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2016年8月31日水曜日

楽しかった代田区民センター練習会

8月27日(土)午後は、新代田駅すぐそばの代田区民センターで「マインドフル共感音読養生練習会」をおこないました。
いやいや、楽しかったな、これ。

けっこう期日が迫ってからの突発的な告知だったのと、天気がいまいちだったので直前キャンセルが出たりしたこともあって、少人数での開催だったんですが、なかなかおもしろい練習会になったと感じてます。

行ってみたら、予約してあったはずの第四会議室が予約が取れていないということが判明。
しかし、偶然にも和室があいていて、結果的にはこちらのほうがよかったということに。
ラッキーでした。

まずお互いに自己紹介をしながら、興味のあること、練習してみたいことなどを、キーワードで書きだしていきました。
その結果、

 NVC(共感的コミュニケーション)
 マインドフルネス
 瞑想(ソニック・メディテーション)
 音読療法(ボイスセラピー)
 現代朗読
 韓氏意拳
 身体表現

といった項目が出てきました。
まずはNVCについての話。
それから、NVCとも深く関係があるというか、NVCにも必須のマインドフルネスについての話。
チベタンベルを使っての短時間瞑想をやってみました。

そのあと、私の専門分野ともいえるソニック・メディテーションの試み(ベル瞑想もそうですが)。
私が考案した「こうもりのエチュード」にチャレンジしてみました。

こうもりという動物は暗闇のなか、みずから発する超音波をレーダーのように使って飛びます。
それをまねて、人も視界を遮断したまま、自分の声をレーダー代わりに使って、壁に向かって歩いたり、お互いにつかまえたり逃げたりするという、ゲーム的なエチュードです。
これはなかなか楽しかったです。
そしてとてもマインドフルな「いまここ」の感覚に集中することができました。

後半では音読療法に興味を持っている方がいらしたので、どんなことをやっているのか、ごく短くですが音読エチュードを体験してもらいました。
また、韓氏意拳で「予備式」といわれている「状態」にはいって自分の身体の全体性を緻密に体認していく方法を試みたりもしてみました。

いずれも現代人に必要な「身体の復権」と「マインドフルなありよう」の練習で、これを深めることで心身の活力を本来レベルまで高めたり、本来持っている能力を最大限まで生かしたりできるようになると、私はかんがえています。
実際、私はこのような練習で自分の表現パフォーマンス(音楽演奏や朗読演出)を向上させたり、執筆などのコンテンツ製作にも役に立っている、いやそれ以上に必要不可欠なものになっている、と感じているのです。

この練習会は突発的なものでしたが、ご要望があればまた開催してもいいですし、私のおこなっているそれぞれのイベントでかならずおこなっていることなので、気になっている方は参加してみてください。

音楽瞑想ワークショップ@明大前キッドギャラリー(9.18)
ここ数年「音楽瞑想」として結実させたワークを、よりわかりやすく楽しめる形でみなさんとシェアします。深く自分自身の身体とこころにつながる体験を提供します。年内閉館が決まった明大前キッド・アイラックにて。

2016年8月30日火曜日

料理:ゴーヤのサラダ

もうそろそろ盛りをすぎかけてますが、ニガウリことゴーヤ(あるいはゴーヤー?)が畑ではたくさん採れてます。
ゴーヤといえばゴーヤチャンプルーですが、それ以外にもフライや天ぷら、野菜カレーの具、ジュースのタネなど、いろいろと使い道があって、私は重宝してます。
そのなかでも、ゴーヤのサラダは私のいち押しです。

【材料】二人分
・ゴーヤ……半分
・玉子……2個
・玉ねぎ……小さめ半分
・塩、こしょう、マヨネーズ

ゴーヤは縦半分に切って、なかの種とワタをスプーンでけずりとっておきます。
玉子はゆでておきます。
玉ねぎは繊維を断ち切る方向にスライスしておきます。

厚さ2、3ミリくらいの薄めの小口切りにしたゴーヤを、ボウル(や鍋、大きめの器など、なんでも)にいれます。
塩もみや水にさらす必要はありません。

細かめの乱切りにしたゆで玉子を加えます。
スライスした玉ねぎを加えます。
塩・こしょうをします。
あとでマヨネーズを加えるので、塩は少なめに。
こしょうは好みにもよりますが、私はたっぷりめにいれるのが好きです。

ざっくりと混ぜあわせたら、最後にマヨネーズをグルグルと2巻きくらい加えて、もう一度混ぜあわせます。
味をみて、マヨネーズの分量を調節して、整えます。

【応用】
これをベースにいろいろな材料を加えると、バリエーションが生まれます。
その一例を。

・コンビーフ
・ツナ缶
・ソーセージ
・サイコロに切ったハム
・サイコロに切ったプロセスチーズ
・炒めた薄切りの豚肉
・ボイルした鶏肉

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2016年8月29日月曜日

国立に越して初めての北陸帰省

だいたい毎月、北陸の実家に帰省していますが、先月までは世田谷・羽根木から羽田空港と小松空港経由でした。
今回、初めて、国立からの帰省で、初ルートでした。
これがなかなか大変だったのです。

ルート検索すると、国立駅から羽田空港へは何通りもの行き方が出てきます。
これまでは羽根木の最寄りの新代田駅から渋谷に出て(10分もかかりません)、山手線で品川、京急で羽田空港という、シンプルなルートで、時間も1時間かからないくらいだったんですが、国立駅からだと選択肢がけっこうあります。

まずJRで新宿まで出て、それから品川まで山手線、そして京急で羽田空港というパターン。
これまで同様シンプルですが、新宿までけっこう時間がかかります。
そして国立駅は特快が止まらないので、快速でそのまま新宿まで乗っていくか、国分寺で特快に乗り換えるかがあります。

つぎに、JRで吉祥寺まで行き、井の頭線で渋谷に出て、それから山手線で品川というルート。
これは前記のルートとほぼおなじ時間ですが、すこしだけ運賃が高くなるのかな。

それからJRで御茶ノ水か東京駅まで行って、山手線か京浜東北線で浜松町に行き、そこからモノレールで羽田空港に行くルート。
これがもっとも安いし、時間も上記のふたつとおなじくらいです。

それより早いルートとして検索結果で推奨されるのが、吉祥寺から空港バスに乗るルートです。
これは早いんですが、運賃がだいぶ高くなります。

結局、行きは3番めの国立、御茶ノ水、浜松町、羽田空港というルートにしました。
朝早い便だったので、国立で乗ったのが午前6時前。
この時間だとなんとか座ることができるようです。
しかしまあ、羽田まで1時間半近くかかります。

帰りは気分を変えて、羽田から吉祥寺行きのバスに乗ってみました。
時刻は夕方の帰宅ラッシュ時。
まあこれがみごとに渋滞に引っかかって、首都高速は動かないので下道を走るということで、しかし吉祥寺までたっぷり2時間近くかかりました。
そこからさらに国立ですからね。

そして間が悪いことに、吉祥寺から西国分寺まで来たら、八王子のほうで線路から異音が聞こえたとかで、全線ストップ。
あとひと駅で立ち往生です。
まあこれは幸い、10分くらいで動きだしましたが。

てなことをだらだらと書きましたが、移動時間が長いときにはそのときになにをするかが、快適にすごせるかイライラして疲れてしまうかの分かれ目になります。
私にはいつもいくつも、待ち時間、空き時間、移動時間にやりたいことの準備があります。
漫画を含む読書(Kindleですが)、映画や音楽やラジオ鑑賞、そして執筆。
これに編み物を参加させたいところですが、荷物が増えるのと、まだひと前でやるには気がひけるというのがあって、実行には移していません。
今回は音楽を聴きながらの読書でした。

そういえば、今回は行きも帰りも飛行機が満席だったんですが、帰りの飛行機のなかで私のうしろの席の赤ちゃんが私の髪をいじって遊んでいて(白髪がめずらしかった?)、お母さんがしばらくそれに気づかず、あとでかなり恐縮されました。
私は楽しかったんですけどね。

一日集中自力出版講座@国立(10.1)
自作の出版を、既存の出版社から独立出版へと完全移行した水城ゆうが、そのノウハウを半日集中講座でシェアします。会場はJR国立駅から徒歩5分の某所。ランチをはさんで7時間、がっつり学んでください。

2016年8月28日日曜日

羽根木から国立へ、本格始動

長年活動拠点としてきた世田谷・羽根木の家がなくなって、私も、そこに集ってくれていた多くの方々も、少なからずショックを受けていたんですが、いつまでも足踏みしていられないと気持ちを切りかえて、ふたたび元気に歩きだすことにしました。
とはいえ、引っ越しに相当のエネルギーを吸いとられ、また国立というあたらしい環境に完全に慣れたとはまだまだいえない状態です。
すこしずつペースをつかんでいきたい、といったところでしょうか。

環境が変わると、発想も変わります。
とどまることにも変わることにも、良い側面とそうでない側面がありますが、変化したいま、変化することの良い側面を積極的にとらえ、そちらに舵を切り、いままでなかった発想やできなかったことに踏みだす勇気を持とうと思います。

世田谷で活動していたときに集まってきてくれていた人たちも大切にしたいので、世田谷での活動は継続することを決めています。
が、いままでどおりというわけにはいかず、形が変わることにもためらわず、積極的におもしろいこと・役立つことに向かおうと思ってます。

羽根木の家の近くには使いやすい区の施設がいくつかあって、そちらを使っていくことにしてます。
今週土曜日午後の「マインドフル共感音読養生練習会」という、なにやらてんこ盛りなタイトルの実験的な試みがあります。

世田谷では韓氏意拳の身体表現者向け講習会を、毎月一回、継続的におこなっていくことについて、講師の内田秀樹韓氏意拳準教練と合意がとれています。
また会員向けの世田谷講習会もできれば月一回のペースでおこないたいと思っています。

