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2020年2月28日金曜日

小説家の原稿用紙としてのエディター「OmmWriter」

最初期の一太郎からはじまって、数え切れないほどのワープロやエディターソフトを試してきた。
ワープロ専用機を何台か使ったこともあるが、コンピューターソフトのほうが好きだった。

いまでも定番の「Emacs」や「秀丸エディタ」、「MIFES」「VZエディタ」から「WZエディタ」と渡りあるいて、現在はMacBookにいくつかのテキストエディタがインストールしてあって、シチュエーションに応じて使い分けている。

ほかにもアウトラインエディタやノートアプリも便利に使っている。
「Evernote」や「Scrivener」などだ。
縦書き表示ができるエディタも増えてきていて、定番のワープロソフトであるWORDも日本語表示が充実してきた(あまり使わないけど)。

ブログの記事など、なにかまとまった文章を書くときは、いまもそうだが「OmmWriter」というソフトを立ちあげることが多い。
けっこう前からあるソフトで、現在はAppStoreからダウンロードできるようになっている。

立ちあげると、文字入力だけのシンプルな画面があらわれ、それ以外のものは隠されてしまうのだが、シンプルといってもちょっとした工夫がある。
背景画像をいくつか選べるようになっていて、そのどれもとてもシンプルだったり、寒い風景だったりする。

BGMも設定できて、ミニマルな静かな音楽や、環境音がいくつか用意されている。
これがまた執筆への集中をうながしてくれるのだ。

必要最小限の情報は、カーソルを動かすとごくごく控えめに現れる。
たとえば入力枠の一番下のところに、入力文字数がさりげなく表示される。
このテキストだと、現在730文字。

マルチタスクが好きで、得意でもある私だが、身体がしんどくて集中力が減退しているところは、やはりシングルタスクで静かに自分のことばと向かいあいたい。

2020年2月27日木曜日

大きなニーズ「ひとくぎり(あるいはけじめ)」が満たされた3日間

NVCのニーズリストには見かけないかもしれないが、私にとっては大事なニーズのひとつに「ひとくぎりのニーズ」というものがある。
「けじめのニーズ」といいかえてもいい。

なにごとかをやりかけていて、それが中途半端ではなくきちんと最後までやり終え、けじめがつくこと。

まだけじめがつかなくて中途半端になっているなにかがあると、気になる。
心のどこかに引っかかって、気持ちわるい。
そういう経験はないだろうか。
とくに私の場合、末期ガンが見つかり、自分の命が終わりに近づくのを体感するにつれ、このニーズは大きな存在を持ってきた。

そこで昨年2019年はさまざまなことを計画し、みなさんに協力してもらって実現にこぎつけたり、自分でもがんばって終わらせたりして、多くのことに「ひとくぎり」をつけた。
とても満たされた気持ちでいまを迎えているが、まだいくつかひとくぎりがついていないものもある。

そのひとつが、音読療法の活動だった。
音読療法は私と仲間たちが2011年に体系化し、啓蒙普及と社会貢献活動をおこなってきたものだ。
現在、その活動の中心は音読療法士と音読トレーナーがになっている。
私はその育成に力をいれてきたが、なかなか思うように仲間が増えてくれないのが悩みだった。

それでも各地でこつこつと活動をつづけたり、あたらしい音読の場をひらくことに挑戦するトレーナーもすこしずつ増えてきていた。
音読療法士も増えた(といってもまだふたりだが)。

音読トレーナーを養成するための講座は2泊3日の合宿でおこなわれる。
かなりハードな内容とスケジュールなので、体調に不安がある私は昨年末の講座をもって自分が関われる最後だろうと思っていた。
ところが、思いがけず東海地方から参加したいという希望があり、この2月にも開催することになった。
私は講座を受け持つ自信がまったくなかったが、音読療法士の野々宮卯妙にメイン講師をやってもらえるということで、開催が実現した。

おこなってみると、音読療法士による育成講座ができること、参加者それぞれが意欲をもって自分の仕事や生活の場で音読療法を活用してくれるであろうこと、また音読トレーナーがさらに上の資格である音読療法士をめざそうとしてくれていること、などがわかり、私はかなり勇気づけられ、そして安心したのだった。

今後、たとえ私がいなくなったとしても、音読療法の活動が継続し、メンバーが育っていくことが想像できたことが、私の「ひとくぎり」のニーズを満たしてくれたといえる。
この「ひとくぎり」には、より正確にいえば、ただ区切りがついたということだけでなく、「私の手を離れて自律的に存在しつづけてくれる」ということも含まれている。
私がこの世からいなくなったとしても、仲間が活動をつづけ、音読療法が人々の生活の役に立ちつづけていくかぎり、私の存在の痕跡がそこにあると(いまは)思える。

