漁港へとつづく扇状地に残っているのは、わずかばかりの鉄筋コンクリートのビルばかりです。
スーパーマーケット、役場、病院、そういった施設だと見えましたが、いずれも3階から5階建てくらいのもので、東京のように大きなビルはありません。そしてその上階部分まで津波が押し寄せてきたことが明らかです。
そして平地はすっかり建物がなくなっています。
この2番目の写真には、3階建てのマンションの屋上に車が押しあげられ、そのままになっています。つまり、ここまで車がぷかぷかと運ばれてきて、取り残されたというわけです。水位がここまであったということでしょう。
手前には多くの住宅が建っていたはずですが、二階建ての屋根をはるかに超える水位ですべて押し流されてしまっています。
すっかりなにもなくなっている平地ですが、それでもところどころ、人々が集団で組織的に瓦礫の後始末をしている光景がありました。ボランティアの人たちが来て作業をしているようでした。組織だった動きのようでした。
そういえば23日から25日にかけては連休でした。連休を利用して各地からボランティアに来られた方は多いようでした。
というのも、このあと私たちは臨時の役場のほうに行ったのですが、その脇の広場では復興フェスティバルがおこなわれていて、地元の人だけではなく各地からやってきた人々で大変にぎわっていました。
南三陸町は役場も津波で使えなくなってしまったので、仮設の役場を高台に開設してありました。
高台というよりも、山間部といったほうがいいくらいの場所です。南三陸町は海に山が迫っている地形で、町があった扇状地からすぐに山にはいっていきます。その山間部のなだらかな場所に、もともと水産加工会社がいくつかと、住宅がいくらかあります。その空き地に臨時の役場を仮設したようです。
三谷産業の松嶋さんがここで担当者と待ち合わせをしているということで、臨時庁舎に行っている間、私たちは車で待機です。
(つづく)