韓氏意拳のほかにも、三軒茶屋〈カフェ・オハナ〉、下北沢〈ステイハッピー〉と〈かまいキッチン〉での共感カフェも継続しますし、あらたに個人主催の世話人に手をあげてくれた〈寿美ちゃんち〉も加わりました。
ありがたいことです。

国立でも共感カフェをやることになって、こちらは私(と音読療法協会)が主催ですが、今週の日曜の昼に開催します。
〈寿美ちゃんち〉のように、普通の住宅のリビングで開催するもので、キッチンが横にあるので、お茶を出したりするのも楽です。
参加のみなさんには安心の場としてくつろいでいただけるとうれしいです。
ひょっとして近いうちに、料理なども提供できるかもしれませんね。
駅近くのとても便利な場所なので、どうぞ遊びにいらしてください。

そしてこれはまだおおやけにはしていませんが、ひさしぶりに東京を飛びだしてイベントをやる計画が進行中です。
まずは名古屋かな。
キーワードは「楽しい」「深い」「未知の自分に出会う」です。

朗読生活のススメ9月「表現者として生きる」編全3回(9.3/10/24)
すべての人が表現者へと進化し、人生をすばらしくするために現代朗読がお送りする、3回完結の講座です。2016年9月は「表現者として生きる」というテーマで3日/10日/24日の3回、それぞれ土曜日の午後6時半から、世田谷区立代田地区会館にて開催します。


2016年8月27日土曜日

【朗読生活】朗読のための読書

朗読という表現は書かれた文字=テキストを読みあげることで成り立っています。
自分が書いたものを読みあげることもありますが、多くの場合は他人が書いたものを読みます。
それは小説や随筆、詩などの文学作品であったり、メッセージであったり、ときにはそのへんにあるメニューを読みあげるなどという奇抜なシチュエーションもあるかもしれません。
いずれにしても、書かれた文字を読みあげることにはちがいありません。

文字は手書きのこともあれば、印刷されたものかもしれません。
最近ではスマートフォンやタブレット端末の画面に表示された文章を読みあげることも増えているようです。

文章をおぼえてしまい、手ぶらで朗唱する人もいます。
これも広くとらえれば朗読表現のひとつといえるかもしれませんが、現代朗読ではテキストはあくまで朗読者の手のなかにあり、おぼえていようがいまいがそれを読みあげることを朗読表現であると定義しています。

では、朗読表現においてテキストはどのようにあつかえばいいのでしょうか。
ひと前で朗読する機会が生じたとき、たいていの人はまず、それを「読みまちがえないように読む」練習からはじめるでしょう。
書かれていることを一字一句あやまりなく読めるように、何度もくりかえし黙読したり音読したりします。
しかし、それだけでいいでしょうか。

表現にもちいるテキストはどのようにあつかえばいいのか。
たとえば音楽演奏家がある曲を演奏するとき、その曲をただまちがえずに弾くように練習すればいいのか。
そうではありませんね。
それとおなじように、朗読者がテキストをあつかうとき、ただまちがえずに読めるようにするだけではなく、さらにその先の世界へと進入していく必要があります。

朗読生活のススメ9月「表現者として生きる」編全3回(9.3/10/24)
すべての人が表現者へと進化し、人生をすばらしくするために現代朗読がお送りする、3回完結の講座です。2016年9月は「表現者として生きる」というテーマで3日/10日/24日の3回、それぞれ土曜日の午後6時半から、世田谷区立代田地区会館にて開催します。

2016年8月25日木曜日

楽しい音声コンテンツの製作

それをお金にすることをかんがえなければ、ラジオドラマやオーディオブックの収録・製作はとっても楽しいのです。

もともと私はラジオ番組がコンテンツ製作のスタートで、スポンサーもついていて商業コンテンツの世界でしたが、実際にはスポンサーが番組に口出しすることはほとんどなく、自由に楽しくやらせてもらったのが、最初の経験としてはとてもよかったのです。
そんな楽しさを、多くの人に味わってもらいたいと思っています。
しかもいまは、かつてのプロ用機材も必要なく、安価な機材やアプリケーションでだれでも収録・製作ができますし、また作ったものをインターネットで自由に配信できるという夢のような時代です。

最近越してきた国立の仕事場は、大変静穏な環境で、防音ブースも不要です。
ここで環境を整えて、私はつぎのような音声コンテンツの収録・製作・配信をおこなっていこうとかんがえています。

・オーディオブック
・ラジオドラマ
・ネットライブ
・音楽コンテンツ
・映像コンテンツ

2001年からアイ文庫で製作をスタートしたオーディオブックは、すでに多くの作品がネットで流通していますが、収益性ということではまだまだむずかしいものがあります。
世界最大手のオーディブル・インクもアマゾンで販売に力を入れているようですが、どの程度の売り上げがあるのか、いまのところあまり大きな期待はできない状況のようです。

売ること、それで生活することをかんがえるとオーディオブックの製作は苦しくなりますが、朗読者の表現作品としてかんがえると、多くの人に愛聴されたり、末長く楽しんでもらえる可能性が生まれてきます。
音声表現者としてはこんなに心楽しいことはないのではないでしょうか。

ラジオドラマやネットライブは、まるで高校や大学の放送部のように仲間とわいわいと作りあげる楽しみがあります。
それをまた多くの人が楽しんでもらえると思うと、作る側も楽しいですね。

音楽コンテンツ、つまりかつてはCDに焼いたような音楽作品ですが、これはもう私が長年にわたっておこなってきたことです。
ひとりで作るのが私の性にあっています。
スタジオにこもってこつこつと、ひとりで演奏したり、音を重ねたりして、音楽を作るのです。

私が今後挑戦してみたいと思っているのは、映像コンテンツです。
映像詩のようなショートムービーを作ってみたいと思っています。
自分のテキストと音楽を使って、映像も自分で編集してみたいのです。
ただしこれには協力者が必要です。
テキストを読んでくれる人、場合によっては映像に出演してくれる人も必要になるかもしれません。
しかし、結局のところ、スタジオでこつこつと編集し、仕上げていく作業になるでしょう。

音楽と映像はともかく、オーディオブックやポッドキャスト、ラジオドラマなど音声コンテンツの収録・製作コースが、国立の家でスタートします。
毎月3回1テーマで、月ごとに4テーマの内容をかんがえています。
興味がある方はぜひご参加ください。

9月開催:音声コンテンツ製作コース「収録実践編」全3回(9.3/17/24)
オーディオブック、ラジオドラマ、ポッドキャスト、YouTubeやニコ動、Ustreamなどの動画配信など、音声を中心としたコンテンツを収録したり製作・配信するためのコースです。
毎月3回、テーマごとに完結するシリーズで、2016年9月は「収録実践編」ということで全3回開催します。

2016年8月23日火曜日

映画:ミッション・インポシブル/ローグネイション

2015年公開のアメリカ映画。
監督は脚本家のクリストファー・マッカリー。
脚本は「ユージュアル・サスペクツ」「X-メン」「ワルキューレ(監督も)」「ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル」「アウトロー(監督も)」などを手がけていて、ハリウッドのベテラントップランナーといっていいでしょう。
主役のイーサン・ハントは、いわずもがな、トム・クルーズですね。

ちなみに、私はトム・クルーズ主演の「カクテル」という映画をもじって、『週末バーテンダーのすすめ』という本を「栗栖十三」というペンネームで書いたことがあります。
「栗栖《くりす》」はクルーズ、「十三《じゅうぞう》」はトムからこじつけたんですね。

この「ミッション・インポシブル」はもともとテレビシリーズで、私も子どものころに「スパイ大作戦」として食いついて見ていた覚えがあります。
不可能を可能にする奇想天外な作戦、トリックなど、子ども心にもわくわくしたものです。
その影響が、いまから思えば、自分の初期のころの娯楽小説群にあらわれているかもしれません。
スパイ大作戦とか、アメリカの犯罪小説(とくにドナルド・E・ウェストレイクとか)とか、アメージングストーリーとか、そういうものからたくさんの影響を受けてきました。

その観点から見ると、この「ローグネイション」はトリックの要素はあまり多くなく、近年のハリウッド映画がすべからくそうであるように、暴力とアクションに重点が置かれています。
しかし、トリックがまったくないわけではなく、また監督が脚本家ということもあってか、ストーリーはそこそここみいっています。

最近の観客はこみいったストーリーを好まず、伏線すら拾えない、ということを聞いたことがあるんですが、もしそうだとしたら「ローグネイション」はまったく観客受けしない映画だといえるでしょう。
そこをアクションシーンで無理やり引っ張っているかもしれませんね。
カーチェイスとか、バイクチェイスとか、銃撃とか殴りあいとか、そういうのを脊髄反射的に拾って観ているだけで2時間以上があれよあれよとすぎていって、最後はなんとなくスカッと解決した気になって満足する、そんなふうに作られている映画のような気がします。
アクションシーンのところは薄眼で流して観て、ちゃんとストーリーとトリックを追って観ると、それなりに楽しめる映画かもしれません。

最後のどんでん返しのところはスパイ大作戦っぽくできていて、楽しかったですよ。

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8月27日:マインドフル共感音読養生練習会@新代田

突発的ですが、会場が確保できたので、練習会をおこないます。つぎのキーワードにピンときた人はどうぞ!

