2011年11月16日水曜日

なぜ『原発破壊』を書いたのか

よく聞かれることなので、この際、おおやけに発表しておきます。
 地震大国である日本では原発稼働は非現実的な無理経済だと思っていますし、人間はそろそろ経済活動を退行させて物質的豊かさより精神的豊かさをまじめに追求したほうがいいと思っているので、私のかんがえは脱原発といっていいでしょう。が、それを「立場」や「主義」としてつらぬくつもりはありません。
 私は小説書きなので、小説を書くことで自分の無意識も含めた考えを世に問います。つまり、表現します。
 小説を書く、というのは、なかなかひとことで説明するのは難しいんですが、なにかテーマがあってそれを書くわけではありません。テーマがはっきりしているなら、論文などで直接的にそれを書いてしまえばいいのです。たとえば「脱原発」なら「自分は原発依存の社会を変えるべきだと思う。なぜなら……云々」と書きつらねて発表すればいいのです。
 しかし、小説という装置はそんなに単純ではないし、そのことがまた「小説を書く」というめんどくさい行為に意味を持たせています。
 実際に書いてみればわかりますが、小説を書いていくと自分でも思いもよらないことを書いてしまうことがあります。あるいは、思いもよらない方向に話が転がっていってしまうことがあります。こういうとき、たいていは書き直したり方向を修正したりして、強引に筋書きを自分がかんがえていたものに戻すわけですが、こんなふうにして書かれたものが実はまったくおもしろくない、魅力的でない、そして自分自身を表現したものではないことに気づきます。たいていの商業小説がつまらないのはそのせいです。

 長々と前置きしましたが、ようするに『原発破壊』という長編小説を書いた理由については、自分でもよくわからない、というところが正直なところです。
 この小説は当初、商業小説として出版することを目的に書きはじめましたが、1996年当時、商業出版としては出せないことがわかりました。書きあげてからはっきりしたわけですが、書いている途中でもなんとなくそのことは察していて、途中から自分でも思ってもいない方向に話が進んでいってしまいました。けっこう複雑な話になり、自分でも先が読めない展開になっていきました。
 それで、あのような終わり方になっているわけです(笑)。
 あえて『原発破壊』を電子書籍として発表した理由をこたえるとするならば、小説を読んだ読者がなんらかの形で原発のことを考えたり、エネルギー問題のことを考えるようになってくれるといいなあ、というものがあります。さらにいえば、水城ゆうという人間にも少しでも興味を持ってくれればうれしい、ということもあります。小説書きに限らず表現というものはそういうものでしょう。
「談」みたいになっちゃったな。
 ちなみに『原発破壊』はこちらで読めます。まずは立ち読みでどうぞ。