新BLOG「水色文庫」を開設しました。
うすうすおわかりかとは思いますが、名称は「青空文庫」のパクリです。
青空文庫には著作権フリーのテキストがたくさんあって、朗読関係者は大変お世話になっています。私も例外ではありません。
私も似たような形で朗読に貢献できないかと思い、私が書きためてきた多くの朗読用テキストをフリー素材として提供できないかと考えました。
著作権は放棄しませんが、著作使用権をフリーにしようと思いました。 著作使用権フリーの私のテキストを公開する場所として、新BLOG「水色文庫」を使います。みなさん、どうぞご利用ください。
古いテキストもありますので、文章チェックも兼ねて毎日一作品ずつ公開していきます。
水城ゆうブログ
公式ウェブサイトはこちら ⇒ http://mizuki-u.com
記事へのコメント・メッセージはSNSにどうぞ。
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2009年9月26日土曜日
2009年9月24日木曜日
ロードクライブ「汗」
現代朗読協会が開催している「朗読はライブだ!」ワークショップと「現代朗読入門クラス」の合同ライブが、2009年9月19日、幡ヶ谷の〈アスピア〉でおこなわれました。
その抜粋映像です。
この「汗」は、入門クラス参加のまりもによる朗読で、作品は岡本かの子の「汗」です。
その抜粋映像です。
この「汗」は、入門クラス参加のまりもによる朗読で、作品は岡本かの子の「汗」です。
ロードクライブ「独り旅」
現代朗読協会が開催している「朗読はライブだ!」ワークショップと「現代朗読入門クラス」の合同ライブが、2009年9月19日、幡ヶ谷の〈アスピア〉でおこなわれました。
その抜粋映像です。
この「独り旅」は、入門クラス参加の暫六月による朗読で、作品は若杉鳥子の「独り旅」です。
その抜粋映像です。
この「独り旅」は、入門クラス参加の暫六月による朗読で、作品は若杉鳥子の「独り旅」です。
ロードクライブ「芭蕉の花」
現代朗読協会が開催している「朗読はライブだ!」ワークショップと「現代朗読入門クラス」の合同ライブが、2009年9月19日、幡ヶ谷の〈アスピア〉でおこなわれました。
その抜粋映像です。
この「芭蕉の花」は、入門クラス参加の豊津加奈子による朗読で、作品は寺田寅彦の『花物語』からの1編「芭蕉の花」です。
その抜粋映像です。
この「芭蕉の花」は、入門クラス参加の豊津加奈子による朗読で、作品は寺田寅彦の『花物語』からの1編「芭蕉の花」です。
2009年9月23日水曜日
【YouBunko】Vol.19 窪田涼子「セメント樽の中の手紙」
オーディオブック制作のアイ文庫が、オーディオブックに出演している実力派&個性派の朗読者をフィーチャーして朗読パフォーマンスとトークで構成するビデオ番組「YouBunko」。
19回めは、おなじみの窪田涼子による朗読パフォーマンスをお送りします。
収録場所は、現代朗読協会が豪徳寺から羽根木の古い民家に拠点を移した、その独特の雰囲気のある場所です。
テキストはプロレタリア文学者の葉山嘉樹のごく短い作品「セメント樽の中の手紙」から、さらに抜粋したものを使っています。
この映像は前半がロードクセッションとトーク、後半がトークのみになっています。
19回めは、おなじみの窪田涼子による朗読パフォーマンスをお送りします。
収録場所は、現代朗読協会が豪徳寺から羽根木の古い民家に拠点を移した、その独特の雰囲気のある場所です。
テキストはプロレタリア文学者の葉山嘉樹のごく短い作品「セメント樽の中の手紙」から、さらに抜粋したものを使っています。
この映像は前半がロードクセッションとトーク、後半がトークのみになっています。
■ロードクライブ「声」
現代朗読協会が開催している「朗読はライブだ!」ワークショップと「現代朗読入門クラス」の合同ライブが、2009年9月19日、幡ヶ谷の〈アスピア〉でおこなわれました。
その抜粋映像です。
この「声」は、入門クラス参加者4人による群読で、夏目漱石『永日小品』の1編を構成したロードクパフォーマンスです。
その抜粋映像です。
この「声」は、入門クラス参加者4人による群読で、夏目漱石『永日小品』の1編を構成したロードクパフォーマンスです。
2009年9月22日火曜日
ロードクライブ「前略・な・だ・草々」
現代朗読協会が開催している「朗読はライブだ!」ワークショップと「現代朗読入門クラス」の合同ライブが、2009年9月19日、幡ヶ谷の〈アスピア〉でおこなわれました。
その抜粋映像です。
この「前略」は、2009年5月に銀座アップルストアで上演されたものを、ワークショップメンバー用に演出と音楽を変えたものです。夏目漱石と太宰治の作品をコラージュ構成したロードクパフォーマンスです。
その抜粋映像です。
この「前略」は、2009年5月に銀座アップルストアで上演されたものを、ワークショップメンバー用に演出と音楽を変えたものです。夏目漱石と太宰治の作品をコラージュ構成したロードクパフォーマンスです。
【RadioU】くやしいけどかわいい窪田涼子とおしゃべり(後半)
大阪のナレーターでロードクパフォーマーの窪田涼子が、自身の企画で大阪中津のライブハウス〈Vi-Code〉にてライブをやります。
充実の内容の二部制ライブについて、野々宮卯妙とともに話を聞きました。
その後半です。
大阪中津のライブのほか、11月に予定されている「メイド朗読」ライブのことなども取りあげています。
ケロログ「RadioU」で配信中。
充実の内容の二部制ライブについて、野々宮卯妙とともに話を聞きました。
その後半です。
大阪中津のライブのほか、11月に予定されている「メイド朗読」ライブのことなども取りあげています。
ケロログ「RadioU」で配信中。
2009年9月21日月曜日
今日届いた本:Speak Peace In A World Of Conflict
現代朗読協会が開催している「アレクサンダー・テクニーク・ワークショップ」の講師を、国際アレクサンダー・テクニーク協会の公認インストラクターの安納献に依頼しているが、彼はまた私たちのところにNVCという考え方を紹介してくれた人でもある。
NVC=Nonviolent Communication
アメリカの心理学者のマーシャル・B・ローゼンバーグという人が提唱した考え方だが、その名称ずばりの著書もある。まだ日本語に翻訳されておらず、英文ほか数か国語でしか読めないが、平易な英語で書かれているので、高校卒業程度の英語力がある人ならだれでも読める(アレルギーがなければ)。
献くんが、「もっと読みやすいのもあるよ」といって紹介してくれたのが、今日届いたこの本だ。
まだ前書きしか読んでいないが、なるほど、実際的な例や練習がたくさん書かれていて、。わかりやすそうだ。じっくり読んでみよう。
現代朗読協会では、アレクサンダー・テクニークWSの終了後に、献くんを中心に自主的にささやかなNVCの勉強会を開いている。
もし興味がある方がいたら、私にコンタクトしてください。プライベートな会なのですべての人にオープンにしているわけではないけれど、主旨をある程度理解してくれる人なら歓迎します。
NVC=Nonviolent Communication
アメリカの心理学者のマーシャル・B・ローゼンバーグという人が提唱した考え方だが、その名称ずばりの著書もある。まだ日本語に翻訳されておらず、英文ほか数か国語でしか読めないが、平易な英語で書かれているので、高校卒業程度の英語力がある人ならだれでも読める(アレルギーがなければ)。
献くんが、「もっと読みやすいのもあるよ」といって紹介してくれたのが、今日届いたこの本だ。
まだ前書きしか読んでいないが、なるほど、実際的な例や練習がたくさん書かれていて、。わかりやすそうだ。じっくり読んでみよう。
現代朗読協会では、アレクサンダー・テクニークWSの終了後に、献くんを中心に自主的にささやかなNVCの勉強会を開いている。
もし興味がある方がいたら、私にコンタクトしてください。プライベートな会なのですべての人にオープンにしているわけではないけれど、主旨をある程度理解してくれる人なら歓迎します。
【RadioU】くやしいけどかわいい窪田涼子とおしゃべり(前半)
大阪のナレーターでロードクパフォーマーの窪田涼子が、自身の企画で大阪中津のライブハウス〈Vi-Code〉にてライブをやります。
充実の内容の二部制ライブについて、野々宮卯妙とともに話を聞きました。
その前半です。
ケロログ「RadioU」で配信中。
充実の内容の二部制ライブについて、野々宮卯妙とともに話を聞きました。
その前半です。
ケロログ「RadioU」で配信中。
2009年9月20日日曜日
「朗読はライブだ」というライブが終わった、おもしろかった!