・マインドフルネス
・共感的コミュニケーション(NVC)
・音読療法
・韓氏意拳養生功
・朗読などの音声&身体表現

参加した方のやってみたいこと、気になっていることなどにできるだけお応えする形にしたいと思っていますが、とくになにもなくてもこちらから提案しますので手ぶらでお越しください。

◎日時 2016年8月27日(土) 15:30〜17:30
◎場所 新代田駅すぐそばの施設
    (京王井の頭線新代田駅徒歩30秒)

◎参加費 ドネーション(寄付)制(基準額2,000円)
◎必要なもの とくにありません。動きやすい服装でおいでください。

※参加申し込みおよび問い合わせは、こちらのフォームからメッセージ本文に「マインドフル練習会」とご記入ください。

※講師・水城ゆうについて
小説家、ピアニスト、NPO法人現代朗読協会主宰。
音読療法協会オーガナイザー。韓氏意拳学会員、NVCジャパン。
朗読と音楽によるパフォーマンス活動を1985年から開始。また、1986年には職業作家としてデビューし、数多くの商業小説(SF、ミステリー、冒険小説など)を出している。
現在は商業出版に距離を置き、朗読と音楽を中心とした音声表現の活動を軸に、音読療法の普及・啓蒙活動やボイスコーチングをおこなっている。
website : http://yuumizuki.blogspot.com

2016年8月22日月曜日

自力出版の実現が意味するもの

「自力出版」というのは個人出版のことであり、自費出版とはちがいます。
自費出版は文字どおり自分でお金を出し、印刷所や自費出版の請負会社に自分の本を出してもらうことです。

個人出版はそれで営業することもできます。
つまり個人出版社です。
多くの人はご存知ないかもしれませんが、世の中には一個人やご夫婦などの家族で、あるいはそれに近いような形でのごく小規模な出版社がたくさんあります。
小規模出版社でも書籍コードを取り、書籍の流通ルートに乗せて、全国の書店で本を販売することができます。
しかし、私がおすすめしている自力出版では、そんな面倒なことはしません。

私が一般的な書籍販売ルートや商業出版と距離を置くようになったのには、いくつか理由があります。

・書きたいものを書きたいように書けず、出版社の意向をくんで執筆しなければならない。
・新刊書が流通する期間は非常に短い。
・著者の取り分(印税)が非常に少ない。

これらをすべて解決するのが、自力出版です。

・書きたいものを書きたいように書いて、好きなときに出版できる。
・絶版がなく、半永久的に自分の本を売ることができる。
・著者の取り分が多い(Kindleだと最大70パーセント)。

さらにいくつかのメリットがあります。

・印刷出版の経費はほとんどかからない。
・コンピューターの前から一歩も動くことなく出版を実現できる。
・必要なら紙の本も出版できるし、在庫をかかえるリスクもない。

デメリットもあります。

・広告宣伝は自分でおこなう必要がある。
・紙の本は価格がやや割高になる。

しかし、こういったデメリットをおぎなって余りあるメリットが、自力出版にはあると私は感じています。
あと、これもメリットのひとつにいれていいと思うんですが、電子出版にする場合の特徴があります。
これまでの紙の本だと、原稿の分量がある程度ある必要がありました。
単行本だと原稿用紙にして250枚以上、400枚とか500枚という分量を用意する必要がありました。

電子出版の場合はそのような制約もありません。
極端な場合、たった1ページしかないものでも電子書籍として流通させることは可能です。
それは極端にしても、数ページ、数十ページくらいの短編小説や詩、エッセイ、マニュアル、漫画などをすぐに出版したい、というニーズはあるでしょう。
私はつい、商業出版時代の癖であるまとまった分量で電子本を作ろうとしてしまいますが、これからはごく少ないページの本の出版にも挑戦してみようと思っています。

自力出版講座、全3回@オンライン(9.5/9.11/10.3)
自作の出版を、既存の出版社から独立出版へと完全移行した水城ゆうが、そのノウハウを全3回でシェアします。ネット会議システムを利用したオンライン講座なので、どなたも居ながらにして参加できます。9月5(月)14時/9月11(日)18時/10月3(月)14時、いずれも2時間。

ところで、Kindleからリリースされている私の電子本の何冊かが、読み放題のサービスに登録されています。
「Kindle unlimited」というサービスなんですが、月額980円で「unlimited」に登録されている本が読み放題になります。
最初の一か月の無料お試しもあるので、試してみてください。

自分の本もそうですが、私はけっこうコミックなどの読み放題でお得な感じがしています。
ほら、コミックってついつい、一気に何冊も読んでしまいますよね。

以下に Kindle unlimited で読める私の本のリストをあげておきます。

共感的コミュニケーション
共感的コミュニケーション2

ジャズの聴き方 JAZZ BIBLE

桟橋(長編小説)
秘密(長編小説)

祈る人1 彼女が神様だった頃(短編集)
祈る人2 今朝の蜜蜂は羽音低く飛ぶ(短編集)
祈る人3 アンリ・マティスの七枚の音(短編集)

2016年8月21日日曜日

本:『祈る人4 青い空、白い雲』(Kindle)発刊しました

『祈る人4 青い空、白い雲』が、電子ブック・Kindleから発刊されました。

水城ゆうがラジオ番組のために書きおろしたスクリプトや、朗読パフォーマンスのためのテキストなど、ここ十年来書きついできた短編作品集の第四弾です。
冒頭の「はじめに」は、あらたにを書きおろしています。

全テキストは水城ゆうに著作権が帰属しますが、朗読(音読)についての著作使用権は開放します。
朗読会、朗読ライブ、朗読教室、その他音声表現活動などで自由にお使いください。

ダウンロード価格300円です。
Kindle unlimited(読み放題)にも登録しています。
こちらからどうぞ(画像をクリックしてもジャンプします)。

紙本も来週末には出来上がるので、紙本が必要な方は水城まで直接お申し付けください。

2016年8月20日土曜日

感情やニーズは自然生命現象であり、コントールできない

共感的コミュニケーション(NVC)を身につけたいと思っている人のなかで、
「感情をコントロールできるようになりたい」
という方がときどきいらっしゃいます。

ちょっとしたことでイライラしたり、怒りにかられて暴力的な言動をとってしまったり、悲しみにとらわれてなにもできなくなったり。
強すぎる感情は、ときに人を振りまわします。
そんな感情をコントロールして、いつも冷静にいられたり、どのようなことにも落ち着いて対処できたらいいのに、と思うのは当然のことでしょう。

しかし、残念ながら、感情はコントロールできません。
感情はただそこに生まれ、存在します。
そのこと自体をコントロールすることはできません。
つまり、心臓の動きや体温をコントロールできないように、感情が生まれるのをコントロールすることはできないのです。
感情は自然に発生する人の生命現象のひとつです。

一見、感情をコントロールできているように見える人がいます。
本当は怒りが逆巻いているのに表面的には冷静をたもっている人、本当は悲しかったり寂しくてしかたがないのになにごともないように明るくふるまっている人、本当は調子が悪くやる気も出ないのに元気なふりをしている人。
これらは「コントロール」ではなく、別のふるまいです。

感情を無視する、ごまかす、やりすごす、抑えこむ、ねじ曲げる、こういったふるまいによって、一見コントロールしているように見えることがあります。
いずれも自分の自然な生命現象を力づくで変質させようとする、いわば自分のたいする暴力的なふるまいです。
本当は疲れきって休まなければならないのに、無理に栄養剤や点滴を打って身体にムチ打つようなものです。

感情を不自然に扱うことで、人はしだいに鈍感になります。
自分の本当の感情がどのようなものなのか、いまなにを必要としているのか、わからなくなってしまいます。
感情は共感的コミュニケーションでいうところの「ニーズ」をさししめすポインターの役割をはたしていますが、それが機能しなくなります。
感情はただあるがまま受けとり、丁寧にあつかう必要があるのです。
さらにいえば、感情をあるがままに繊細に受けとり、目をそらすことなく丁寧に見る目をやしなう必要があります。

感情はコントロールするのではなく、まずは繊細に見る必要があります。
自分の感情にたいして客観的に見ることができるようになれば、その感情が起こったとき自分はどのようにふるまってしまうのか、その感情は自分のどのようなニーズを教えてくれるのか、だんだんわかるようになります。
そうすれば、感情に振りまわされることなく、自分を客観視し、そして自分に必要な行動を選択できるようになります。
このプロセスを練習することが共感的コミュニケーションの練習にほかなりません。

自分という人間の生命現象――生きて呼吸していること、心臓が鼓動していること、体温が保たれていること、消化吸収がおこなわれ体力が回復すること、危険を察知し回避する行動が生まれること、自分に必要なことを自分自身が教えてくれること、そして豊かな感情がその身体に生まれること、こういったことにたいし謙虚になり、尊重をあたえ、丁寧に繊細にあつかう方法を身につけていきたいのです。

8月開催:水城ゆうのオンライン共感カフェ(8.28)
自宅や好きな場所にいながらにして気軽に参加できる、ネットミーティングシステム(zoom)を利用した共感的コミュニケーションの60分勉強会、8月の開催は8月14(日)20時/28(日)20時です。

2016年8月19日金曜日

自己承認とは自分という孤島の土台を築くこと

承認欲求、ということばがあります。
人から認めてもらえないと自分の居場所がない、生きている価値が感じられない、それゆえに他人から承認されることを追いもとめ、それに執着する、という欲求のことです。
しかし、自分のおこないが必ずしも人に認めてもらえるとはかぎりません。
承認どころか、ときには拒絶されたり、けなされたり、批判されることもあります。

承認欲求がこうじると、だれかひとりではなく、すべての人に認められないと気がすまなくなります。
これもちょっとかんがえればわかることですが、すべての人に承認されるように行動することは不可能です。
多くの人に気にいってもらえたとしても、かならずだれかから否定されたり、批判されるということは起こります。

結局のところ、自分が「これでいいのだ(by バカボンパパ)」と落ちつき、自信を取りもどすには、他人にたよるのではなく、自分で自分を認めることしかありません。

どんな人も「自分という孤島」を生きています。
このちっぽけな島はいつも風雨が吹きつけ、荒波にもまれています。
そこにどっしりと立ち、安全であることに安心し、自分の楽しみを持ち、いきいきとしつづけるには、島の土台がしっかりしている必要があります。
自分自身を認め、うまくいっていることがたくさんあることを確認することで、島の土台はしっかりしていきます。

