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2011年5月3日火曜日

子供期、自分期、大人期

思春期という言葉があるが、最近、なんとなく違和感を覚えている。
一般的には子どもから大人になる過渡期の、自我と社会の関係や性的衝動が不安定な時期をいうようだが、なんとなく定義があいまいに思える。また、さまざまな社会状況が劇的に変化している現代において、「思春期」という言葉を定義できるのかという疑念もある。
そんななか、若者たちを見つづけて、ふと思い浮かんだ言葉が「自分期」だった。

子どもから大人になる、というのはどういうことか。
世話をされる側から世話をする側になるということではないだろうか。
他人に思いやりを持てる、世話をできる、役に立てる人間になる、ということ。その中間期として「自分期(思春期)」がある。自分のことしか考えない時期だ。
すでに肉体も頭脳も大人なのに、自分のことしか考えない、自分のことしかやらない。それが自分期だ。
困ったことに、社会が成熟(老衰)すればするほど、自分期が長くなる。なぜなら、社会全体に物資が行き渡り、ぼんやりしていてもすぐに死の危機に直面しないからだ。食えなくても親を筆頭にだれかが世話をやいてくれるし、死の危機に瀕している知り合いもあまりいない。自分の好み、自分の欲求だけを追求していても、不自由なく生きていける。
その傾向は私が自分期だった頃(40年近く前)にすでにあった。

20代30代の若者がいまだに自分のことしかやらない。自分期から大人期へ移行しにくい社会。それを作ったのは、ほかならぬ私たち大人だ。
大人たちは若者を、自分たちの「消費経済」のなかに引きずりこんでしまった。だれかのために我が身や私財を投げ出すのではなく、自分の欲求を追求することを「よし」とした。そのほうが経済が回るからである。
マーケットという名の狭小な世界のみが、全世界であるかのように教育してしまった。マーケットの世界では、物欲、性欲、食欲、権力欲といったものだけが「正義」である。消費する者、消費させる者のみが存在する世界だ。
こういった社会において「自分期」がはてしなく冗長化していくのは、避けられない必然である。

しかし、これもまた変わりつつあると、私は感じている。
震災をきっかけに。
そうあってほしい。わずかな光に望みをたくしている。