昨日。
午前11時集合で、午後のライブのための打ち合わせ。
今回のライブの参加者は、7月にスタートして全6回(昨日にライブ本番も含む)に渡っておこなった「朗読はライブだ!」ワークショップのメンバーと、4月から月に3回、毎月続けてきた「現代朗読入門クラス」のメンバーの両方である。ライブワークショップは7名、入門クラスは4名。
簡単な進行の確認、打ち合わせ、少しだけ部分リハーサルをやって、昼食をすませ、会場の幡ヶ谷アスピアにぞろぞろと向かう。
14時に会場入り。準備。アスピアのBスタジオというのを使ったのだが、ピアノがグランドとアップライトの2台ある。両方一度には弾けないので、当然グランドピアノのほうを使うことにして、ピアノの位置をライブ用に動かす。椅子をならべる。照明を調節する。
そうこうするうちに、あっという間に開場時間となり、お客さんがいらっしゃる。といっても、多くはない。たぶん出演者とおなじくらいか、それより少ない。出演者の知り合いがほとんどだが、告知を見て飛びこみで来てくれた人もいる。
15時、開演。
演目と出演者は次のとおり。
1. 群読「前略・な・だ・草々」
夏目漱石と太宰治の作品より構成
川口久美子/嶋村美希子/河上レイラ/関聡美/滝田弥代
清水貴久/糟谷久矢
2. 寺田寅彦「芭蕉の花」
カナ
3. 太宰治「海」
嶋村美希子
4. 若杉鳥子「独り旅」
暫六月
5. 岡本かの子「汗」
まりも
6. 群読「声」
カナ/嶋村美希子/暫六月/まりも
始まっていきなり、大きなハプニングが起こる。嶋村美希子が貧血で倒れてしまったのだ。背後からピアノを弾きながら彼女がうずくまったのを見て、私はすぐに六月さんとまりもさんに合図したのだが、ふたりとも「仕込み」だと思っていたらしく、なかなか来てくれない。が、来てくれて、嶋村を介抱。
その間もライブは進んでいく。嶋村はなんとか自分の台詞のところだけ参加できて、幸いにもたいしたことはなさそうだ。
そんなこともあってか、最初の演目はちょっとした緊張感に包まれながらも、それがいい方向に作用して、これまでになくいい出来になった。
そもそも現代朗読の方法は、なにかをあらかじめ準備して作りあげておくものではなく、その場の雰囲気、自分の気分や体調、お客さんとのコミュニケーションを全部受け入れて表現に生かしていくというもので、当然、予期しない事態が起こったときもそれを受け入れていく。なので、びっくりはしたが、動揺して我を失うという人はひとりもいなかった。
カナさんの「芭蕉の花」では、なぜか感動が朗読者自身、ほかの出演者も、お客さんにも伝播していって、一番大変だったのは次の出演者の六月さんとまりもさんだった。嶋村が調子が悪くなったので、演目がひとつ飛び、次はいきなり六月さんだったので、涙でぼろぼろになったまま出ることになってしまった。
まあそんなハプニングも受け入れながら、「独り旅」「汗」ともに柔らかく、楽しく、とても癒される読みとなり、お客さんもなごんでいたようだ。私も背後でピアノをつけていてとても楽しかった。
最後の演目「声」では、嶋村がなんとか復活し、ひとりひとりが個性的でありながら全体でユニットとしてひとつの表現を作りあげるというすばらしいパフォーマンスを見せてくれた。
終わってから、レイラさんのご両親に挨拶。あとでレイラさんに聞いたことだが、お母さんはかつてライブハウスを経営していたことがあって、たくさんのアーティストとライブパフォーマンスを見てきた方だという。そしてとても辛口の人らしいが、この私たちのパフォーマンスについては絶賛してくれたのだった。
ライブ終了後、後片付け。
みんなでまたぞろぞろと羽根木の家に戻る。
打ち上げ。
みんながこれほど楽しんで、幸せになってくれたライブは、そうたくさんはなかった。もちろん、私も大変幸せであった。
今日からは第二期の「朗読はライブだ!」ワークショップが始まる。
午前11時集合で、午後のライブのための打ち合わせ。
今回のライブの参加者は、7月にスタートして全6回(昨日にライブ本番も含む)に渡っておこなった「朗読はライブだ!」ワークショップのメンバーと、4月から月に3回、毎月続けてきた「現代朗読入門クラス」のメンバーの両方である。ライブワークショップは7名、入門クラスは4名。
簡単な進行の確認、打ち合わせ、少しだけ部分リハーサルをやって、昼食をすませ、会場の幡ヶ谷アスピアにぞろぞろと向かう。
14時に会場入り。準備。アスピアのBスタジオというのを使ったのだが、ピアノがグランドとアップライトの2台ある。両方一度には弾けないので、当然グランドピアノのほうを使うことにして、ピアノの位置をライブ用に動かす。椅子をならべる。照明を調節する。
そうこうするうちに、あっという間に開場時間となり、お客さんがいらっしゃる。といっても、多くはない。たぶん出演者とおなじくらいか、それより少ない。出演者の知り合いがほとんどだが、告知を見て飛びこみで来てくれた人もいる。
15時、開演。
演目と出演者は次のとおり。
1. 群読「前略・な・だ・草々」
夏目漱石と太宰治の作品より構成
川口久美子/嶋村美希子/河上レイラ/関聡美/滝田弥代
清水貴久/糟谷久矢
2. 寺田寅彦「芭蕉の花」
カナ
3. 太宰治「海」
嶋村美希子
4. 若杉鳥子「独り旅」
暫六月
5. 岡本かの子「汗」
まりも
6. 群読「声」
カナ/嶋村美希子/暫六月/まりも
始まっていきなり、大きなハプニングが起こる。嶋村美希子が貧血で倒れてしまったのだ。背後からピアノを弾きながら彼女がうずくまったのを見て、私はすぐに六月さんとまりもさんに合図したのだが、ふたりとも「仕込み」だと思っていたらしく、なかなか来てくれない。が、来てくれて、嶋村を介抱。
その間もライブは進んでいく。嶋村はなんとか自分の台詞のところだけ参加できて、幸いにもたいしたことはなさそうだ。
そんなこともあってか、最初の演目はちょっとした緊張感に包まれながらも、それがいい方向に作用して、これまでになくいい出来になった。
そもそも現代朗読の方法は、なにかをあらかじめ準備して作りあげておくものではなく、その場の雰囲気、自分の気分や体調、お客さんとのコミュニケーションを全部受け入れて表現に生かしていくというもので、当然、予期しない事態が起こったときもそれを受け入れていく。なので、びっくりはしたが、動揺して我を失うという人はひとりもいなかった。
カナさんの「芭蕉の花」では、なぜか感動が朗読者自身、ほかの出演者も、お客さんにも伝播していって、一番大変だったのは次の出演者の六月さんとまりもさんだった。嶋村が調子が悪くなったので、演目がひとつ飛び、次はいきなり六月さんだったので、涙でぼろぼろになったまま出ることになってしまった。
まあそんなハプニングも受け入れながら、「独り旅」「汗」ともに柔らかく、楽しく、とても癒される読みとなり、お客さんもなごんでいたようだ。私も背後でピアノをつけていてとても楽しかった。
最後の演目「声」では、嶋村がなんとか復活し、ひとりひとりが個性的でありながら全体でユニットとしてひとつの表現を作りあげるというすばらしいパフォーマンスを見せてくれた。
終わってから、レイラさんのご両親に挨拶。あとでレイラさんに聞いたことだが、お母さんはかつてライブハウスを経営していたことがあって、たくさんのアーティストとライブパフォーマンスを見てきた方だという。そしてとても辛口の人らしいが、この私たちのパフォーマンスについては絶賛してくれたのだった。
ライブ終了後、後片付け。
みんなでまたぞろぞろと羽根木の家に戻る。
打ち上げ。
みんながこれほど楽しんで、幸せになってくれたライブは、そうたくさんはなかった。もちろん、私も大変幸せであった。
今日からは第二期の「朗読はライブだ!」ワークショップが始まる。