うまくいっていることを確認するというのは、満たされたニーズをお祝いするということです。
私たちはいつも自分のニーズを満たすために行動しています。
たとえ無意識であれ、どんな言動もなんらかのニーズを満たすためにおこなわれています。
その言動によってねらいどおりニーズが満たされることもあれば、満たされないこともあります。
日々、そういうことが起こっています。

私たちの習癖として、満たされなかったニーズに目を向けるのはたやすくなっています。
つまり、「ダメだし」をするのは得意なのです。
すべての人がそのように教育されてきています。
いまの教育制度は、なにがまずかったのか、なぜ失敗したのかに注目し、それを修正することで成長をうながします。
これがうまくいくこともありますが、うまくいかないことも多いのです。

逆に「なにがうまくいっているのか」に注目することで、より成長をうながす方法があります。
これが共感的コミュニケーション(NVC)の提唱者であるマーシャル・ローゼンバークの推奨している方法です。

一日の終わり(でなくてもいいんですが)に、今日自分にとってなにがうまくいったのか、どんなニーズが満たされたのかについて注目し、そのことを存分にお祝いする。
それが自分という孤島の土台をしっかりしたものにします。

水城ゆうのオンライン共感カフェ(8.28)
自宅や好きな場所にいながらにして気軽に参加できる、ネットミーティングシステム(zoom)を利用した共感的コミュニケーションの60分勉強会、8月の開催は8月14(日)20時/28(日)20時です。

2016年8月18日木曜日

つながりツールとしての表現欲求

8月15日に配信した「なぜ書くか」という記事を読んだ治療師の藤田俊紀さんから、メールをいただきました。
ありがとうございます。
それをご紹介させていただいた上で、私のかんがえを補足しておきます。

――――――
今日(8月15日号)の水城さんのメルマガを読んで考えています。
私の「純粋表現欲求」は何だろう。

私は以前から私の内に「遠い太鼓」(村上春樹さんの本から)が響いているのを感じていました。無意識に私を突き動かそうとする「遠い太鼓」です。
その「太鼓の響き」が水城さんの云われる「純粋表現欲求」でしょうか。
私の治療に於いて、私はその太鼓の音の響きと共鳴させたいと思い続けて来たように思います。
お経の詠唱、アボリジニーのディジュ、ジャンベ、口琴、ホーミー、ハング等々。
一つが見付かっても、更なる深みを求めて次々と憑かれたように求めて来ました。
でも求めている限りは見付からないのだと云うことも分かって来ました。
求めているものは、自分の外側に有るのではなく、自分の内側にあるものだからです。求めても得られないと分かっていながら、求めざるを得ない内なる太鼓の響き。それが私を動かしている。それが今現在の私です。
これが水城さんの言われる「純粋表現欲求」でしょうか。私は自己表現を求めているのかな。
この「遠い太鼓の響き」は内なるものの様に思います。
とりとめなく書きましたが、水城さんのメルマガを読んで頭に浮かんだ思いです。
――――――

なにかを探しもとめるのは人間の性《さが》かもしれませんね。
私は「太鼓」はすぐ近くにあって、いつもそれを聴いているんだけど、耳が成長してくるとしだいに遠い太鼓の音も聞こえるようになって、それを探す旅に出かけたくなるんじゃないかとかんがえてます。
私もかつて、若いころから、小説を書くときも音楽をやるときも遠い太鼓の音ばかり探しもとめていましたが、それゆえに近くの太鼓を邪魔に感じていました。
近くの太鼓の音はあまりに大きすぎて、探しもとめている遠くの音が聞こえなくなってしまうように思いこんでいたからです。

あるときから、近くの太鼓の音に耳をすますことが大事で、それはけっして鼓膜を破るほどの大きな音でばかり鳴っていなくて、ときにはか細く、ときには繊細に鳴っていることに気づいたからです。
ときには自分は鳴らずに遠くの音に共鳴しているだけのこともあります。
自分の太鼓の音がしっかり聴けるようになると、それを鳴らすことも、共鳴させることも、遠くの太鼓に耳をすますこともできるようになります。

追伸でいただいたメールもご紹介させていただきます。

――――――
追伸
私の連れ合いが水城さんのメルマガを読む私の言葉を聞いて、次の様な感想を言ってました。
「ただ純粋に「純粋表現欲求」として書くのだとしたら、何故人に見せる必要が有るのかな」と。
水城さんこの疑問にどう答えられますか。
私も連れ合いの鋭い指摘に何時も辟易としますが、結構視点としては的を射ているので、考えさせられています。
――――――

人は共鳴する動物だからでしょうね。
はじめは純粋にただ欲求にしたがって表現していただけのものが、あるときそれをだれかが見てくれる、聴いてくれる、ということに気づきます。
そしてレスポンスが返ってくることを知ります。
表現することによって人と人がつながれることを、子どもは学んでいきます。
そのつながりのことをコミュニケーションといいかえてもいいですが、現代社会のコミュニケーション・システムはときに「つながりツール」といううまく機能していません。
つながりどころか、断絶のツール、暴力のツールとして働いてしまうことがあります。
しかし、本来、表現の交換というのは共感であり、おたがいの生存のためのしっかりとしたつながりを作るための方法なのです。
私はそのようにかんがえています。

自力出版講座、全3回@オンライン(8.21/28/9.4)
自作の出版を、既存の出版社から独立出版へと完全移行した水城ゆうが、そのノウハウを全3回でシェアします。ネット会議システムを利用したオンライン講座なので、どなたも居ながらにして参加できます。いずれも日曜18時から2時間。

2016年8月17日水曜日

羽根木を離れて初開催、下北沢での表現者韓氏意拳講習会

これまでほぼ毎月、世田谷・羽根木の家で開催してきた「身体表現者のための韓氏意拳講習会」を、今回、羽根木の家を退去してはじめて、別の場所で開催しました。
7月いっぱいで退去したので、8月中に開催できるとは思っていなかったんですが、うまい具合に公共施設の空きがあって、開催することができました。

場所は、羽根木の家にほど近い、下北沢の区民集会所です。
下北沢駅の井の頭線・西口改札から徒歩30秒の、大変便利な場所です。

申し込みが次々と来て、会場の広さが心配になってしまったほどですが、開催日の8月15日はお盆で、休みの人が多かったんですね。
ちょっとうかつでした。

結果的に私もいれて11名の参加者がいて、うち7名は女性の方という会になりました。
「身体表現者のための」と銘打ってはいますが、かならずしもそのような方ばかりではなく、教師や主婦、会社員といった方も参加されていました。
もちろんそういう方も歓迎なのです。
生きていることそのものが「表現」であるということもできます。

ところで、韓氏意拳という武術の稽古がどれだけ日常生活のなかで重要になっているのか、昨日あらためて気づきました。
先月いっぱいで世田谷の羽根木の家を退去して、国立に引っ越してきました。
そのドタバタで、いろんなことがいつものようにできなくなっていて、日常生活が分断されたような感じがしていました。
いつものような早寝早起きが不規則になったり、食事が不規則になったり、自分にとって重要な表現活動のいくつかができなくなったり。

もっとも影響を感じたのは、ピアノが弾けなくなったことです。
すこしでもピアノの練習をしたことがある人ならわかると思いますが――あるいは楽器の練習をしたことがある人ならわかると思いますが、これは毎日一定の練習時間を持って向かわないと大変おかしなことになってしまうのです。
上手下手という問題ではありません。
楽器の練習をするというのは、自分の身体感覚と向かい合う時間なのです。
毎日ジョギングをする人ができないとか、毎日ラジオ体操をする人がやらないとか、毎日ヨガをする人ができない日があるとか、そういう感じに似ているかもしれません。

ほかにもしばらくきちんと料理ができなかったり、落ち着いて仕事ができる場所が確保できなかったり、寝る場所もごたごたと片付いていなかったりと、落ち着かない要因がいくつもありました。

気がついてみると、注意散漫になり、動きも雑になっていました。
その結果、慣れない台所で頭を打って、2針も縫う怪我をしてしまいました。
それが先週のことですが、昨日もまたおなじような場所で頭をぶつけました。
幸い、今回は縫うほどではなかったんですが、コブができてしばらく頭痛がおさまりませんでした。

そんななか、韓氏意拳の講習会に行ったわけですが、あらためてこの武術で自分の身体に向かい合い、ばらばらになっている現代人としての自分の身体を拾いあつめ、ぎゅっとまとめあげつつ、緻密にその声を聴いていくことの重要性を感じました。
ほうっておくと私はなんてさぼりがちなのか、どれだけ自分の身体を雑に見ているのか、自分自身を粗雑にあつかっているのか。

韓氏意拳、表現、コミュニケーション、日常生活のいろいろなおこない、これらすべてがマインドフルに注意深く、丁寧でありたいと、あらためて思ったしだいです。
今日はそんな私自身のために、ということもあって、マインドフルネスの練習会を代田区民センターでおこないます。
よければお付き合いください。
ご案内はこちら

2016年8月16日火曜日

なぜ書くか

人からは、
「どうしてお金にもならない文章をそんなにたくさん書くの?」
と訊かれることがあるし、私自身も、
「なぜこんなに書くんだろう」
と思うこともあります。
なぜでしょう。
あらためてかんがえてみました。

人からほめられたいからなのか。
ちがいます。

自己顕示欲なのか。
ちょっとあるかもしれない。
でも、ちがうような気がする。

私は小説家という人種ですが、みなさんが誤解しているのは、小説家は生活のために――つまりお金を稼ぐために書いている、と思われていることです。
ちがいます。
小説家という人種は、お金をもらえようがもらえまいが、書くのです。
そこがライターとはちがうところです。

