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2016年8月18日木曜日

つながりツールとしての表現欲求

8月15日に配信した「なぜ書くか」という記事を読んだ治療師の藤田俊紀さんから、メールをいただきました。
ありがとうございます。
それをご紹介させていただいた上で、私のかんがえを補足しておきます。

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今日(8月15日号)の水城さんのメルマガを読んで考えています。
私の「純粋表現欲求」は何だろう。

私は以前から私の内に「遠い太鼓」(村上春樹さんの本から)が響いているのを感じていました。無意識に私を突き動かそうとする「遠い太鼓」です。
その「太鼓の響き」が水城さんの云われる「純粋表現欲求」でしょうか。
私の治療に於いて、私はその太鼓の音の響きと共鳴させたいと思い続けて来たように思います。
お経の詠唱、アボリジニーのディジュ、ジャンベ、口琴、ホーミー、ハング等々。
一つが見付かっても、更なる深みを求めて次々と憑かれたように求めて来ました。
でも求めている限りは見付からないのだと云うことも分かって来ました。
求めているものは、自分の外側に有るのではなく、自分の内側にあるものだからです。求めても得られないと分かっていながら、求めざるを得ない内なる太鼓の響き。それが私を動かしている。それが今現在の私です。
これが水城さんの言われる「純粋表現欲求」でしょうか。私は自己表現を求めているのかな。
この「遠い太鼓の響き」は内なるものの様に思います。
とりとめなく書きましたが、水城さんのメルマガを読んで頭に浮かんだ思いです。
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なにかを探しもとめるのは人間の性《さが》かもしれませんね。
私は「太鼓」はすぐ近くにあって、いつもそれを聴いているんだけど、耳が成長してくるとしだいに遠い太鼓の音も聞こえるようになって、それを探す旅に出かけたくなるんじゃないかとかんがえてます。
私もかつて、若いころから、小説を書くときも音楽をやるときも遠い太鼓の音ばかり探しもとめていましたが、それゆえに近くの太鼓を邪魔に感じていました。
近くの太鼓の音はあまりに大きすぎて、探しもとめている遠くの音が聞こえなくなってしまうように思いこんでいたからです。

あるときから、近くの太鼓の音に耳をすますことが大事で、それはけっして鼓膜を破るほどの大きな音でばかり鳴っていなくて、ときにはか細く、ときには繊細に鳴っていることに気づいたからです。
ときには自分は鳴らずに遠くの音に共鳴しているだけのこともあります。
自分の太鼓の音がしっかり聴けるようになると、それを鳴らすことも、共鳴させることも、遠くの太鼓に耳をすますこともできるようになります。

追伸でいただいたメールもご紹介させていただきます。

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追伸
私の連れ合いが水城さんのメルマガを読む私の言葉を聞いて、次の様な感想を言ってました。
「ただ純粋に「純粋表現欲求」として書くのだとしたら、何故人に見せる必要が有るのかな」と。
水城さんこの疑問にどう答えられますか。
私も連れ合いの鋭い指摘に何時も辟易としますが、結構視点としては的を射ているので、考えさせられています。
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人は共鳴する動物だからでしょうね。
はじめは純粋にただ欲求にしたがって表現していただけのものが、あるときそれをだれかが見てくれる、聴いてくれる、ということに気づきます。
そしてレスポンスが返ってくることを知ります。
表現することによって人と人がつながれることを、子どもは学んでいきます。
そのつながりのことをコミュニケーションといいかえてもいいですが、現代社会のコミュニケーション・システムはときに「つながりツール」といううまく機能していません。
つながりどころか、断絶のツール、暴力のツールとして働いてしまうことがあります。
しかし、本来、表現の交換というのは共感であり、おたがいの生存のためのしっかりとしたつながりを作るための方法なのです。
私はそのようにかんがえています。

自力出版講座、全3回@オンライン(8.21/28/9.4)
自作の出版を、既存の出版社から独立出版へと完全移行した水城ゆうが、そのノウハウを全3回でシェアします。ネット会議システムを利用したオンライン講座なので、どなたも居ながらにして参加できます。いずれも日曜18時から2時間。