2020年2月26日水曜日

放射線治療中の食事・食欲事情

2クールめとなる放射線照射治療の全10回が先週からスタートして、今日で6回めだった。
前回もそうだったが、放射線治療中は体調が乱高下する。
今回はスタートして2日めですでにかなりきつくなり、痛み止め薬の服用もあいまって起きていられない日が2日くらいつづいた。
食欲も低下して、あまり食べられない。
かるい嘔吐感がずっとつづいている。

が、土日月と3連続で休みだったので、そのあいだはすこし回復した。
ちょうど音読療法の講座合宿の期間だったので、食事が参加のみなさんといっしょだった。
いっしょに食べるとがんばれる。
とくに昼食は外で弁当を買ってきてもらって、がんばってこってり系を3日連続で食べられた。
写真のとおりの豚重。

しっかり補給して、今週の5回めから8回めまでにそなえる。
今週2回めとなる今日は、終わってからきつくて、食欲がなかった。
照射治療の影響でお腹がゆるくなるかもと担当医からいわれていたのだが、すこしそんな感じもしてきた。
まあ、便秘よりいい。
痛み止め薬はどうも、便秘ぎみになるようなのだ。

明日は今週3回め、全部で7回めで、なんとなく体調は回復してくるような気がする。
希望的観測ではあるけれど。

満たされようが満たされまいがニーズを知ることが生きる質を変える

共感手帳術の目的のひとつが「マインドフルネス」だが、それを実現するためのかんがえかたのひとつに、
「過去の失敗や後悔、あるいはまだ起きていない未来への希望や不安から、いまの自分のニーズを理解する」
というものがある。

いまこの瞬間に集中しようとしても、過去の体験や記憶が邪魔したり、まだ起こってもいないことの妄想がノイズとなって去ってくれないことがある。
「雑念」などと呼ばれることもある。
これらは自分がきちんと向かい合えていない「満たされていないニーズや感情」のしわざだ。
ノイズとなっている記憶や妄想を書きだし、それらの奥にある自分のニーズを明確にできたとき、ノイズはニーズという生命活動の源泉に変化する。

過去や未来はあいかわらず現在を浸食しようとやってくるけれど、いったんニーズを明確化できたノイズはすばやく処理することができる。
無数のノイズをそうやってつぎつぎと処理してしまうこと、書きだしてしまうこと、そして自分の活動の源泉をたくわえ、日々活力をもって行動すること、これが共感手帳術の醍醐味だ。

マインドフルネスというと、私もそうだったが、「いまここ」に集中することによって「刹那的」になり、過去の反省も未来の計画もなにも放りだしてしまわなければならないと思ってしまうことがあるが、実際にはちがう。
ヒトは他の動物とちがって、過去の自分のおこないや、未来にたいする希望や計画から、現在の自分を省みることができる唯一の生き物といってもいいだろう。

現在の「生」のクオリティは、この「省みる」ことの質に左右される。
まさに「省みる」ことの質が個々に問われるのだ。

オンラインチームツールSlackを使ってNVCの練習を習慣化するためのツール共感手帳術を使う仲間たちの交流の場のためのオンラインミーティングです。どなたも自由にご参加ください。3月4日(水)20時から約1時間。

2020年2月21日金曜日

体調不良だけどマインドフルネスとNVCについて伝えたいことがある

夜は起きていられなくて10時になると薬を飲んでベッドにはいってしまう。
しばらくぐずぐずしているが、遅くても11時には眠りにつく。
薬がきれて2時か3時に痛みで目がさめる。
薬を飲んでもう1度眠りにつく。
しばらくぐずぐずするが、たいていはなんとか眠れる。

案外熟睡はできているのかもしれないと思う。
が、朝方5時すぎか6時ごろには、ふたたび痛みで目がさめて、薬を飲んだら、もう眠れない。
起きてしまうしかないが、薬が効いてくるまで痛みですぐには動けない。
ベッドに腰かけたまましばらくじっとしているか、がんばって着替えて椅子にすわってしばらんぼんやりしているか、着替えたにもかかわらずまたベッドに横になってすこしうとうとするか。

1時間くらいすると薬が効いてきて、なんとか動けるようになる。
といっても、痛みが完全に消えることはなくて、腹部には疼痛が常駐している。
薬がきれたときはこの疼痛は脂汗が出るほどに強いが、薬が効いていればなんとか活動できるくらいにはなる。

歩くのに支障があるので、昨日はステッキを登山用品店で買ってきた。
これがあるとだいぶ楽だ。
5年くらい前までは膝の故障で杖を常用していたので、使い方は慣れている。
杖がないと100メートル歩くのにもつらい。
病院に行くのに、駅前のバス停から乗るのだが、そこまでの300メートルがつらい。
杖を買ってすこし楽になった。