ライターは依頼があって、原稿料がもらえない仕事はしません。
小説家は依頼がなくても仕事をします。
結果的に原稿料をもらえることもありますが、結果的に原稿料をもらえない小説を書くこともあります。
つまり、他人や世間とは関係なく、勝手に書いているのです。
そこには純粋に「書きたい」という欲求があります。
これを私は「純粋表現欲求」と呼んでいます。

みなさんもおぼえがないでしょうか。
子どものころ、だれにも見てもらえないかもしれない絵をひとり描いたり、だれにも聴いてもらえない歌をひとりで歌ったり、だれかのためでもない工作をしたり、お話を作ったり。
そのとき、夢中で、無上の喜びはなかったですか?
大人になると、多くの人がそれを忘れてしまいます。

人は生きてそこに存在しているということを表現したい動物です。
たとえそれがだれにも見てもらえないとしても。
石器時代の洞窟に描かれた絵は、だれかに見せて評価されることを期待して描かれたものでしょうか。
私はちがうと思います。
あれはただ純粋に、描きたい人がいて、描きたいから描かれた絵なのです。
そのことを私は直感します。
なぜなら、自分のなかにもおなじ衝動があるから。

これを書いているいまも、書きたいから書いているのです。
だれかに読んでもらってほめられることを期待しているわけではありません。
幸いなことに、私のメールマガジンやブログは多くの方に読まれています。
こうやって書いていることが多くの方に読んでいただけることを知っています。
大変ありがたいことです。
しかし、それを目的に私は書いてはいません。

私は次世代作家養成ゼミという、書き手を育成するための講座をやっていて、いまそこには大変すぐれた書き手が何人か集結しています。
そこにいるのは、純粋に書きたいという欲求を持っている人です。
書いたものを売りたい、そのことで有名になりたい、お金持ちになりたい、という人はいません(ちょっと思っているかもしれませんが、それは二の次です)。
毎日、なにかしら書かざるをえない衝動をかかえている人が、そのクオリティを究極まで向上させたいという欲望を持って、切磋琢磨する場としての次世代作家養成ゼミに参加しているのです。
なので、毎回、すごいことが起こります。
びっくりするような作品を読むことができます。

私も負けていられないのです。
みずからの純粋な表現欲求に突き動かされて書き、そして書くものが少しでも高いクオリティを持てるように成長したい。
そのために書くのです。

自力出版講座、全3回@オンライン(8.21/28/9.4)
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嘆きと愚痴はどうちがうのか

共感的コミュニケーション(NVC)では「満たされなかったニーズ」があったとき、そのことを十分に「嘆く」必要があると教えています。
十分に嘆かれていないニーズは、自分のなかにしこりのような禍根をのこし、あとで悪さをすることがあります。

たとえば、だれかになにかをお願いしたのに、すっかり忘れられてしまった。
出かけるというのでちょっとした買い物をお願いしたのに、完全に忘れて手ぶらで帰ってきた、というようなことがありますね。
そのとき、自分の頼みを忘れられてしまった、ちょっとした手助けが必要だったのにそれが得られなかった、あるいは自分のことを大切に思われていないような気がしてしまった、そんなふうにニーズが満たされなかった悲しみや嘆きが生まれます。

ここで注意しておきたいのは、満たされなかったのは「自分のニーズ」であり、嘆きはそのニーズが満たされなかったことに向けられるのだ、ということです。
「私はちょっとした手助けが必要だったり、自分のことを気にかけてもらったり、大切にしてもらうことが必要なのに、それが満たされなかった。とっても悲しくてつらい」
ニーズが満たされなかった嘆きにきちんと向かいあい、それをしっかりと味わいます。
そのとき、自分のニーズを満たしてくれなかった相手を恨むのではなく、ただ満たされなかった自分のニーズに目を向けて嘆く、ということです。

満たされなかったニーズについてだれかに聞いてもらうのもいいでしょう。
このときも、相手への恨みつらみを聞いてもらうのではなく、満たされなかった自分のニーズとその気持ちを受けとって、ともに味わってもらうということです。

もし相手への恨みつらみに目が向いてしまっているとしたら、それは嘆きではなく「愚痴」になります。
愚痴も聞いてもらえればちょっと気分がすっきりしますが、しかし相手へのエネミーイメージは消えませんし、ときには増幅してしまうことがあります。
自分の満たされなかったニーズを十分に嘆いたら、今度は相手のニーズにも目を向けてみるといいでしょう。

ニーズは純粋なもので、満たされても満たされなくてもそれはただ自分のなかに大切なものとして存在しています。
十分に嘆かれたニーズは、純粋さを取りもどし、ふたたび満たされる機会をただうかがうだけなのです。

寿美ちゃんち共感おはなしカフェ@東松原(9.1)
東松原在住で自宅をイベントに開いている星寿美さんが、共感おはなしカフェを主催してくれます。おたがいに深く聴きあうことのできる場で自分自身の価値とニーズにつながるためのサポートをおこなうおはなし会です。

2016年8月14日日曜日

盛況・かまいキッチン共感おはなしカフェ「山の日」

8月11日(木)の午後は下北沢〈かまいキッチン〉での共感おはなしカフェでした。
毎月開催しているかまいキッチンでの共感カフェは、これで3回めとなります。

かまいキッチンは下北沢の一番街にほど近い商店街のなかにあって、子連れでも安心して飲食ができるお店として、とくに若いお母さんたちに人気のお店です。
オーナーのクミさんがトランジション世田谷 茶沢会のメンバーで、前から共感的コミュニケーションに興味を持ってくれていたんですが、この6月にチャンスがめぐってきて、毎月開催の運びとなったわけです。

今回、なぜか参加申し込みが多く、10人を超えても申し込みがやってくるので、ちょっとあわててしまいました。
定員を決めているわけではないんですが、お店の規模とほかのお客さんとのかねあいをかんがえると、10人くらいがめいっぱいかなあと思っていたからです。

あとでこの日は、今年から制定された「山の日」という休日であることがわかって、なるほどと思ったんですが、いつもよりちょっとにぎやかな感じでスタートしました。
人数が多いときはペアやグループに分かれて、それぞれワークをまずやってもらうことがあるんですが、なんとなくそういう雰囲気でもなく、みなさんの興味やニーズをうかがったりして始めました。
あとは流れに乗る感じで。
そこはまあ、即興ピアニストの得意分野というところでしょうか。

共感的コミュニケーションに初めて接する方が何人か、そしてマーシャル・ローゼンバーグの『NVC』を読んだことがある方が何人か(でもリアルの勉強会は初めて)。
1、2回、あるいは何回か参加したことのある方が数人。
総じて初心者の方が多く、まず「共感とはなにか」「同情や同調とはどうちがうのか」「リフレクションや傾聴とはちがうのか」といったところからはいっていきました。

いつものように参加の方の「こんなことで困っている」実例を取りあげて、共感的コミュニケーションのプロセスを――おもに自己共感のプロセスを説明しながら進めていきます。

最初はかるい気持ちで参加していたのに、進むうちに思いあたるふしが次々と出てきて、涙があふれそうになったという方もいらっしゃいました。
これはよくあることですが、共感的コミュニケーションという考え方の、非常にシンプルでありながら非常にパワフルな側面で、私はそこに絶大な信頼を置いています。
なので、ファシリテーターとしての自分のやり方がまずかったり失敗したり、参加者と相性がわるかったりしても、共感的コミュニケーションの持つインパクトはかならずみなさんに伝わるはずだという確信を持っていつも臨んでいるのです。

今回は時間をまちがえて、後半から参加するつもりが、終了時間になって参加してしまった若手の男性がひとりいて、せっかくなので30分だけ時間を延長してセッションをおこないました。
それまでの2時間のセッションで私もかなり疲れていたんですが、そのせいか逆に集中して30分、彼と向かい合うことができて、私自身は内容の濃いセッションになったように思います。

終わってからすぐにフェイスブックでのつながりを申請してくれた人や、来月のカフェに参加申しこみをしてくれた人もいて、ありがたいですね。
来月は私ではなく、野々宮卯妙がファシリテートします。
私とはまたちがった雰囲気、切り口でやってくれるはずですので、どうぞお楽しみに。
来月のご案内はこちら

2016年8月13日土曜日

なすとピーマンとひき肉のみそ炒め

夏野菜を使った炒め物は手早く作れておいしいので、おすすめです。

【材料】二人分
・なす……3、4個
・ピーマン……3、4個
・豚ひき肉……200グラム
・みそ、サラダ油、ごま油、塩、コショウ、中華スープの素、酢、砂糖

ピーマンは種を取り、ざく切りにしておきます。
なすも食べやすく火も通りやすいように、適当に切りわけておきます。

合わせ調味料を用意しておきます。
中華スープ(大さじ半分)を大さじ1杯のお湯に溶きます。
そこに酢(大さじ半分)、砂糖(大さじ1)、みそ(大さじ2)をくわえ、よく溶いておきます。

フライパンにサラダ油(大さじ1)を入れ、中火で豚ひき肉を炒めます。
軽く塩コショウし、火が通って色が変わったら、いったん皿に取りわけておきます。
残った油にごま油(大さじ1)を足して、なすを炒めます。
しばらく炒めたら、ややしんなりしたら、ピーマンも加えます。
ピーマンに火が通りすぎないうちに、取りわけておいたひき肉をフライパンにもどします。

合わせ調味料を加え、ざっくり炒めあわせたら、完成です。
今回はやりませんが、片栗粉を水で溶いたものを最後に加えて、全体にとろみをつけるのもいいかもしれません。
いただくときに山椒の粉をふりかけてもいいですね。