2009年9月18日金曜日
夜と森のミュンヒハウゼン
石村みかさんからご案内をいただいたので、三鷹の芸術文化センターまでサスペンデッズの公演「夜と森のミュンヒハウゼン」を観に行ってきた。
「星のホール」という小ホールなのだが、天井が高く、おもしろい空間だ。そこを贅沢に使った舞台設定をしてある。舞台設定というより、インスタレーションのようだ。森を思わせるオブジェが林立した中を、客は歩いて席につく。
客席は80席ばかり。「舞台」という意味での役者が動くスペースは、客席のゆうに5倍はある。とてもいい。
私はストレートプレイがかなり苦手なのだが、つまり、意味とかストーリーを追うことを前提に作られている演劇はほとんど拒否反応を示す人間なのだが、この作品はかなりよかった。さまざまなシンボル的なエピソード、キャストが、ファンタジックにからまりあうかと思えば、リアルで生々しい現実的なストーリーとリンクしていたりする。
全体的に世界観はそう大きくないし、観ている者の価値観を揺さぶるようなメッセージ性もないが、役者たちのうまさとよく考えられた進行が、100分近いステージを飽きさせることがなかった。
リアリティとファンタジー、ストーリー性と非ストーリー性のバランスが巧妙で、たぶんこの演出家(早船聡)はバランス感覚にすぐれている。おそらく今後、ある程度売れていく人だろうと思う。
私が一番楽しめたのは、石村みかさんの演技だった。
ほんのわずかの身体の構え、姿勢、微細な動きによって、空気が変わり、言葉の質感が変化していく。見事な身体性だ。
それにしても、結局は「見せ物」にしか終わっていなかった演劇という表現の限界をも、強く感じた。
その点、音楽は違う。そして朗読も違う。音楽も朗読も、そこに観客がいて、うまくすればコミュニケーションがある。
「星のホール」という小ホールなのだが、天井が高く、おもしろい空間だ。そこを贅沢に使った舞台設定をしてある。舞台設定というより、インスタレーションのようだ。森を思わせるオブジェが林立した中を、客は歩いて席につく。
客席は80席ばかり。「舞台」という意味での役者が動くスペースは、客席のゆうに5倍はある。とてもいい。
私はストレートプレイがかなり苦手なのだが、つまり、意味とかストーリーを追うことを前提に作られている演劇はほとんど拒否反応を示す人間なのだが、この作品はかなりよかった。さまざまなシンボル的なエピソード、キャストが、ファンタジックにからまりあうかと思えば、リアルで生々しい現実的なストーリーとリンクしていたりする。
全体的に世界観はそう大きくないし、観ている者の価値観を揺さぶるようなメッセージ性もないが、役者たちのうまさとよく考えられた進行が、100分近いステージを飽きさせることがなかった。
リアリティとファンタジー、ストーリー性と非ストーリー性のバランスが巧妙で、たぶんこの演出家(早船聡)はバランス感覚にすぐれている。おそらく今後、ある程度売れていく人だろうと思う。
私が一番楽しめたのは、石村みかさんの演技だった。
ほんのわずかの身体の構え、姿勢、微細な動きによって、空気が変わり、言葉の質感が変化していく。見事な身体性だ。
それにしても、結局は「見せ物」にしか終わっていなかった演劇という表現の限界をも、強く感じた。
その点、音楽は違う。そして朗読も違う。音楽も朗読も、そこに観客がいて、うまくすればコミュニケーションがある。
ライブで寝る人、泣く人
朗読ライブというのは往々にして退屈なことが多く、眠ってしまう人がいる。私のライブにもいる。
名古屋公演「Kenji」では、ほとんどいびきに近い寝息をたてて寝ている人の音が、ステージまで聞こえてきた。
まあ、お疲れなんだろう。
しかし、そういう人も、ある瞬間にパッと目をさまして、ちゃんと泣いたり笑ったりしている。
観察していると、前後の脈絡など関係なしに、泣いたり笑ったりする。つまり、「記号」に「反応」して「反射的」に泣いたり笑ったりしているだけなのだ。
「泣く記号」というのは私たちのなかに刷りこまれていて、たとえば身近な人や愛する人の死、別離、といった「ストーリーの断片」とかその「イメージ」がそれにあたる。あざとい商業コンテンツ制作者は、それを利用して、「泣ける映画」だの「泣ける小説」といった商品を作る。
私はパブロフの犬を大量生産するシステムに加担してはならないと思っている。パブロフの犬を、記号的な罠から救いだし、人間性を取りもどすための多様で新鮮なイメージを伝える努力を、たえずつづけていかなければならない。
ライブで眠ってしまう人はいるが、その人が目をさましたとき、反射的に泣いたり笑ったりしてしまう記号を可能な限り排除し、「なんだろう、これは」とこちらとの対話に引きこみ、その人に謎を提示し、ともに考えられるものを作りつづけなければならないと思っている。
名古屋公演「Kenji」では、ほとんどいびきに近い寝息をたてて寝ている人の音が、ステージまで聞こえてきた。
まあ、お疲れなんだろう。
しかし、そういう人も、ある瞬間にパッと目をさまして、ちゃんと泣いたり笑ったりしている。
観察していると、前後の脈絡など関係なしに、泣いたり笑ったりする。つまり、「記号」に「反応」して「反射的」に泣いたり笑ったりしているだけなのだ。
「泣く記号」というのは私たちのなかに刷りこまれていて、たとえば身近な人や愛する人の死、別離、といった「ストーリーの断片」とかその「イメージ」がそれにあたる。あざとい商業コンテンツ制作者は、それを利用して、「泣ける映画」だの「泣ける小説」といった商品を作る。
私はパブロフの犬を大量生産するシステムに加担してはならないと思っている。パブロフの犬を、記号的な罠から救いだし、人間性を取りもどすための多様で新鮮なイメージを伝える努力を、たえずつづけていかなければならない。
ライブで眠ってしまう人はいるが、その人が目をさましたとき、反射的に泣いたり笑ったりしてしまう記号を可能な限り排除し、「なんだろう、これは」とこちらとの対話に引きこみ、その人に謎を提示し、ともに考えられるものを作りつづけなければならないと思っている。
2009年9月9日水曜日
いま読んでいる本:いよいよローカルの時代
タイトルがおもしろくないが、原題は「Going Local is the Answer」。
ヘレナ・ノーバーグ=ホッジという人に辻信一がインタビューしたものを本にしたもの。はっきりいって安直な作りだが、内容はおもしろい。
ヘレナ・ノーバーグ=ホッジは『ラダック 懐かしい未来』という本で有名になった人だ。ラダックという、かつての日本やブータンのように鎖国をしていた国が、世界に開かれ、グローバル経済の影響を受けて劇的に変化していく様子をつぶさにレポートした本だが、これはドキュメンタリー映像にもなっている。私もその一部を見たが、衝撃的であると同時に、まさに私たちがリアルタイムに日本の高度経済成長時代のなかで経験してきたことそのものが集約して映像化されていると感じた。
そしてそれは、ラダックでも日本でも、いまも進行中である。
重いテーマだが、インタビュー本なので、口調は軽く、読みやすい。入門にはうってつけ。
ところで、ヘレナの本を読むと、100円ショップやマクドナルドには決して行きたくなくなる。インスタント食品や冷凍食品も買わないようになる。
理由はヘレナの本を読めばわかるし、ネットにも彼女のことがたくさん書かれている。来日してもいる。
まさに彼女の本のタイトルである『RetroFuturism』という言葉を、私は深く考えてみたい。
「進歩」ばかりが良い選択とは限らない。
ときには「最善な時」へと戻ってみる選択も、勇気ある決断となるかもしれない。
