ある塾生から、このようなメッセージをいただきました。
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「萎縮して書いてるのか」について考えたんですが、そんな意識はなかったけど、
確かに、今回「こんなの書いてて意味ないかも…」とか、バーッと書いてて「これ全部不要かも」と思っていました。
ぜんぶ不要かもしれない、くだらない文章をボスに読ませるのが忍びないと思いつつ、またえいやっと送信します。
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歌いたくないときは歌わなくていいのです。
描きたくないときは描かなくていいのです。
踊りたくないときは踊らなくていいのです。
読みたくないときは読まなくていいのです。
書きたくないときは書かなくていいのです。
ある人が、自分の内側から生まれる「〜したい」という喜びをともなった表現欲求にしたがってなにかを表現したとき、それを受け取る人にはプレゼントとして届きます。そこには利害関係はありません。
ある人が「〜しなければ」という義務感や、「これを読んだときに不快にならないだろうか」「退屈しないだろうか」「変な人間に思われないだろうか」「こんなの(他人にとって)意味ないかも」といった「外部評価」を気にしながらおそるおそるおこなった表現は、プレゼントとして届くことはありません。読む人のなかには無意識に「読んでやる」という「義務」を受け取る立場が生まれたり、「評価してやる」という立場が生まれ、そこには上下関係や利害関係が生まれます。
締切りもおなじです。
締切りがないと書けない、という人がいますが、それは外的要因を自分を依存させているのです。締切りがあろうがなかろうが、喜びをもって書きたいと全身が思っているときだけ書いてください。
それ以外には書かなくていいです。私もそのようなものは読みたくありません。
締切りに合わせて無理に作品を送らなくてもいいのです。
さて、今日は石川月海の作品を取りあげます。
一読して、すばらしいなあと感じました。なにがすばらしいのか。
ここには石川月海という人がいる。彼女の存在がそのまま文章に埋めこまれている。文体から彼女の存在、手触り、息づかいが立ちあらわれてくる。
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