自力出版講座、全3回@オンライン(8.20)
自作の出版を、既存の出版社から独立出版へと完全移行した水城ゆうが、そのノウハウを全3回でシェアします。ネット会議システムを利用したオンライン講座なので、どなたも居ながらにして参加できます。

2016年8月12日金曜日

いつ書くか

人からしばしば受ける質問に、
「よくそんなにたくさん書けますね。いつ書いてるんですか?」
というものがあります。
けっこう頻繁に訊かれるので、自分でもちょっとまじめにかんがえてみました。

たしかに書くのは速いのです。
タイピングそのものがそこそこ速いのです。
ローマ字入力ではなく日本語カナ入力です。
これは小説家になってまもなく、ワードプロセッサで原稿を書くようになった当時からそうなのです。
しかし、私がたくさん書けている理由は、それだけではありません。

短時間に集中できる、ということが大きいと思います。
職業小説家になってしばらくは、丸ごとほぼ一日を書くことに使うことができました。
なのでけっこうだらだら書いていたのです。
だらだら書いていても丸一日それに使えるわけですから、けっこう書けます。
職業小説家時代に書いた本は30冊以上あると思います。

商業出版の世界から距離を置き、オリジナルコンテンツを自力で作るようになってからは、それだけで生活することは難しくなったので、一日中書くことに時間を使うというわけにはいきません。
ほかの仕事をしながら、家事をこなしながら、ネットにアクセスしながら、メールやメッセージにレスポンスしながら、人と会いながら、出かけながら、その合間に書くのです。

数分とか数十分というほんのちょっとした時間に、さっと集中して書く。
これはやはり、そのための訓練がものをいっています。

短時間でなにかに集中し、またパッと切り替えて別のことに向かう。
そのための訓練としては、マインドフルネスの練習がもっとも効果的です。
ごちゃごちゃした余計な思考を追いだし、いまこの瞬間の自分自身のありように目をむける。
呼吸法や瞑想もそれに役立ちます。
四年前にはじめた韓氏意拳も非常に有効です。
とても深いマインドフルネスと身体的気づきの世界にはいっていくことができます。

いまこの瞬間の集中をさまたげるのは、思考です。
なにかをかんがえたり、思いだしたり、想像したり、反芻したり、心配したり、といった脳内思考が、集中力をいちじるしく阻害します。

たぶん私といっしょに生活するとわかると思うんですが、けっこうあれこれと動きまわり、いろんなことをちょこまかとやっています。
コーヒーをいれる、ご飯を作る、編み物をする、ネットに向かう、ピアノを弾く、本を読む、人と会う、写真を撮る……その合間に、瞬間的に集中して執筆もします。
いつも開きっぱなしになっているMacBookにさっと向かい、つぎの瞬間にはもうキーを叩いています。
5分もあれば原稿用紙換算で1枚くらいは十分に書けます。
1時間あれば10枚くらいは書けるのです。
集中できれば。

この記事も、書きはじめていま、20分もたっていないと思います。
これを書いているのは2016年8月10日の午後2時22分。
書きはじめたのは午後2時をすこしまわったころ。
この記事の文字数は、この時点で1200枚をすこし超えていますから、原稿用紙換算では改行や空白もいれれば4枚弱くらいでしょうか。
このペースだと1時間に10枚は十分に書けますね。

しかし、1時間ずっとコンピューターの前にすわっていられることはめったにありません。
こまぎれの時間を使ってどんどん書くのです。
もちろん、書きたいことがあるから書くんですが。

よく「書きたいことがわからない」とか「書きたいことはあるけど、どう書けばいいのかわからない」という人がいます。
そういう人には、どうすればいいのか、いっしょにかんがえてみましょう、と提案しておきます。
次世代作家養成ゼミというオンライン講座がありますから、興味がある方は一度参加してみてください。

2016年8月11日木曜日

承認欲求を満たすための最終ゴール

先日のオンライン共感カフェでは、
「だれかをコントロールしたくなる、自分の思いどおりにものごとが運ばないといらいらする」
という話から、自分自身の承認欲求をどう満たすか、という話に転じていきました。

自分がなにかをしていて、それを邪魔されると、相手に怒りをおぼえる。
そのとき、相手に向けるのは、
「こちらを邪魔しないで」
という、一見相手をコントロールしようとする行動のように見えます。

そのとき、自己共感的に自分を注意深く見てみると、相手をコントロールしようとしているのは、自分のニーズを満たすために相手の協力を必要としている、ということを意味していることに気づきます。
つまり、「邪魔しないで」という要求は、「わたしに協力して」というお願いにいいかえることができるということです。

そのときこちら側は、相手から尊重されたり大事にされたり、無償で協力されたりといったサポートを必要としていて、本当は無防備に自分のお願いを相手に伝えたいのです。
しかしそれをためらってしまうのは、そんなお願いを相手にしても拒絶されるのではないか、自分のことを大切にしてもらえないのではないか、という恐れがあるからだし、実際にそういう経験の記憶があって、お願いをしようとしても記憶から来る痛みが私たちをためらわせてしまうからです。

だれにたいしても自分が必要としていることを無防備にお願いできるようになるためには、自分自身につながり、ありのままでいいのだ、もし拒絶されつながることができなかったとしても自分にはニーズを満たす手段がたくさんあるのだ、という自信の裏付けがあることが必要です。

たとえだれからも認められていないと感じたとしても、なにより自分自身が自分を認めているという確固とした安定と安心。
最終的なゴールともいえるその自己承認の感覚はどのようにしたら得ることができるのか。
そういう話をさせていただきました。
自己共感のスキルを用いれば、それはたしかに得ることができるのです。

いまの日本の社会では、子どもたちをふくめ、自己承認がうまくできない人が多くいます。
自分に自信がなく、だれかに認めてもらいたい、ほめてもらいたい、見てもらいたい、そんな切望感で苦しんでいる人がたくさんいます。
そんな人たちにこそ、自己共感のスキルを用いて、自信に満ちたいきいきとした日々を獲得してもらいたいと思います。

この自己承認のプロセスについては、項をあらためて書くことにします。
興味がある方はそれをお待ちいただくか、共感カフェで気軽におたずねください。

8月開催:水城ゆうのオンライン共感カフェ(8.14/28)
自宅や好きな場所にいながらにして気軽に参加できる、ネットミーティングシステム(zoom)を利用した共感的コミュニケーションの60分勉強会、8月の開催は7月8(月)16時・20時/14(日)20時/28(日)20時です。

2016年8月10日水曜日

ゴーヤと玉ねぎとツナのマヨ炒め

ニガウリことゴーヤの季節ですね。
北陸育ちの私の子どものころは、ゴーヤなどという野菜は口にすることがありませんでした。
大人になって、しかもかなり年齢が上になってから初めて食べたんですが、最初はご多分にもれず、その独特の苦さにとまどったものです。
しかしいまは、コーヒーの苦さがやみつきになっているように、ゴーヤの苦さも夏の味覚として欠かせないものとなっています。

ゴーヤといえばゴーヤチャンプルーなんですが、ゴーヤカレーもいいですね、よく作ります。
沖縄の友人からは、
「なんといっても天ぷらが一番」
と教えてもらったので、今度作ってみようと思います。

今日は豆腐がなかったので、ツナ缶を使って普通の炒め物を作ってみました。

【材料】二人分
・ゴーヤ……1本
・玉ねぎ……半玉
・ツナ缶……小2缶
・にんにく……ひとかけ
・サラダ油、塩、コショウ、醤油、マヨネーズ

フライパンに油(大さじ1)をいれて、みじん切りにしたにんにくを弱火で炒めます。
香りが立ってこんがりしてきたら、火を強め、ざっくりとスライスした玉ねぎを炒めます。

ゴーヤはあらかじめ縦ふたつに切って、内側の種とワタをスプーンなどでけずり取っておきます。
5ミリ以下くらいに小口からスライスしておきます。
それを玉ねぎのあとに投入します。

塩とコショウを振ります。
完全に火が通らないうちに、ツナ缶を投入します。
醤油をひとまわしかけて、ざっくりと炒めあわせます。
最後にマヨネーズをひとまわしかけて、まんべんなく混ぜあわせたら、完成です。

簡単です。
製作時間は10分もかかりません。
ご飯のおかずにするもよし、お酒のつまみにするときは心持ち塩を多めにするといいかもしれません。

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2016年8月9日火曜日

音楽瞑想が脳幹に影響を与え身体を整える

先日の音楽瞑想ワークショップは、下北沢区民集会所の地下Aホールで開催しましたが、参加者がすくなかったので内容が変則的でした。
とくに鍼灸師・整体師・アレクサンダーテクニークの指導資格をお持ちの、いまは独自の気功治療をおこなっているウルトラ治療師の藤田俊紀さんが参加してくれたので、音楽瞑想がおよぼす影響について調べながらおこなってみた試みが、私としては非常に興味深いものでした。

もともとはディープリスニングという名称でおこなっていた真の暗闇のなかでのピアノの即興演奏を聴いてもらう体験ですが、音楽瞑想のあと多くの人がいろいろな反応や変化を伝えてくれます。

滂沱《ぼうだ》の涙をながしてすっきりした、浄化された、という人がいます。
温泉にゆっくりつかったあとみたいな感じがする、という人がいます。
全身マッサージを受けたあとのような感じだ、という人がいます。
ほかにもさまざまな感想を聞いてきましたが、いずれにしても多くの人になんらかの癒し効果があることはなんとなくわかっていました。
それがなぜ起こるのか、どのように起こるのかは、私自身にはよくわかっていませんでした。