これを朗読表現にあてはめてみたとき、私は朗読技術論を根底から見直し、人と人のコミュニケーションの出発点まで立ちもどって検証してみることが必要だと感じる。
『いよいよローカルの時代』ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ/辻信一/大月書店(ゆっくりノートブック)
ヘレナ・ノーバーグ=ホッジという人に辻信一がインタビューしたものを本にしたもの。はっきりいって安直な作りだが、内容はおもしろい。
ヘレナ・ノーバーグ=ホッジは『ラダック 懐かしい未来』という本で有名になった人だ。ラダックという、かつての日本やブータンのように鎖国をしていた国が、世界に開かれ、グローバル経済の影響を受けて劇的に変化していく様子をつぶさにレポートした本だが、これはドキュメンタリー映像にもなっている。私もその一部を見たが、衝撃的であると同時に、まさに私たちがリアルタイムに日本の高度経済成長時代のなかで経験してきたことそのものが集約して映像化されていると感じた。
そしてそれは、ラダックでも日本でも、いまも進行中である。
重いテーマだが、インタビュー本なので、口調は軽く、読みやすい。入門にはうってつけ。
ところで、ヘレナの本を読むと、100円ショップやマクドナルドには決して行きたくなくなる。インスタント食品や冷凍食品も買わないようになる。
理由はヘレナの本を読めばわかるし、ネットにも彼女のことがたくさん書かれている。来日してもいる。
まさに彼女の本のタイトルである『RetroFuturism』という言葉を、私は深く考えてみたい。
「進歩」ばかりが良い選択とは限らない。
ときには「最善な時」へと戻ってみる選択も、勇気ある決断となるかもしれない。
これを朗読表現にあてはめてみたとき、私は朗読技術論を根底から見直し、人と人のコミュニケーションの出発点まで立ちもどって検証してみることが必要だと感じる。
『いよいよローカルの時代』ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ/辻信一/大月書店(ゆっくりノートブック)
2009年9月6日日曜日
私がかかえる大きな問題
東海道を下りながら、こう考えた。
智に働けば……ではなくて。今回の名古屋「Kenji」で私がおこなった仕事の内容について。
公演自体の評価についてはさまざまなものがあるだろう。当然のことであって、見る人の価値観もさまざまである。そして、このところの私がおこなうパフォーマンスのほとんどがそうなるのだが、かなり強い拒否感を示す人と、かなり絶大な好意を示す人の両極端に分かれる傾向がある。今回の「Kenji」もおそらくそうであろうし、すでにそういう声もたくさん聞いている。
私が新幹線のなかで考えたのは、そういう話ではなく、私自身のおこなったことそのものについてだ。
私は今回、基本的には「演出」という立場で仕事をおこなった。
そのほかに、脚本を書いた。意外に知らない人が多いようだが、今回の脚本の言葉の半分以上は宮澤賢治のものだ。しかしそれ以外は私が書いたものである。全部宮澤賢治の文章だと思っていた人がいたようで、あとで、
「賢治にあんな作品があったなんて知りませんでした」
ということを何人かからいわれた。じつは私の創作である。
榊原忠美氏のセリフはすべて(最後のよだかの一部分を除いて)私が書いたものだ。なので、「私は本当は音楽家になりたかったのです」という言葉は、私の捏造である。というより、そのアイディアが生まれたから、この公演全体のイメージができたといっていい。
それから、私は出演者でもあった。
演出が舞台にあがるというのは、演劇の世界ではよくあることで、その場合は「役者」として出るのだが、私の場合は「演奏者」としての出演であった。ピアノを弾いた。
舞台の真ん中にピアノが置かれ、私はほぼ最初から最後までずっとそこに座って演奏していた。なので、演出なのに自分の演出した舞台を客席側からは一度も見ていない。
それから、これも意外に知らない人が多かったのだが、音楽は全部即興演奏であった。
もちろん、「星めぐりのうた」と「ポラーノの広場」というふたつの曲があり、メロディは決まっているのだが、それにつける伴奏は即興で作ったものだったし、公演全編を通して断続的に流れる音楽はすべて即興演奏であった。尺八のやのしくうさんとのかけあいも何か所かあったが、あれも即興である。お互いにほとんどなにも決めていなかった。
今回の名古屋のことでは、私はもうひとつ、質量の大きい仕事をおこなった。
それは、ワークショップの「指導者」としての仕事だ。講師、あるいはインストラクターといいかえてもいい。
5月から一般参加者を募ったワークショップがスタートし、15名くらいの人が最終的に本公演のステージにあがることをめざして参加した。稽古というより、私が提唱している「現代朗読」の方法を知っていただき、学んでもらうことに重点が置かれていた。もちろん、最終的には公演を成立させなければならないので、脚本にそった稽古もたくさんおこなわれた。その部分では、私以外にも劇団クセックACTの主力俳優である榊原忠美氏の力に頼るところが大きかった。
さて、ここの部分に私はいまだに「悩み」を感じているのだ。
参加者の方々にはおおむね喜んでいただけたようだ。なかには、人生観が変わった、とすらいっていただく方もいた。最終的には全員がすばらしい結束を見せ、驚くようなクオリティの高いパフォーマンスを見せてくれた。それはお客さんにも充分伝わったと思う。
しかし、こういった「稽古」とか「指導」とかいうのは、本来、私の仕事なのだろうか。
私は考え方を示す。脚本と音楽を提示する。それらを演出する。が、パフォーマーを育てるのは私の手に負える、あるいは私のようなものがおこなってふさわしい仕事なのだろうか。
そこのところにずっと悩みがあった。
もう少し演出に集中したかった、というのもある。今回はうっかりしたことに、演出助手という役割の人を立てることをおこたっていた。ワークショップやリハーサルを通して私が話したこと、指示したことは、全部話しっ放しであり、ほとんどだれも記録しておらず(ビデオや録音機にはいくらか残っているが)、またチェックもおこなわれなかった。私も自分がなにをいったのかうっかり忘れてしまい、次のときにはまったく違う指示を与えたりすることも多かった。
出演者の皆さんはさぞかし混乱されたことであろう。
パフォーマーの教育と演出助手。これが今回の大きな課題として、私のなかにはわだかまっている。
以前からずっと野村つづけていることだが、いや、ぼやきつづけていることだが、現代朗読という方法で自分も演出をやってみたい、自分も朗読演出家になりたい、という人がまったくあらわれない。朗読をしたい、という人はたくさん来るのだが、だれかを演出したい、という人はまったく来ない。
「孤軍奮闘」という言葉がちらちらと脳裏をよぎる。
今回も、大勢の人に囲まれ、助けられ、また動かしたり動かされたりしながらも、「孤軍奮闘」という言葉が何度も脳裏をよぎった。私が考えていることを伝え、そしてその方法論を私のいないところでも実践してくれる者が育っていない。
これが残念なのだ。
ワークショップも公演もおおむね好評で、「次回も」という声があるようだし、また「次があるなら自分も参加したい」といううれしい声も何人かから直接聞いているが、上記の問題にいくらかでも光が見えなければ、私は動かないことにしよう、と新幹線のなかで考えていたのである。
このことは、本拠地である東京の活動においても同じことのように思う。
智に働けば……ではなくて。今回の名古屋「Kenji」で私がおこなった仕事の内容について。
