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2010年7月26日月曜日

「特殊相対性の女」を書きながら考えたこと

9月19日に下北沢〈Com.Cafe 音倉〉にて上演する朗読・演劇・音楽公演「特殊相対性の女」のシナリオが完成した。
よく、なにかを書き上げたり、上演したりすると、
「テーマはなんですか?」
と聞かれるが、そんなものはない。テーマをひとことでいえるようなものなら、それはそのままいうだろう。わざわざ何日もかけて長いテキストを書いたりしない。
テーマは無意識のなかにある。だから私は自分の無意識を信じて、可能なかぎり無意識から浮かびあがってくる泡沫をつかまえて言語化するだけだ。
そしてこのようなシナリオの場合、書きあげたからといって完成したわけではもちろんない。文字で書かれたものを、役者や朗読者が演じたり読みあげて空間のなかで実体化することで、時間軸にそった「表現」という作品になる。そのなかに立ちあらわれる「テーマ」は観客を含め全員が予測不能のものだ。なにしろ、それは全員で作るもので、やってみなければどうなるかわからないものだからだ。

「特殊相対性の女」を書きながら考えていたのは、テキストの音声化/実体化についてだった。
私は小説家として最初から「文字」として読まれることが最終形態であるテキストを書いてきた。と同時に、ラジオや朗読においては、「音声化」を前提としたテキストも書いてきた。それら二種類のテキストを書くとき、自分の身体つきが微妙に違っていることに気がついていた。
今回、それを一致させてみたいと思った。
最初にそれを意識したのは、名古屋の劇団クセックのために脚本を書いたときだった。『エロイヒムの声』というタイトルの劇だったが、まず脚本の形式をとらなかった。改行もないひとつながりの文章がただ長々と書きつけられているだけだ。演出の神宮寺啓はそれを解体し、脚本として再構成した。
次に意識したのは、榊原忠美との朗読パフォーマンスのために書きおろした「初恋」というテキストを書いたときだった。
最近では、やはり榊原とのパフォーマンスのための「沈黙の朗読 記憶が光速を超えるとき」もそうだった。
黙読されること、音読されること、演じられること、それらのいずれとしても成立するものを書くこと。そうすることでテキストを生み出すための自分の身体つき/姿勢を統一しようと考えた。
ひょっとして、現在我々が活字の形で親しんでいる文芸小説というのは、音声化/実体化されてはじめて完成される途中経過の形態なのではないか、などと考えたりもした。
もちろん、そんな分類はどうでもいいのだ。とにかく、テキストが「表現」となる場所は、読者の頭のなかであったり、ライブハウスであったり、ホールであったり、あるいは公演や家の居間であったりする。また、そのテキストとの共演者として役者や朗読者がいたり、ときには演奏者がいたり、そしてオーディエンスがいたりする。それらが一体となってひとつの表現が生まれる。
表現とはそういう動的なものなのではないか。
そんなことを考えながら「特殊相対性の女」を書いていたのだった。
9月19日には役者の石村みかと朗読者の野々宮卯妙、そして私自身のピアノ演奏、三木義一の映像がセッションをおこない、それに〈Com.Cafe 音倉〉という店とオーディエンスが一体となってなにかが生まれることになっている。
テーマがあるとすれば、その空間と時間そのものだ。
楽しみでしかたがない。