今回のワークショップでは、音楽の仕組みについてちょっと解説をはじめたのです。
ドミナントモーションと呼ばれる、ドミナントセブンスからトニックへと解決する「緊張=緩和」の動きが、音楽にダイナミズムをあたえている、そのことをクラシック音楽などは利用していて、現代のポップスなど大衆音楽にもつながっていることを解決しはじめました。
すると、それをおもしろがって聴いておられた藤田さんが、音楽を聴く前と後で身体がどんなふうに変化するのか、調べてみましょうと提案しました。
私も参加者も好奇心いっぱいになって、もちろんその提案を受諾しました。

藤田さんは独自のオーリング診断や、触診によって、その人の身体の状況を瞬時に把握します。
失礼ながら私よりも長く生きておられ、何万人という方の身体と向き合ってきた経験と知見によるものです。
そして独自に追求と探求を重ねてこられた結果、いまの「脳幹の緊張を取り、整えることで、自己治癒能力を呼びもどす」という方法にたどりついたそうです。

ここではくわしく書きませんが、たしかに藤田さんの治療を受け、説明を聞くと、いろいろ納得できるものがあります。
なにより私自身、藤田さんの治療を受けたあと、非常に不思議な体験をしたことがあります(そのことは別の機会に書きたいと思います)。

藤田さんの直感で、ひょっとしてある種の音楽は脳幹の緊張を取り、整える効果があるのではないか、というのです。
で、実験してみました。

被験者は私自身も含まれます。
演奏前にオーリングのテストや触診を受け、身体の状態を調べます。
私は身体の左半身にとどこおりがあり、触られると飛びあがるほど痛い場所がいくつもありました。
足のふくらはぎも、触られるととくに左が痛みます。

そのあと、いつものように音楽瞑想のための即興演奏を10分くらいおこないました。
今回はとくに緊張音を排して、自分では落ち着く効果が高いと感じているペンタトニックを多用した東洋的な調性をたもったサウンドで演奏してみました。

終わってからふたたび藤田さんのテストを受けます。
おどろいたことに、だれもが事前に感じていた痛みやとどこおりが解消されていたのです。
私自身も、左半身のとどこおりがいちじるしく軽減され、左のふくらはぎを触られてもほとんど痛みはありません。
むしろ心地良いくらいです。

聴き手も演奏者も同様に効果があるということがわかり、かなりおどろきました。
そして音楽瞑想がもたらす効果をあらためて客観的に知ることができて、大変うれしく思いました。
これはぜひ多くのみなさんにも知ってもらいたいし、体験してもらいたいし、また自分のためにも定期的につづけていきたいものです。
ひょっとしたら、藤田さんとのコラボで開催することもできるかもしれません。

ところで、次回の音楽瞑想ワークショップは9月18日(日)、明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉にて開催します。
夜の音楽瞑想コンサートと合わせてお楽しみいただければ幸いです。
詳細はこちら

2016年8月8日月曜日

この作家たちを声を大にして知らしめたい

次世代作家養成ゼミがすごいことになっています。

私は1990年前後に有名な「小説工房」というサイトをファシリテートしていて、そのときからズブのど素人の原稿を何千本と読みこみ、アドバイスし、そこから数多くの作家、ライターが旅立っていった実績を持っています。
もちろん私の手柄というわけではなく、それぞれのみなさんの努力と能力のたまものだと思いますが、なにをいいたいかというと、私には作品の優劣や可能性を見抜く能力がある、というゆらぎない自信があるということです。

音楽でも美術でも骨董品でも、なんでもそうですが、それがすぐれたものであるかとうかを見抜くには、そうとうな経験を積んで眼力を育てる必要があります。
長年、数多くの玉石混交の作品群を読みつづけてきた私は、知らずしらずのうちにそのような眼力を身につけてきたのだ、と自負しています。

そんな私が、いま、おどろいているのです。

まずは奥田浩二。
彼は4年くらい前から次世代作家養成ゼミに参加います。
なかなかのアイディアマンで、当初からさまざまなスタイルの文章を書きわけていたんですが、それゆえに確固たる自分軸のようなものがなかなかできずにいました。
また基礎的な執筆のための身体力も不足していました。
私の印象では長らく鳴かず飛ばずの印象だったんですが、去年の終わりごろだったと思います、ふと気がついたら「ものすごく書ける人」になっていたのです。

なにを書いても自分のものになっている。
なにをどう書けばいいのか、テキストという表現ツールを自在にあやつれる書き手になっている。
いまどきのプロ作家といえども、奥田くんくらい「書ける人」はそうそういないと思います。
ベストセラーかもしれませんがきちんと書けない人の作品がマーケットに山積みになっているのが、いまの商業出版の現状であることは、私がわざわざ指摘しなくても多くの方が了解していることでしょう。
もし奥田くんの作品がマーケットにならんだとしたら、眼力のある人はかならず彼の可能性に気づくはずです。
もっとも、それが売れる、売れないは別の話ですが。

もうひとり、びっくりしているのは、沖縄からオンラインで今年のはじめから参加している知念満二氏。
最初のころは力にまかせた書きなぐり型の作品という印象があったんですが、それもじつはあまりに力がありすぎるあまりの勇み足みたいなものだったのです。
ここ半年以上、毎週のようにコンスタントに書きつづけ、毎日書くことをかんがえ、実践し、そして根気の必要な書きなおす作業に取りくみつづけてきた結果、本来持っている力が漏れこぼすことなく作品に乗ってくるようになってきました。
そしてアイディアの奇抜さ。
まさに知念氏のオリジナルな身体から発生する、だれもが読んだことのないストーリーです。

先日、読ませてもらった作品は、圧倒されるようなアイディアと描写の連続で、まるで知念氏が身体ごと読者にぶつけてくるような執念を感じるもので、読んでいて途中で涙がこぼれそうになりました。
これはぜひとも世に出したい、そう思わせる作品でした。

現在、次世代作家養成ゼミはこのふたりと、私と、いまちょっと忙しくて離れていますが野々宮卯妙の4人で活動しています。
養成講座というより、これはもう作家集団といってもいいでしょうね。
私も引っ越しが落ち着いたら、機関誌『HiYoMeKi』の編纂に取りかかるつもりです。

既存の商業出版や商業的ストーリーではなく、真に自分自身の存在をテキストを用いて表現してみたいと思っている人は、どなたも歓迎します。
ここに参加してみませんか。

次回の次世代作家養成ゼミは8月12日(金)の夜7時から、オンラインで開講します。
この日の作品テーマは「パンダ」です。
テーマを念頭においた500字以内または1000字前後のみじかい作品をたずさえて、参加してみてください。
詳細はこちら

2016年8月7日日曜日

アマゾンではじまった Kindle unlimited

アマゾンでKindle書籍の読み放題サービスがスタートしました。
これに登録すると、対象の電子書籍が無料で読み放題になります。
アメリカなど欧米で先行スタートしていたサービスですが、ついに日本でもはじまりました。
現在、一か月無料お試しキャンペーンをやっているので、ぜひ試してみてください。

なぜこんなことを書いているかというと、私の本も読み放題の対象品目になっているからです。
この機会に多くの方に読んでいただけたらうれしいです。

私の本以外にも、対象になっているのはコミック、小説、実用書、雑誌など、たくさんあります。
私もさっそく登録してみました。
とくにコミックはありがたいですね。

おもしろいシリーズがあるとついハマってしまって、次々と読みすすんでしまうんですが、一冊500円くらいするので、全20巻なんていうのを夢中で読んでしまうと、あっというまに1万円が消えてしまいます。
読み放題だとそんな心配をすることなく、好きなだけ没頭できます(仕事進まないけど)。
おすすめのコミックタイトルがあったら、ぜひ教えてください。
またレビューしてみたいと思います。

私のKindle本で読み放題サービスに登録されているもののリストをあげておきます。

 桟橋

2016年8月6日土曜日

初開催でした、寿美ちゃんち共感おはなしカフェ

東松原在住で、自宅をひらいてイベントを開催している星寿美さんが、共感的コミュニケーションの勉強会の「共感おはなしカフェ」を開いてくれるということで、その最初の回にファシリテーターとして参加してきました。

星寿美さん、というより、いつものように寿美ちゃんと呼びますが、彼女との最初の出会いは東松原の〈小春食堂〉でした。
現代朗読ゼミ生のてんちゃんが、こちらでやっているオープンマイクに参加するというので、近所ということもあってのこのことついていったのが最初の出会いでした。
オープンマイクを手伝っていて、ご自分でも歌をうたったりして、不思議な人だなあと思っていて、そのあと小春食堂で開催した共感カフェにも参加してくれたのです。

その後もことあるごとに一緒になったり、そのへんを歩いていてばったり会ったり(笑)、羽根木の共感カフェに参加してくれたり、そんなことがつづいていたんですが、いよいよ羽根木の家がなくなるというときに、共感カフェの開催を自宅でも引きうけてくれるという話になったのです。

それまで寿美ちゃんちに行ったことはなかったんですが、今回、初めて訪問しました。
坂の途中の、ちょっとした隠れ家的な雰囲気の部屋で、落ち着きます。
今回は告知もあまりできずに、急きょ開催したということもあって、5人という少人数での回でしたが、10人くらいまでならいけそうです。
まあ、10人いっぱいはいったら、ちょっと窮屈かもしれないけど。
少人数でひとりひとりのニーズにじっくり向かい合って話を聴くのが私の好みのスタイルなので、いい感じです。

寿美ちゃんがひとりひとりの好みを聞いてお茶を出してくれたり、終わってからも手作りのスイーツを出してくれたりと、とても場を大切にしている感じがうれしかったです。

共感的コミュニケーションに初めて接する人がふたりいましたが、興味を持っていただいたようでした。
親子関係やパートナーとの関係、自己共感、マインドフルネスといったことについて、ざっくりとではありますが、ご紹介できたように思います。
ここからさらに理解と経験を深めていってもらえるといいですね。

寿美ちゃんちの共感おはなしカフェは定期開催です。
毎月第一木曜日に開催することになっていますので、ご自分のスケジュールをチェックしてみてください。
9月は1日の午後2時からの開催を予定しています。
詳細と申し込みはこちら