公演自体の評価についてはさまざまなものがあるだろう。当然のことであって、見る人の価値観もさまざまである。そして、このところの私がおこなうパフォーマンスのほとんどがそうなるのだが、かなり強い拒否感を示す人と、かなり絶大な好意を示す人の両極端に分かれる傾向がある。今回の「Kenji」もおそらくそうであろうし、すでにそういう声もたくさん聞いている。
私が新幹線のなかで考えたのは、そういう話ではなく、私自身のおこなったことそのものについてだ。
私は今回、基本的には「演出」という立場で仕事をおこなった。
そのほかに、脚本を書いた。意外に知らない人が多いようだが、今回の脚本の言葉の半分以上は宮澤賢治のものだ。しかしそれ以外は私が書いたものである。全部宮澤賢治の文章だと思っていた人がいたようで、あとで、
「賢治にあんな作品があったなんて知りませんでした」
ということを何人かからいわれた。じつは私の創作である。
榊原忠美氏のセリフはすべて(最後のよだかの一部分を除いて)私が書いたものだ。なので、「私は本当は音楽家になりたかったのです」という言葉は、私の捏造である。というより、そのアイディアが生まれたから、この公演全体のイメージができたといっていい。
それから、私は出演者でもあった。
演出が舞台にあがるというのは、演劇の世界ではよくあることで、その場合は「役者」として出るのだが、私の場合は「演奏者」としての出演であった。ピアノを弾いた。
舞台の真ん中にピアノが置かれ、私はほぼ最初から最後までずっとそこに座って演奏していた。なので、演出なのに自分の演出した舞台を客席側からは一度も見ていない。
それから、これも意外に知らない人が多かったのだが、音楽は全部即興演奏であった。
もちろん、「星めぐりのうた」と「ポラーノの広場」というふたつの曲があり、メロディは決まっているのだが、それにつける伴奏は即興で作ったものだったし、公演全編を通して断続的に流れる音楽はすべて即興演奏であった。尺八のやのしくうさんとのかけあいも何か所かあったが、あれも即興である。お互いにほとんどなにも決めていなかった。
今回の名古屋のことでは、私はもうひとつ、質量の大きい仕事をおこなった。
それは、ワークショップの「指導者」としての仕事だ。講師、あるいはインストラクターといいかえてもいい。
5月から一般参加者を募ったワークショップがスタートし、15名くらいの人が最終的に本公演のステージにあがることをめざして参加した。稽古というより、私が提唱している「現代朗読」の方法を知っていただき、学んでもらうことに重点が置かれていた。もちろん、最終的には公演を成立させなければならないので、脚本にそった稽古もたくさんおこなわれた。その部分では、私以外にも劇団クセックACTの主力俳優である榊原忠美氏の力に頼るところが大きかった。
さて、ここの部分に私はいまだに「悩み」を感じているのだ。
参加者の方々にはおおむね喜んでいただけたようだ。なかには、人生観が変わった、とすらいっていただく方もいた。最終的には全員がすばらしい結束を見せ、驚くようなクオリティの高いパフォーマンスを見せてくれた。それはお客さんにも充分伝わったと思う。
しかし、こういった「稽古」とか「指導」とかいうのは、本来、私の仕事なのだろうか。
私は考え方を示す。脚本と音楽を提示する。それらを演出する。が、パフォーマーを育てるのは私の手に負える、あるいは私のようなものがおこなってふさわしい仕事なのだろうか。
そこのところにずっと悩みがあった。
もう少し演出に集中したかった、というのもある。今回はうっかりしたことに、演出助手という役割の人を立てることをおこたっていた。ワークショップやリハーサルを通して私が話したこと、指示したことは、全部話しっ放しであり、ほとんどだれも記録しておらず(ビデオや録音機にはいくらか残っているが)、またチェックもおこなわれなかった。私も自分がなにをいったのかうっかり忘れてしまい、次のときにはまったく違う指示を与えたりすることも多かった。
出演者の皆さんはさぞかし混乱されたことであろう。
パフォーマーの教育と演出助手。これが今回の大きな課題として、私のなかにはわだかまっている。
以前からずっと野村つづけていることだが、いや、ぼやきつづけていることだが、現代朗読という方法で自分も演出をやってみたい、自分も朗読演出家になりたい、という人がまったくあらわれない。朗読をしたい、という人はたくさん来るのだが、だれかを演出したい、という人はまったく来ない。
「孤軍奮闘」という言葉がちらちらと脳裏をよぎる。
今回も、大勢の人に囲まれ、助けられ、また動かしたり動かされたりしながらも、「孤軍奮闘」という言葉が何度も脳裏をよぎった。私が考えていることを伝え、そしてその方法論を私のいないところでも実践してくれる者が育っていない。
これが残念なのだ。
ワークショップも公演もおおむね好評で、「次回も」という声があるようだし、また「次があるなら自分も参加したい」といううれしい声も何人かから直接聞いているが、上記の問題にいくらかでも光が見えなければ、私は動かないことにしよう、と新幹線のなかで考えていたのである。
このことは、本拠地である東京の活動においても同じことのように思う。
9月の体験ワークショップ終了
午前10時から「現代朗読を体験しよう」ワークショップを開催。13時まで。
このところ、定員を越える申込があって、毎回にぎやかだ。毎回、ほとんど必ず、連絡なしの欠席者が数名はいるのだが、今回はひとりも欠席がなし。
次回10月の開催は、10月4日(日)10:00-13:00、現代朗読協会・羽根木の家です。
詳細はこちら。
参加者からいただいた今回のワークショップの感想から、一部抜粋して紹介します。
■すごく説得力があって、先生がおっしゃる通りにする度に、次々と緊張がほぐれていったのにはびっくりした。もっと表現力をつけるために、身体的、精神的に「ナチュラル」になるたいと思った。いろんなことに敏感になっていきたいと思います。
■大学院(ホリスティック教育が専門)にいた頃、アレクサンダーテクニークの授業があったので半年間受けていました。その頃は、楽に歩いたり、ねころんだり、といったことの目的がよくわからなかったんですが、今日、表現といったものを体験してみて、少しずつアレクサンダーの教えの意味が感じられて、おもしろかったです。「表現」にあこがれがずっとあるのですが、人前で自分の内側を感じること、そしてそれを外に出すことが苦手です。でも声を出したり体を動かすことが好きなので、ぜひまた参加させていただきたいです。ありがとうございました。
■新鮮な印象を受けました。ホームページに書かれたことが直接、おしえていただきよくわかりました。
■テキストの言葉を具体的に(イメージをつくる?)表現する、たくらみを捨てて自分の中から出てきた表現を楽しむ、など難しい事もあり理解できたか全く自信がないです。が、最後のライブが、とても素敵でした。また、参加して、練習してみたいです。
■実際にテキストを使って、1人1人に対応して、弱点、克服方法を全体に発信していてよかったです。
■誰に話すのか、相手の声を聞くこと、などは、大変むずかしいことでしたが、やはり、基本にしていかないと、すなおな声で朗読できないとも感じました。
■自分の気持ち、心をまず聞いて、話すようにしたいと思いました。従来の「テキスト」に書いている文の内容をよく理解することも、そして、そこから自分が表現してゆくことこそ、ともに考えてゆきたい。
■外からの刺激に、自分を預けて、変化していくことを恐れないことを……は、演劇をしている中でも、自分の課題としてよく、指摘されるのですが……。緊張して、閉じた感覚を何をきっかけに、開くことができるのか、が、その時々で分からず、模索しています。面白かったです。
