生募集(第10期) 

アイ文庫では今回の災害にあたって、直接被災しなくても心身の調子を崩した方が多いことを受け、災害時のメンタルケアに役立つ情報を無料オーディオコンテンツとして製作・配信し、多くの方に利用いただいております。
また、オーディオブックは気持ちを落ち着かせる効果があることがわかっているため、あらたにヒーリング系コンテンツを製作し、配信しています。こちらもまた多くの方に喜んでいただいてます。

アイ文庫では、こういった無料コンテンツや、有料オーディオブックのためのリーダー(朗読者)の育成に力をいれています。
四月も養成講座を開催します。これが第九期生となります。

主催:アイ文庫
協力:ことのは出版
現代朗読協会

★次世代オーディオブック・リーダー養成講座
声優/ナレーター/朗読者のためのステップアップ講座
申込みはこちら

【概要】

オーディオブックの読みや収録についてのノウハウとトレーニング法を一日で集中講義します。
その後1〜2か月のトレーニング期間をおいて最終オーディション(収録)をおこないます。
合格者は、ことのは出版(株)のオーディオブックリーダーとして登録され、商業コンテンツの収録に備えていただきます。

【詳細】

(1)集中講座

以下の日程で開催される一日集中講義を受講していただきます。
とても居心地のいい世田谷の築76年の古民家で、一日じっくり学んでいただきます。

日時:2011年5月16日(月)10:00〜17:00
場所:羽根木の家(世田谷区/京王井の頭線新代田駅からゆっくり歩いて4分)
受講料:33,000円

(2)トレーニング

収録用の作品を選び、(1)の内容の習得と(3)にむけての1〜2か月間のトレーニング期間を設けます。
期間中は、メールによる指導と面談(またはスカイプ、希望者のみ)で習得状況をチェックします。質問等も自由です。
理解度や技術レベルによっては現代朗読協会のワークショップに参加していだくこともあります(参加費免除)。

(3)オーディション

アイ文庫のスタジオにて収録をおこないます。
収録後、数日以内に合否を決定します。
合格者は、ことのは出版(株)のオーディオブックリーダーとして登録され、商業コンテンツの収録に備えていただきます。
すでに一期生から四期生が実際の収録をおこなったり、収録の準備をはじめています。

【本講座の特徴】

オーディオブックリーダー(朗読者)は、ナレーターでもアナウンサーでもなく、声優でもない、新しい声のジャンルです。
オーディオブックの朗読にチャレンジしてみたいと思っている人が多いなか、その読みや収録についてのノウハウをしっかりとアドバイスしてくれる場所はそう多くありません。
そんななかで、アイ文庫は、今後も長くネットコンテンツとして流通していくに耐えるクオリティを持ったオーディオブックの制作とリーダーの育成にあたっています。
単なる音読コンテンツではなく、「朗読作品」としてのオーディオブックを読める人を育てることが目的です。

文芸朗読、詩曲集、教科書朗読、英語朗読などで業界随一のクオリティと実績を持つアイ文庫のオーディオブック・ディレクターが指導にあたります。
ただ読むだけではない、情報伝達のみにとどまらない、「表現」の域にまで踏みこんだクオリティの高いオーディオブック収録ができるハイレベルなリーダー(朗読者)の育成をめざします。数多くの実践的なノウハウを盛りこんだプログラムで予定しています。

アイ文庫のツイッターも参考にしてください。

現代朗読についてしつこく書きつづけてきた

現代朗読協会の問い合わせ電話は、固定電話ではなくて携帯なのだが、そこへ昨日もかかってきた。
出ると、女性の声でいきなり、
「水城ゆうさんですか?」
と問われた。
聞けば「朗読」で検索して、現代朗読協会のウェブサイトに行きつき、そこで私が書いているいろいろな朗読についての文章を読んでくれたとのことだ。
なんでも10年以上朗読をされているのだが、最近なにか納得できないものを感じていたところ、私の文章を読んで「これだ」と思ったそうだ。つまり、私がいうところの、
「朗読とは本の内容を伝えるのではなく、他人が書いたテキストを素材に自分自身を伝える行為である」
ということに共感してくれたのだという。
うれしい話だ。

現代朗読協会も設立して丸5年がたったが、少しずつ考え方が浸透しつつあるように思えて、ありがたい。
堅苦しく、「ねばならない」に満ちている従来型の表現の世界に、もっと自由で闊達な風を吹きこみたいと願って作った現代朗読協会だ。少しでも多くの人に知ってもらえればと思っている。
そのために、気軽に体験できる講座を用意している。どなたも気兼ねなくおいでください。
次回は来週土曜日14日の午後の開催です。詳細はこちら