2016年8月5日金曜日

呼吸、マインドフルネス、自己共感

8月2日の夜は隔月で開催している三軒茶屋〈カフェ・オハナ〉共感的コミュニケーションのワークショップ・ミニライブ付きでした。

何度めかの参加になる方から、
「自分を守る方法として、人から攻撃されてもそのニーズを推測し、共感を向けていく、というのは頭ではわかるんだけど、どうしても怖くて身体がすくんでかたまったり、反射的に逃げようと反応してしまいます」
という悩みが出されました。

人はだれでも、自分が攻撃の対象になったとき、自分を守ろうとして逃げたり、ブロックしたり、あるいは逆に反撃に出たりします。
まずは当然の反応といえます。
そのとき、「浮き足立つ」という表現がぴったりの状態になっていないでしょうか。
文字どおり、地に足がついていないように、おろおろと無自覚に反応してしまいます。

攻撃にかぎらずどのような相手にたいしても共感してつながりを作ることを試みるには、まずこちらの足が地についている必要があります。
つまり、自分自身のニーズにつながっている必要があるということです。
いいかえれば、自己共感ができている状態です。

自己共感によって自分のニーズにつながっている人は、地に足がついている状態です。
私がよくいうたとえを使えば、自分のしっかりした土台の上に立っている状態です。
自分の島に立っているともいいます。
あるいは沈まない浮き輪につかまっているといってもいいでしょう。

どんなことが起きても、まずは自分自身につながり、自分の土台を確認し、確保してから、相手に共感を向けていく。
そうでないと、相手への共感もゆらいだ弱々しいものとなってしまい、対立や断絶を生むことになってしまう場合もあります。

というわけで、オハナでのワークは自己共感についてあれこれためしてみたんですが、とくにマインドフルネスは重要なスキルで、そのきっかけとして普通の人にとってもっとも簡単で有効なのが、呼吸の観察からはいるマインドフルネスです。
またマインドフルネスの感覚はさまざまな深度があって、かなり深くて集中したマインドフルネスはフロー感覚へとつながっていくし、もっと集中すればスポーツやゲームでいうところのゾーンへと進入していきます。
というのは余談ですが。

私をいれて7人という少人数での開催だったんですが、最後に恒例の野々宮卯妙による朗読を聴きました。
私はピアニカ演奏でそれに参加しました。
野々宮が読んだのは「あたらしい憲法の話」の一部分で、この8月最初の週にふさわしいものだったように感じました。

次回のオハナでの共感的コミュニケーションの勉強会は、10月4日(火)の夜を予定しています。

ここ数年「音楽瞑想」として結実させたワークを、よりわかりやすく楽しめる形でみなさんとシェアします。深く自分自身の身体とこころにつながる体験を提供します。


2016年8月4日木曜日

ひりひりと欲求がふくらむ

自分でも病気レベルなのではないかと思うほどですが、しばらく思うように表現できなかったり、作りたいものが作れなかったりすると、ひどい欲求不満みたいに身体の奥にその衝動がたまってくるのがわかります。
ものを書いていたり、演奏していたり、演出していたり、そういう仕事的なものでなくてもいつも手を動かしているので人からあきれられることもあります。

手を動かすというのは、絵を描いたり、料理をしたり、編み物をしたり、といったことです。
これらも広い意味でもの作りや表現行為といってもいいわけで、それをしていないと呼吸していないのとおなじくらい息苦しくなって、溺れそうになってしまいます。

ここ1か月ほど、引っ越しの準備やら、実際の引っ越しやら、引っ越してからの片付けやら、いろいろな手続きやら、そういうものがいまもつづいていて、もの作りや表現のための時間も場所も確保できずにいます。
そうなってみると初めて、自分のなかに抑えこまれている衝動がいかに強烈なものなのか、逆にくっきりと浮かびあがってきます。

書きたいもの、作りたいもの、表現したいものが山のようにあります。
元横綱・千代の富士の九重親方が61歳という若さで亡くなったというようなニュースを聞くと、自分もその年齢までにあとわずか2年なのだ、と反射的に思考してしまいます。

この「あせり」や強すぎる「衝動」や、先ばしったニーズは、それに乗っかってしまうといいことが起こりません。
こういうときこそマインドフルに自分自身につながり、身体と対話し、じっくりと方向をねらいすましていかなければなりません。

マインドフル瞑想で自分自身の深部とつながり、ほんとうに自分が必要としていること、あるいは自分の身の丈にあった行動をみきわめていく必要があります。
こんなとき、自分が長年おこなってきた呼吸法、音楽瞑想、マインドフルネスのワーク、共感的コミュニケーション(NVC)、そして武術(韓氏意拳)がとても役に立ちます。
つづけてきてほんとうによかったと感じますし、さらに深めていきたいとも思います。

こういった現代社会に生きる者にとって必要な、自分自身でありつづけ、気づきつづけるためのワークを深めるためには、ひとりでの練習も大切ですが、ともに練習する仲間がいることも大変有効です。
土曜日に下北沢でおこなう「音楽瞑想ワークショップ」も、グループワークとしてともに深めあうチャンスです。
みなさんにも興味を持っていただけばさいわいです。
詳細はこちら

2016年8月3日水曜日

共感カフェを自分でやってみたい人が増えています

私がファシリテートしている共感的コミュニケーション(NVC)の勉強会「共感おはなしカフェ」を、自宅や近所のカフェで自分が世話人(主催者)となってやってみたい、という人が増えています。
大歓迎です。

もともと日本においてNVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)は、海外からトレーナーを招聘してワークショップやリトリートに参加して勉強する、というスタイルからはじまったため、参加者の人数や規模が大きい傾向がありました。
しかし最近は自分たちでも学ぼうということで、参加者も数人から10人程度の勉強会がたくさん開かれるようになってきました。

私も羽根木の家で定期的に開いていましたし、三軒茶屋や下北沢のカフェでも開催してきました。
羽根木の家がなくなったことで、これからは自分が主催する勉強会ではなく、だれか世話人となって主催してくれる勉強会にファシリテーターとして参加し、みなさんの学びに貢献したいとかんがえています。

しばらく前からそんなことを共感カフェに参加したみなさんに伝えていたところ、何人かの方から「自分もやってみたい」という申し出をいただきました。
実際に開催がすでに決まった方もいます。
定期開催の申し出もいただきました。
検討中の方もいます。

興味を持った方にはもれなく、共感カフェ開催マニュアルを差し上げます。
場所や参加人数の条件、予算のことなど、どなたも理解していただけるようになっています。

自分が世話人となった開催するメリットは、そういうイベントをおこなうにあたって必要なことやどうしていいか迷うようなことでも、私と直接コミュニケーションをとって進めることができるので、それ自体学びとなることです。
また、学びの場を主体的につくることは、自分がもっとも深く学び、成長できる可能性があると思っています。
そして自分のつごうで日時や場所をセッティングできるのもいいですね。

興味がある方は、どうぞ気軽にご連絡ください。
遠方の方も歓迎ですよ。

2016年8月2日火曜日

羽根木退去、音楽瞑想と朗読生活の合同ワーク

昨日7月31日は都知事選挙の投開票日でした。
そんななか、私は羽根木の家からの最後の荷物とともに、国立の知人の家へと移動しました。
天気予報では雨まじりの、夏にしては涼しい日となっていましたが、じっさいには30度を軽くこえる猛暑で、たしかに一時的に雨は降りましたが、それがかえって蒸し暑さを増したほどです。

7年間住み、さまざまなイベントをおこない、またさまざまな団体やコミュニティ活動の拠点となった羽根木の家を退去するにあたっては、さぞかし感慨深いものがあるんだろうなと予想していたんですが、実際には荷物を完全に撤収することがあまりに大変で、感慨にふけっている暇などありませんでした。
またこの一ヶ月は退去の準備が本当に大変だったし、退去前日の30日にはお別れフェスを開催しておおぜいのみなさんにお別れに来てもらったりしたので、お別れのためのプロセスは自分のなかで十分すぎるほどにおこなっていたということもあります。

それにしても、お別れフェスには本当にたくさんの方においでいただき、退去の感慨とは別にあらためて感慨深いものがありました。
この家でほんとうにたくさんの人と関わり、いろいろなことが生まれ、消え、そしていまも継続しているんだなあということに、感慨というよりあらためてびっくりしました。
関わっていただいたみなさんにあらためて感謝の意を深くしています。

羽根木の家から退去するというのは、世田谷区民でなくなるということも意味しています。
井の頭線の隣の駅である明大前からは、今年いっぱいで〈キッド・アイラック・アート・ホール〉がなくなります。
ここでもたくさんの公演をやらせていただきました。

そのうちのひとつである「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演は、昨年2月にギャラリースペースにピアノが設置されたことをきっかけに、かなり頻繁におこなってきたものですが、そのなかで成熟したノウハウが音楽瞑想ワークショップとしてスピンアウトし、6月には代田区民センターの地下ホールで初開催しました。
それを、今回、下北沢区民集会所の地下ホールでふたたびおこないます。
これはもともと、羽根木の家でなくてもやれるイベントです。

羽根木の家でずっと開催してきた「朗読生活のススメ」という講座を、今回は特別編としてこの音楽瞑想ワークショップと合体させます。
自由に使える拠点がなくなったいま、「朗読生活のススメ」などの羽根木でおこなっていたイベントを今後どのように開催していくか、まだ手探り状態ですが、この試みの最初でもあります。
興味をおぼえた方はどうぞいらしてみてください。
詳細はこちら

羽根木の家での活動については、あらためてゆっくりと総括してみたいと思っています。
きっと本を一冊書けるくらいの内容がぎっしりと詰まっている予感がしています。