■聞く方とのコミュニケーションを取って読むというのに興味をもちました。ただ上手く読むのが上達だと思っていたけれど、読み手と聞く側の心が触れあえるような朗読ができれば、楽しそうだなと思いました。
このところ、定員を越える申込があって、毎回にぎやかだ。毎回、ほとんど必ず、連絡なしの欠席者が数名はいるのだが、今回はひとりも欠席がなし。
次回10月の開催は、10月4日(日)10:00-13:00、現代朗読協会・羽根木の家です。
詳細はこちら。
参加者からいただいた今回のワークショップの感想から、一部抜粋して紹介します。
■すごく説得力があって、先生がおっしゃる通りにする度に、次々と緊張がほぐれていったのにはびっくりした。もっと表現力をつけるために、身体的、精神的に「ナチュラル」になるたいと思った。いろんなことに敏感になっていきたいと思います。
■大学院(ホリスティック教育が専門)にいた頃、アレクサンダーテクニークの授業があったので半年間受けていました。その頃は、楽に歩いたり、ねころんだり、といったことの目的がよくわからなかったんですが、今日、表現といったものを体験してみて、少しずつアレクサンダーの教えの意味が感じられて、おもしろかったです。「表現」にあこがれがずっとあるのですが、人前で自分の内側を感じること、そしてそれを外に出すことが苦手です。でも声を出したり体を動かすことが好きなので、ぜひまた参加させていただきたいです。ありがとうございました。
■新鮮な印象を受けました。ホームページに書かれたことが直接、おしえていただきよくわかりました。
■テキストの言葉を具体的に(イメージをつくる?)表現する、たくらみを捨てて自分の中から出てきた表現を楽しむ、など難しい事もあり理解できたか全く自信がないです。が、最後のライブが、とても素敵でした。また、参加して、練習してみたいです。
■実際にテキストを使って、1人1人に対応して、弱点、克服方法を全体に発信していてよかったです。
■誰に話すのか、相手の声を聞くこと、などは、大変むずかしいことでしたが、やはり、基本にしていかないと、すなおな声で朗読できないとも感じました。
■自分の気持ち、心をまず聞いて、話すようにしたいと思いました。従来の「テキスト」に書いている文の内容をよく理解することも、そして、そこから自分が表現してゆくことこそ、ともに考えてゆきたい。
■外からの刺激に、自分を預けて、変化していくことを恐れないことを……は、演劇をしている中でも、自分の課題としてよく、指摘されるのですが……。緊張して、閉じた感覚を何をきっかけに、開くことができるのか、が、その時々で分からず、模索しています。面白かったです。
■聞く方とのコミュニケーションを取って読むというのに興味をもちました。ただ上手く読むのが上達だと思っていたけれど、読み手と聞く側の心が触れあえるような朗読ができれば、楽しそうだなと思いました。
2009年9月4日金曜日
「Kenji - 宮澤賢治・音と光と土 - 」公演レポート(2)
(Photo by Funky Yoshi)
((1)のつづき)
午後、いよいよ公演本番がやってきた。
14時開場。急遽設定した昼の部は、お客さんは少なめだが、それでも本番には違いない。ステージ下手に勢揃いした出演者全員、さすがに緊張の面持ちになっている。
といっても、アガっているような様子の人はひとりもいない。緊張しているが、落ち着いた表情で、私のつまらない冗談にもちゃんと反応して、硬直してはいない。
14時半、開演。いい感じで出た。
客電が落ち、暗転のなかから、美術の布の仕掛けが上昇しはじめ、私としくうさんとバラさんを除く全員が、オーケストラのチューニングの音を模した発声でゆっくりと舞台上に散らばっていく。いったいなにが始まるんだろう、という客席の息を呑むような緊張が、こちらにも伝わってくるようだ。
あとはもう、リハーサル通り。
といっても、もともと即興的な、その場のあるがままの気持ちや共感に任せられた部分が多い脚本なので、どういう展開になるのかは出演者もわからない部分が多い。げんに、やのしくうさんと私の即興演奏のからみは、リハーサルもほとんどなかったのでまったく予測がつかず、それに乗って賢治の詩を読む朗読者たちも、あらかじめなにかを決めてかかるということができない。
そこがおもしろいのだ。
自由に、スリリングに、ステージは進んでいった。
和田由貴の美しい歌声と「よだかの星」の朗読、全員のハミングと演奏、そして美術装置とチケットの乱舞のクライマックス。最後に暗転になったとき、客席からは大きな拍手が起こり、舞台袖に退出した私たちにも確かに届いてきた。
80分、一本勝負。
16時前に終わり、知り合いに挨拶などしてから、全員でチケットの回収作業。拾い集め、かき集めて、ふたたび吊り仕掛けにもどす。もう一度降らすため。
1時間ばかりの休憩。けっこうゆっくりできる。
暇なので、ステージにあがって、ピアノを弾く。やはり暇にしていたみんなが集まってきて、にわかカラオケ大会と貸す。そのあと、指ならしがてら、童謡、演歌、ジブリ、ジャズ、クラシックなど、好き勝手に弾いていたら、私も私もとピアノを弾きにやってくる。
今回はステージ上にグランドコンサートピアノが2台出ている。一台はヤマハ。もう一台はスタインウェイ。みんなで音の違いを弾き比べたりしている。実に楽しそう。
ぶらっとロビーの受付に出たら、受付を手伝ってくれている人たちが、
「とても本番前とは思えない」
という。みんな楽しそうで、リラックスしているからだ。私もそう思う。よくぞ、これだけのおだやかで、非暴力的な雰囲気のグループができてくれたものだと、驚いてしまう。この人たちがパフォーマンスで発揮するもの、それが人々にどう伝わるのか。なにか「意味」を求めようとしている人には、なかなか伝わりにくいのかもしれないが、ただ「感じよう」としてくれる人はきっと大きな共感を持ってくれるのではないか。
短いあいだにいろいろなことを考えた。
19時、2回めで、最後の公演がスタートする。
夜はたくさんのお客さんで席が埋まった。そして、ステージでも予期しない、もちろんあらかじめ準備していなかったようなことが次々と起こった。1回めとも全然違うステージ。
ウェルバ・アクトゥスは何度やっても、そのつど違うものになるだろう。なぜなら、時間はたえず進むものであり、人もたえず変化しつづけるものなのだから。さっきの自分といまの自分とはもう違っている。違っている自分の表現が違っているのは当然のことだろう。それが正直な表現というものではないだろうか。
全員がそのことを理解してくれていて、それに抵抗していない。素直に自分をステージに存在させ、同時に皆と共鳴し合い、ひとつの表現を作っている。
感動的なステージだった。私はその真ん中でピアノを弾いていられることを、この上なく幸せに感じ、また同時に、意識が拡散してそこから存在がなくなり、賢治とともに全体のなかに溶けだして、空中からその場を見下ろしているような感覚にもおちいった。
希有な体験だった。
すべてが終わり、お客さんを送り出し、後片付けをして撤収。
打ち上げ。
中心スタッフだけのささやかな打ち上げの予定だったのに、出演者とスタッフがほぼ全員来てしまった。時間が遅いにも関わらず。興奮さめやらず、大盛り上がりで、警察に通報されるほどだったらしい(私は通報騒ぎは知らなかった)。ご近所の皆さんとお店の人、申し訳なかった。
それにしても、本当にすばらしい経験をさせてもらった。
この経験がひとつの「終わり」なのか、それともなにかの「始まり」なのか。それはすでに、私の手を離れているような気がする。
((1)のつづき)
午後、いよいよ公演本番がやってきた。