夢野久作「お菓子の大舞踏会」をアラサー・アミーガスが

夕方、アラサー・アミーガスのメンバーが3人集まって、15日のライブの打ち合わせ。
今回、アミーガスにはみしゃこは不参加だが、まぁや、くぼりか、せおあすかが参加。

演目は夢野久作の「お菓子の大舞踏会」というはちゃめちゃな話。これを3人で即興的に朗読パフォーマンスにするというのだから、なかなか一筋縄ではいかない。
が、初リハーサルが始まったら、そこにはもうアミーガスの独特の世界が出現。おもしろい。
私はそれをはたから見ながら、無責任に口を出す。

音楽でもダンスでもなく、若い女性が楽しくパフォーマンスを演じる朗読なんて、おそらくあまり他ではないだろう。
15日のライブは必見だ。ほかにも、さまざまな演目で盛りだくさん。
無料でどなたもおいでいただけます。詳細はこちら

「本郷館を救え!」という署名活動にご協力をお願いします

本郷館という、ある種文化財といえる古い建物の保存運動を応援している知り合いがいます。
その日記を転載しつつ、署名活動協力へのお願いを私からもします。
私も署名します。

(野々宮卯妙のmixi日記より)
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「本郷館」、先月、ついに強制執行で、住人たちが立ち退きさせられました。

13日(金)までという短い期間ではありますが、保存のための署名活動が始まりました。
みなさん、ぜひご協力ください!!

文京区本郷6丁目に現存する、築106年の最古にして最大の木造三階建て下宿建築物「本郷館」。
伊藤左千夫、小林多喜二、林芙美子、蒋介石……といった人たちが若かりし頃住んだとも言われています。
このような文化的意義のみならず、当時の無名の大工の技術の高さを示す証左として、
関東大震災にも、このたびの東日本大地震にも無事でした。
ところが、家主の意向により、取り壊されようとしています。

本当に古くてぼろぼろな建物ですが、見れば、
そして中に立てば(住人以外立ち入り禁止ということで長らく入れてもらえてませんが)、
100年以上の歴史を一瞬にして体感できる、素晴らしい建物であることをおわかりいただけるのではないかと思います。
長い歴史の中には、住人たちも知らない話題がてんこもりです。
たとえば最近、本郷館を舞台にしたこんなビデオが発見されました。
なんと細野晴臣さんが本郷館に!

⇒ http://www.youtube.com/watch?v=sGnttS0LiB8

「本郷館」の文化的・建築的意義を伝えるセミナーなども開催され、
家主の意向を組んだ改築案、修復案を提案し続けるなど、
(添付の新聞記事には、今になって突然保存運動が起こって不快等書かれていますが)
住人達は存続を求める声を家主側に送りつづけましたが、聞き入れられませんでした。
私も、元住人に、家主へのNVC的なアプローチを提案したりしました。
しかし……
裁判は、文化的意義については問われることがないまま住民側の敗訴で終わりました。
そして4月、強制執行の手続きがとられ、住人達は退去させられました。

もはや、いつ取り壊しが始まるかわかりません。
でも、まだ建物はある!
署名にどうかご協力ください!!

署名用紙の返送は、郵送、FAX、メールいずれでも結構とのことです。
締め切りは5月13日、短期間で申し訳ないのですが、1日程度の遅れは対応できるシステムをとっているはずなので、遅れそうな場合は早めに連絡をくださいとのことです。
 
以下、発起人からの文面を一部転載します。
みなさま、どうか、ご協力ください。よろしくお願いいたします。
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(前略)地域住民、専門家ら計65名(4月29日現在)らを発起人といたしまして、「本郷館を考える会」を設立し、所有者に本郷館の取り壊し中止と建物の保存活用を求める署名活動を行う運びとなりました。
(中略)ぜひ皆様、そして皆様のお知り合いの方々に、添付した「本郷館署名記入用紙」にお名前をご記入いただき、「本郷館を考える会」までお送りいただきたく、お願い申し上げます。
署名用紙にも記載いたしましたように、送付締切日を勝手ながら5月13日(金)と設定させていただきましたので、こちらのメールアドレス(hongoukan@gmail.com)もしくは、FAX、郵送にて、「本郷館を考える会」までご送付いただければ幸いでございます。
 
【締切】平成23年5月13日(金)
【署名送付先】
〒110-0001 東京都台東区谷中6-2-42-201 「本郷館を考える会」
メールアドレス:hongoukan@gmail.com
FAX:03-3822-7275

なお、署名用紙は、本郷館ホームページ(http://www.hongo-kan.com/ URLは4月29日現在)からもダウンロードいただけます。
ご不明な点等のお問い合わせは、同じく上記のメールアドレスまでお願いいたします(事務局担当:濱本)。
お忙しいところ大変恐縮ではございますが、本郷館の存続のために、なにとぞお力添えをいただきたく、よろしくお願い申し上げます。
 
