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2010年7月27日火曜日

朗読の快楽/響き合う表現 Vol.25

それらは「放送技術」を根拠としているのだ。朗読は一部著者による、とくに詩人らによるものを除けば、戦後はほとんどが放送やメディア関係者によるものだ。アナウンサーやナレーター、声優、役者といった人が、ラジオ、テレビ、映画といったメディアを利用してきた。

また、メディアを離れて、朗読会を実演することも多くなってきたが、その場合もやはり放送技術の延長線上にある表現がほとんどだ。つまり、「正しい日本語」の
イントネーション/発音/発声といったようなことが重視される。また、テキストの一言一句を伝えようとする。

そこでは個人的表現よりも、「正しい技術」や「読み方」が重視される。よって、自分も朗読をやってみたいと思う人は、まずそこから習得が始まることになる。技術は金銭と「等価交換」で「売る」ことができるので、教室や学校は技術を「売る」ことで経営が成り立つ。

現代朗読協会では、なにかを「等価交換」するということをしていない。つまり、支払われた金銭に対して、それと同等のたとえば「技術」を手渡すという考え方をしていない。その考え方は、消費経済においては有効かもしれないが、人のつながりにおいてはおかしい考え方だ。

たとえば、だれかが歌を歌いたいと思う。それはたぶん、自分の気持ちを歌で表現したい、それをだれかに伝えたいというニーズが働いていることがあるだろう。そのときに、彼はお金のことを考えるだろうか。歌いたいから歌うのであって、経済は関係のない事象だ。

朗読もおなじで、だれかになにかを読んで聴かせたいと思うとき、それは経済行為とは関係のない動機だ。しかし、歌や音楽もそうであるように、なにかを発表したいというとき、現代社会においてはかならず「場」のことを考えなければならず、またそこには場の経済がある。

表現の場を成立するためにいくばくかの金銭が必要であることは事実である。現代朗読協会では「場」のための経済は無視するわけにはいかないと考えている。が、よくあるように、パフォーマンス自体を「等価交換」という経済行為に組み入れることはしない。

パフォーマンス自体を等価交換システムに組み入れたとき、そこにはとても貧しい現象が起こる。わかりやすい例をあげれば、たとえば3,000円の料金を設定した公演があるとする。するとパフォーマーは「客から3,000円という金銭をいただく」という事実にとらわれる。

3,000円をいただいた以上、3,000円に見合うだけの満足を持って帰ってもらいたい、というふうに考える。その考え方は商品経済においては有効だが、人間関係においてはどうだろう。たとえば親子関係や夫婦関係、あるいは地域コミュニティにおける関係においては。

人間関係に「等価交換」という考え方を持ちこむとうまくいかないことが多いのは、だれもが経験的に知っているだろう。たとえば親子であれば、親が子に注ぐ愛情について見返りを求めればうまくいかなくなることは、だれもが知っている。夫婦の関係においても同じことだ。

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