14時開場。急遽設定した昼の部は、お客さんは少なめだが、それでも本番には違いない。ステージ下手に勢揃いした出演者全員、さすがに緊張の面持ちになっている。
といっても、アガっているような様子の人はひとりもいない。緊張しているが、落ち着いた表情で、私のつまらない冗談にもちゃんと反応して、硬直してはいない。
14時半、開演。いい感じで出た。
客電が落ち、暗転のなかから、美術の布の仕掛けが上昇しはじめ、私としくうさんとバラさんを除く全員が、オーケストラのチューニングの音を模した発声でゆっくりと舞台上に散らばっていく。いったいなにが始まるんだろう、という客席の息を呑むような緊張が、こちらにも伝わってくるようだ。
あとはもう、リハーサル通り。
といっても、もともと即興的な、その場のあるがままの気持ちや共感に任せられた部分が多い脚本なので、どういう展開になるのかは出演者もわからない部分が多い。げんに、やのしくうさんと私の即興演奏のからみは、リハーサルもほとんどなかったのでまったく予測がつかず、それに乗って賢治の詩を読む朗読者たちも、あらかじめなにかを決めてかかるということができない。
そこがおもしろいのだ。
自由に、スリリングに、ステージは進んでいった。
和田由貴の美しい歌声と「よだかの星」の朗読、全員のハミングと演奏、そして美術装置とチケットの乱舞のクライマックス。最後に暗転になったとき、客席からは大きな拍手が起こり、舞台袖に退出した私たちにも確かに届いてきた。
80分、一本勝負。
16時前に終わり、知り合いに挨拶などしてから、全員でチケットの回収作業。拾い集め、かき集めて、ふたたび吊り仕掛けにもどす。もう一度降らすため。
1時間ばかりの休憩。けっこうゆっくりできる。
暇なので、ステージにあがって、ピアノを弾く。やはり暇にしていたみんなが集まってきて、にわかカラオケ大会と貸す。そのあと、指ならしがてら、童謡、演歌、ジブリ、ジャズ、クラシックなど、好き勝手に弾いていたら、私も私もとピアノを弾きにやってくる。
今回はステージ上にグランドコンサートピアノが2台出ている。一台はヤマハ。もう一台はスタインウェイ。みんなで音の違いを弾き比べたりしている。実に楽しそう。
ぶらっとロビーの受付に出たら、受付を手伝ってくれている人たちが、
「とても本番前とは思えない」
という。みんな楽しそうで、リラックスしているからだ。私もそう思う。よくぞ、これだけのおだやかで、非暴力的な雰囲気のグループができてくれたものだと、驚いてしまう。この人たちがパフォーマンスで発揮するもの、それが人々にどう伝わるのか。なにか「意味」を求めようとしている人には、なかなか伝わりにくいのかもしれないが、ただ「感じよう」としてくれる人はきっと大きな共感を持ってくれるのではないか。
短いあいだにいろいろなことを考えた。
19時、2回めで、最後の公演がスタートする。
夜はたくさんのお客さんで席が埋まった。そして、ステージでも予期しない、もちろんあらかじめ準備していなかったようなことが次々と起こった。1回めとも全然違うステージ。
ウェルバ・アクトゥスは何度やっても、そのつど違うものになるだろう。なぜなら、時間はたえず進むものであり、人もたえず変化しつづけるものなのだから。さっきの自分といまの自分とはもう違っている。違っている自分の表現が違っているのは当然のことだろう。それが正直な表現というものではないだろうか。
全員がそのことを理解してくれていて、それに抵抗していない。素直に自分をステージに存在させ、同時に皆と共鳴し合い、ひとつの表現を作っている。
感動的なステージだった。私はその真ん中でピアノを弾いていられることを、この上なく幸せに感じ、また同時に、意識が拡散してそこから存在がなくなり、賢治とともに全体のなかに溶けだして、空中からその場を見下ろしているような感覚にもおちいった。
希有な体験だった。
すべてが終わり、お客さんを送り出し、後片付けをして撤収。
打ち上げ。
中心スタッフだけのささやかな打ち上げの予定だったのに、出演者とスタッフがほぼ全員来てしまった。時間が遅いにも関わらず。興奮さめやらず、大盛り上がりで、警察に通報されるほどだったらしい(私は通報騒ぎは知らなかった)。ご近所の皆さんとお店の人、申し訳なかった。
それにしても、本当にすばらしい経験をさせてもらった。
この経験がひとつの「終わり」なのか、それともなにかの「始まり」なのか。それはすでに、私の手を離れているような気がする。
「Kenji - 宮澤賢治・音と光と土 - 」公演レポート(1)
(Photo by Funky Yoshi)
2008年11月27日にスタートした公演の計画が、先日2009年9月2日に本公演を迎え、無事に終演となった。その本公演の模様を、演出/出演者としての立場からレポートしておく。
本公演のために名古屋入りしたのは、8月30日。
午後から、稽古場として借りていた劇団クセックACTのアトリエ〈ツバキハウス2〉に行き、アトリエでの最後のリハーサルを夜までおこなう。
出演者は、一般公募したワークショップ参加者13名と、メインキャストの6名、歌1名、演奏者2名。スタッフも合わせると40名以上の大所帯である。
翌8月31日の夜、東京から参加の歌の和田由貴、大阪から参加のメインキャストのひとり窪田涼子が来て、これまでふたりが抜けていた部分の確認リハーサルをおこない、会場に運び入れる荷物の確認。
9月1日、午前9時。会場入り。
本公演の会場は名古屋市芸術創造センターホールで、満席になれば640人が入れる。今回、もともと1回きりの公演だったのを、昼夜2回公演に変更になったため、客数も分散し、2階席には客を入れないことになった。
ホールではすでに舞台監督の井上さん、照明の吉戸さん、音響の加藤さんと、そのアシスタントの方々が動きはじめている。出演者も集合し、まずは楽屋に荷物を運びこむ。そのあと、なにかあればすぐにセッティングの手伝いができるように、ホール回りに待機。そして、ホールの響きなどを各自声を出して確かめたりする。
午後、ステージ上での初リハーサル。距離感、音の響き、送風機や美術の具合、そして最後に降らせる緑のチケット仕掛けの確認など、どんどん進んでいく。スタッフがベテラン揃いなので、とどこおりがない。また、芝居とは違って装置の「建て込み」がない分、さくさくと進む。
リハーサル中にチケットを一度降らせてみよう、ということになった。いわゆる「紙吹雪」のようなものだが、大きさは汽車のチケットくらいある。これは『銀河鉄道』に出てくる緑色のチケットを模しているのだ。それを、降らせるために、12万枚裁断して用意してあった。
バトンに布と網を組み合わせた仕掛けを吊り、それにチケットを乗せる。天井まで持ちあげて、ローブを揺さぶってチケットを降らせる。
どうやら仕掛けはうまくいったようだ。大量のチケットが、送風機にあおられて、美しく舞台上に舞う。舞台上ばかりか、客席のほうにも大量に降り注ぐ。それも美術の一歩さんの狙いなのだ。
夜になって、日中、用事で来れなかった出演者も揃い、もう一度、やや本格的なリハーサルを行なう。
前述したように、翌日の本公演では、本来ゲネプロだったのを追加公演としたため、ゲネプロをやらないことになった。そのために、前日までにしっかりとリハーサルをしておくことになったのだ。
一番心配だった降らせた後の大量のチケットの始末も、全員が総出でやれば意外に短時間でできることがわかった。
夜8時半には全リハーサルを終え、撤収。
実は、尺八のやのしくうさんだけが本番当日しか来られないので、完全なリハーサルはできておらず、音響のセッティングもそこだけ残っているのだが、まあなんとかなるだろう。
翌日の本番にそなえて早めに宿に帰り、ゆっくり休む……はずが、当然のごとく「ビールでも一杯」ということで、メイン制作陣と近くの飲み屋に流れた。ご苦労さまである。