「本郷館を考える会」運営委員会
代表:伊郷吉信
運営委員:後藤 治、内田青蔵、堀江 亨、多児貞子、高橋幹夫、小松栄美、佐藤隆行、濱本智子、山崎友蔵

2011年5月4日水曜日

違和感の正体

なにか見たり聞いたり、ものごとに接したりしたときに、違和感を覚えることがある。
「なにか違う」という感じなのだが、それはたいてい、私の場合、心の奥底に沈んでしまって、結果的にスルーしてしまうことが多かった。
だれかが「いい」といっている曲や絵や映画を見たとき、たしかに「いい」んだけど、どこかに違和感が残る、ということが多かった。また、話題の人物がテレビなどでもてはやされているのを観たようなときも、違和感を覚えることがしばしばあった。

私は若いころから小説を書いており、そういう違和感にもっと敏感であるべき人間だったのだが、さまざまな理由で「違和感をスルーする」ことに長けるようになっていた。
私がふたたび自分のなかの違和感に向かい合いはじめたのは、商業出版の世界から遠ざかり、音楽や朗読の世界に復帰し、そして小説だけでなく詩も書きはじめたころからだ。それはもう40代をずっとすぎていた。

違和感はどこからやってくるのだろう。
古武術の世界では、自分の脈を調べることで、迫り来る危機を察知する、という方法がある。
武術家の甲野善紀さんから聞いた話でこういうのがある。昔、何人かで旅をしていた侍が、雨に降られ、ようやく宿にたどりついた。旅装をとき、一息ついてから、いつものように皆が脈を調べた。すると全員の脈が異常を示したのだ。
そこで、侍たちはふたたび旅装をととのえ、宿を出た。その直後、宿の後ろの山が崩れ、宿は土砂にのみこまれてしまったというのだ。
私が考えるのは、こうだ。彼らはおそらく、宿に入るときに、すでに微細なサインを受け取り、無意識で災害の徴候を感じていたのだ。それが彼らの脈を乱れさせた。
無意識を読みとることは難しいが、無意識から引きおこされる身体反応を読みとることは可能だ。

違和感は無意識から顕在意識へのサインである。
人間は非常に優秀なセンサーのかたまりであり、日常生活においてもさまざまな微細なサインを無意識で受け取っている。それらは無意識下で情報処理されている。
いくつかの徴候があわさって、危険を察知したり、だれかの嘘を見抜いたりしている。が、無意識下でおこっていることを顕在意識ではなかなか認知できない。しかし、それらは違和感となって自覚できたり、身体的徴候となって顕在化することがある。
現代人は顕在意識でものを考えたり、計算したり、計画したり、といったことは得意だが、わずかな徴候を敏感に感じとることは不得意だ。どんどんセンサーが鈍感になっている。
しかし、人間が持っているポテンシャルは思ったより大きい。
どうせ生きているなら、潜在能力を生かしきりたいものだ。

MacBook Air を入れたザック一個の生活

よく「ザック一個だけで生きられる生活にあこがれる」というようなことをいう人がいる。おそらく、固定化した住居、生活圏、人間関係と、あふれんばかりのモノに囲まれた生活の反動が、そのあこがれを生んでいるんだろう。
読んだことがないが「断捨離」といった言葉がベストセラー本が元で流行しているという。
私は別に流行に乗っているわけではないが、かねてから移動にあたっては極力装備を減らし、身軽に、しかし不自由なく生活できるように工夫を重ねてきた。

何泊かの旅行にもデイパック一個ですむようにしてある。
かつてはコロコロと引っ張るキャリーをいつも持っていたが、数年前からはデイパック一個になった。
荷物が少なくなった要因として、仕事用のコンピューターが MacBook Air 11インチになったことは大きい。
ちっぽけなデイパックだが、海外へだってこれだけで出かけられる。

バッグの中身、大公開。

・MacBook Air 11インチ
・ACアダプター or 補助バッテリーHyperJuice
・モレスキン手帳
・カード入れ
・小物がはいったメッシュポケット
・老眼鏡
・ビデオカメラ
・水筒
・モバイル箸

ビデオカメラには小さなメッシュポケットがくっついていて、なかに予備のSDカードと、カードアダプタがはいっている。
AirにはSDカードスロットがないので、カードアダプタが必要なのだ。
ここに写っていないのだが、BuffaloのWiFiルーターも一個。
モバイル箸はネジで真ん中で接ぐ方式のコンパクトなもの。もう長年愛用している。
iPhone 4 はHDビデオ撮影ができるので、ビデオカメラも不要なくらいだが、いつでも映像コンテンツ用の素材を撮れるように持っている。