9月2日、本番当日。午前9時半、会場入り。
ステージ前に全員が集合して、スタッフからの注意と確認事項を聞いていると、やのしくうさんもいらした。さっそくしくうさんも入れて、音響テストを兼ねたリハーサルを開始。その間に照明や送風機などの仕掛けも最終調整を行なっているらしい。
「らしい」というのは、演出である私も、会場入りしてからは出演者となり、リハーサルのときはステージ上のピアノに張りつきになってしまうので、全体像がほとんどわからないのだ。そのかわり、時々は自由に動けるバラさんが動き回っては、的確なアドバイスをしてくれる。ありがたい。
ステージ上のリハーサルでは、やはり稽古場とは違い、出演者は緊張しつつ生き生きとした動きになってきた。とくに、今回、朗読(つまり本を手に持って読む行為)に初挑戦のクセック団員の喜多千秋と樋口大介は、水を得た魚のように声を出しながら、ステージ上を所狭しと走り回っている。楽しくてしかたがない、という様子が、私にもうれしくてたまらない。こうやって、いろいろなリミットをとっぱずして、自由にのびのびと表現してもらう場を作るのが、私のねらいのひとつだったからだ。
((2)につづく)
2008年11月27日にスタートした公演の計画が、先日2009年9月2日に本公演を迎え、無事に終演となった。その本公演の模様を、演出/出演者としての立場からレポートしておく。
本公演のために名古屋入りしたのは、8月30日。
午後から、稽古場として借りていた劇団クセックACTのアトリエ〈ツバキハウス2〉に行き、アトリエでの最後のリハーサルを夜までおこなう。
出演者は、一般公募したワークショップ参加者13名と、メインキャストの6名、歌1名、演奏者2名。スタッフも合わせると40名以上の大所帯である。
翌8月31日の夜、東京から参加の歌の和田由貴、大阪から参加のメインキャストのひとり窪田涼子が来て、これまでふたりが抜けていた部分の確認リハーサルをおこない、会場に運び入れる荷物の確認。
9月1日、午前9時。会場入り。
本公演の会場は名古屋市芸術創造センターホールで、満席になれば640人が入れる。今回、もともと1回きりの公演だったのを、昼夜2回公演に変更になったため、客数も分散し、2階席には客を入れないことになった。
ホールではすでに舞台監督の井上さん、照明の吉戸さん、音響の加藤さんと、そのアシスタントの方々が動きはじめている。出演者も集合し、まずは楽屋に荷物を運びこむ。そのあと、なにかあればすぐにセッティングの手伝いができるように、ホール回りに待機。そして、ホールの響きなどを各自声を出して確かめたりする。
午後、ステージ上での初リハーサル。距離感、音の響き、送風機や美術の具合、そして最後に降らせる緑のチケット仕掛けの確認など、どんどん進んでいく。スタッフがベテラン揃いなので、とどこおりがない。また、芝居とは違って装置の「建て込み」がない分、さくさくと進む。
リハーサル中にチケットを一度降らせてみよう、ということになった。いわゆる「紙吹雪」のようなものだが、大きさは汽車のチケットくらいある。これは『銀河鉄道』に出てくる緑色のチケットを模しているのだ。それを、降らせるために、12万枚裁断して用意してあった。
バトンに布と網を組み合わせた仕掛けを吊り、それにチケットを乗せる。天井まで持ちあげて、ローブを揺さぶってチケットを降らせる。
どうやら仕掛けはうまくいったようだ。大量のチケットが、送風機にあおられて、美しく舞台上に舞う。舞台上ばかりか、客席のほうにも大量に降り注ぐ。それも美術の一歩さんの狙いなのだ。
夜になって、日中、用事で来れなかった出演者も揃い、もう一度、やや本格的なリハーサルを行なう。
前述したように、翌日の本公演では、本来ゲネプロだったのを追加公演としたため、ゲネプロをやらないことになった。そのために、前日までにしっかりとリハーサルをしておくことになったのだ。
一番心配だった降らせた後の大量のチケットの始末も、全員が総出でやれば意外に短時間でできることがわかった。
夜8時半には全リハーサルを終え、撤収。
実は、尺八のやのしくうさんだけが本番当日しか来られないので、完全なリハーサルはできておらず、音響のセッティングもそこだけ残っているのだが、まあなんとかなるだろう。
翌日の本番にそなえて早めに宿に帰り、ゆっくり休む……はずが、当然のごとく「ビールでも一杯」ということで、メイン制作陣と近くの飲み屋に流れた。ご苦労さまである。
9月2日、本番当日。午前9時半、会場入り。
ステージ前に全員が集合して、スタッフからの注意と確認事項を聞いていると、やのしくうさんもいらした。さっそくしくうさんも入れて、音響テストを兼ねたリハーサルを開始。その間に照明や送風機などの仕掛けも最終調整を行なっているらしい。
「らしい」というのは、演出である私も、会場入りしてからは出演者となり、リハーサルのときはステージ上のピアノに張りつきになってしまうので、全体像がほとんどわからないのだ。そのかわり、時々は自由に動けるバラさんが動き回っては、的確なアドバイスをしてくれる。ありがたい。
ステージ上のリハーサルでは、やはり稽古場とは違い、出演者は緊張しつつ生き生きとした動きになってきた。とくに、今回、朗読(つまり本を手に持って読む行為)に初挑戦のクセック団員の喜多千秋と樋口大介は、水を得た魚のように声を出しながら、ステージ上を所狭しと走り回っている。楽しくてしかたがない、という様子が、私にもうれしくてたまらない。こうやって、いろいろなリミットをとっぱずして、自由にのびのびと表現してもらう場を作るのが、私のねらいのひとつだったからだ。
((2)につづく)
2009年9月2日水曜日
公演の日がやってきました
今日はいよいよ、ウェルバ・アクトゥス第一回名古屋公演「Kenji - 宮澤賢治・音と光と土 - 」の公演本番です。
昨年暮れから準備を進めてきて、今年5月からはワークショップも回を重ね、ついにこの日がやってきました。
いつものことですが、とくにメディアに乗っている有名な出演者もおらず、集客には苦労しているわけですが、非常にすばらしい仕上がりとなっています。まったく舞台経験がない方も今回は数多く出演しています。が、ほんとうにそうなの? ときっと目をみはっていただけることと思います。
残席はまだまだありますので、今日、急に思い立って行ってみようかな、という方は歓迎です。受付で私の名前をいっていただければ(演出のMIZUKIさんの紹介です)、前売り扱いの料金でおはいりいただけるようにしておきます。
2回公演で、午後2時半からと夜7時からの開演です。
お近くの方も遠方の方もお待ちしております。
さて、これから会場の名古屋市芸術創造センターに出かけ、本番前の準備をします。
昨年暮れから準備を進めてきて、今年5月からはワークショップも回を重ね、ついにこの日がやってきました。
いつものことですが、とくにメディアに乗っている有名な出演者もおらず、集客には苦労しているわけですが、非常にすばらしい仕上がりとなっています。まったく舞台経験がない方も今回は数多く出演しています。が、ほんとうにそうなの? ときっと目をみはっていただけることと思います。
残席はまだまだありますので、今日、急に思い立って行ってみようかな、という方は歓迎です。受付で私の名前をいっていただければ(演出のMIZUKIさんの紹介です)、前売り扱いの料金でおはいりいただけるようにしておきます。
2回公演で、午後2時半からと夜7時からの開演です。
お近くの方も遠方の方もお待ちしております。
さて、これから会場の名古屋市芸術創造センターに出かけ、本番前の準備をします。