小物はUSBメモリ2個、花粉症の薬、iPhoneのUSBケーブル、WiFiルーターのUSBケーブル。
一日程度の外出ならACアダプタも補助パッテリーも不要。
一泊程度の旅行なら、補助バッテリーで充分。iPhoneもこれで充電できる。
2泊以上の長い外出の場合はACアダプターを持っていく。WiFiルーターもiPhoneもAir経由で充電できるので、充電器は必要ない。

このほかに、もちろん、歯ブラシとか着替えとか必要なのだが、それが多いときにはもう一回り大きいデイパックにする。
荷物を極力減らしたいときにはそれらも現地で調達するようにしている。

2011年5月3日火曜日

子供期、自分期、大人期

思春期という言葉があるが、最近、なんとなく違和感を覚えている。
一般的には子どもから大人になる過渡期の、自我と社会の関係や性的衝動が不安定な時期をいうようだが、なんとなく定義があいまいに思える。また、さまざまな社会状況が劇的に変化している現代において、「思春期」という言葉を定義できるのかという疑念もある。
そんななか、若者たちを見つづけて、ふと思い浮かんだ言葉が「自分期」だった。

子どもから大人になる、というのはどういうことか。
世話をされる側から世話をする側になるということではないだろうか。
他人に思いやりを持てる、世話をできる、役に立てる人間になる、ということ。その中間期として「自分期(思春期)」がある。自分のことしか考えない時期だ。
すでに肉体も頭脳も大人なのに、自分のことしか考えない、自分のことしかやらない。それが自分期だ。
困ったことに、社会が成熟(老衰)すればするほど、自分期が長くなる。なぜなら、社会全体に物資が行き渡り、ぼんやりしていてもすぐに死の危機に直面しないからだ。食えなくても親を筆頭にだれかが世話をやいてくれるし、死の危機に瀕している知り合いもあまりいない。自分の好み、自分の欲求だけを追求していても、不自由なく生きていける。
その傾向は私が自分期だった頃(40年近く前)にすでにあった。

20代30代の若者がいまだに自分のことしかやらない。自分期から大人期へ移行しにくい社会。それを作ったのは、ほかならぬ私たち大人だ。
大人たちは若者を、自分たちの「消費経済」のなかに引きずりこんでしまった。だれかのために我が身や私財を投げ出すのではなく、自分の欲求を追求することを「よし」とした。そのほうが経済が回るからである。
マーケットという名の狭小な世界のみが、全世界であるかのように教育してしまった。マーケットの世界では、物欲、性欲、食欲、権力欲といったものだけが「正義」である。消費する者、消費させる者のみが存在する世界だ。
こういった社会において「自分期」がはてしなく冗長化していくのは、避けられない必然である。

しかし、これもまた変わりつつあると、私は感じている。
震災をきっかけに。
そうあってほしい。わずかな光に望みをたくしている。

夏目漱石『彼岸過迄』長編オーディオブック無料配信、まもなくスタート

『こころ』に続いて、アイ文庫がお送りする夏目漱石長編オーディオブック全編無料配信の次の作品は、窪田涼子朗読による『彼岸過迄』です。
5月5日スタート!
お楽しみに。

『彼岸過迄』の連続配信を聴取するには、アイ文庫のツイッターID「@iBunko」をフォローしてください。
また、配信に先立って、朗読の窪田涼子にインタビューをしました。その映像がこちら

オーディオブック『彼岸過迄』朗読の窪田涼子インタビュー

アイ文庫がお送りする夏目漱石長編オーディオブック全編無料配信シリーズ『彼岸過迄』がいよいよスタート。
朗読は窪田涼子。
その窪田涼子に、収録の模様や作品についてインタピューしました(サービスカット付き)。

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2011年5月2日月曜日

コエキカクロードクイベントvol.1より抜粋(朗読:窪田涼子)

2009年10月18日、大阪中津のライブスペース〈Vi-code〉にて、コエキカクロードクイベント第一弾「言葉戯語戯」と「Let's GO!!GO!! 労読組合」がおこなわれた。
この映像はそのなかから、企画者のコエこと窪田涼子の朗読と、水城雄のキーボード演奏による朗読セッションの一部を抜粋したものである。
ハンディビデオカメラでの記録映像なので、低画質であることをおことわりしておく。

■コエキカクロードクイベントvol.2「一日一善!!労読組合」のお知らせ

◎日時:2011年6月12日(日)15時〜/18時〜(受付・開場は各30分前)
◎場所:大阪・中崎町 天劇キネマトロン

◎料金:1,500円(前売・当日共に)
 ※前売予約特典アリ

出演:石田アキラ・宇野伸茂・桂米紫・宍戸留美・染谷有香・水城ゆう
   +窪田涼子(敬称略・50音順)

予約・問い合わせはメール「ryou.kubo@gmail.com」まで。