薬を使ってでも、放射線治療を追加してでも、この痛みをなんとか抑えようとするのは、自分自身にたいする暴力かもしれないとは思うけれど、やりたいことがあるのでしかたがない。
痛みにはちょっと脇にどいていてもらって、集中力をもってやりたいこと、書きたいこと、作りたいものがある。
この時間がもうすこし必要だし、痛みももうすこしコントロールできるといいんだけど(なかなか医者の処方がうまくいかない)。

今夜は共感手帳術の仲間たちとのオンラインミーティングだ。
私の状態を心配してくれる人もいるけれど、1時間と限定された枠だし、オンラインなので、なんとかやれるだろう。
そして、今日あつかいたいテーマがある。

「いまここ」にいるために、ヒトが動物とは違う特徴でもある「過去からいまを省みること」と「未来からいまを省みること」ができることによって「いま」の質を高める方法について、NVCの手法を取り入れながら、みなさんと一緒に考えてみたい。
これは私自身にとっても大切なテーマなのだ。
命のパワーをめいっぱい使うために。

(ここ数日、放射線治療の影響と痛みでものを書く集中力がまったくなかったのに、今日はこれをここまで書けたのは、大きなお祝い)

2020年2月17日月曜日

自分の痛みは人にはわからないし人の痛みも私にはわからない

食道ガンの転移による腰痛と腹痛がひどくなって、だんだんできることが限られてきた。
まず運動ができない。
これは困る。

かるい運動もやりにくい。
たとえばウォーキング。
みじかい距離でも、歩くのが大変だ。
痛み止めがあるていど効いていると、しばらくは歩きはじめられるのだが、やがて腰痛と腹痛におそわれ、立ちどまらざるをえなくなる。
身体をまげて、痛みをしばらくやりすごす。

身体をのばした状態でいることができないのだ。
なので簡単なストレッチのようなものや、武術の稽古もできない。
私がやっている韓氏意拳という武術は、稽古の中心が「站椿(たんとう)」というほとんど動かない型稽古なのだが、それでも身体を起こしていられないとできない。

身体を曲げた体勢なら活動にはあまり支障ない。
座った状態なら、執筆作業もピアノ演奏も運転も、これまでと変わりなくできる。
ただ、痛みが強くなると集中力ははっきりと減退する。

ようするに痛みさえなければいろいろなことがうまくいくのだ。
ところが、なぜか痛みはがまんすべき、多少の痛みは無視できるだろう、薬はなるべく飲まないほうがいい、という価値観に心底支配されていることに気づく。
医者で薬を処方されても、痛みががまんできなくなるまで飲むことをためらう。
薬は悪だ、痛みががまんできないのは自分が弱いからだ、という心理が無意識に強く働いているらしい(なんらかの教育のたまものだろう)。

人からすすめられた民間療法もいくつかためしてみたけれど、痛みをともなうもの、あるいは痛みがあるとできないものは、できないし、無理にやるとダメージが大きい。

「痛みは身体の声」という意見があって、それはそれである程度の健康状態では正しいし、きちんとそれを見なければ、付き合わなければという思いも強くあるのだが、進行性の悪性腫瘍に侵されている身としてはべつの対応も必要になると割り切ることが、いまの自分を大切にすることになる。
私のこの痛みは、人からどのようにいわれたところで、その人にはけっしてわからないものなのだ。

ついでにいえば、肉体的・物理的な痛みのほかに、心理的痛みにもあてはめられることが多い。
こころの痛みは無視したり無理することなく、それときちんと向きあう必要があるが、その対処法は一筋縄ではいかない。
きちんと見れば原因=ニーズがクリアになる痛みは対処できるし、また対処をだれかに手伝ってもらうこともできる。
しかし、深い痛み、原因がよくわからない強い痛み(トラウマなど)は、うかつに手を出すとダメージが大きくなることがある。

悪性腫瘍のようにうかつに治療しようとすると、かえって全体のバランスをくずしたり、いちじるしくそこなってしまう。
治癒がむずかしい病巣は、乱暴にそれ本体を取りのぞいたり引っかきまわしたりするのではなく、そこから生まれる痛みそのものに対処することがまずは必要だろう。
そのための方策はさまざまにある。

2020年2月16日日曜日

春野亭日乗 2月15日(土)表現研究仲間としてのゼミ生、ミチコサン、お腹ウォーマー

朝からゼミ生のユウキさんがわざわざグリグリでケアしに来てくれた。
仕事が忙しい時期なのに、合間をぬって来てくれて、ほんとにありがたい。
ケーキの差し入れまでいただいたので、お茶タイム。
お酒を一滴も飲めなくなって以来、甘いものには目がなくなっているけど、なんでもいいというわけではなくて、もちろんおいしいものがサイコー!
ユウキさん、ありがとう。

そのあと、やはりゼミ生のかなえさんが来てレッスンしたので、いつものゼミみたいになったけど、ゼミというより仲間の集まりのように私はいつも感じている。
楽しかったな。
そのおかげか、昨日はだんだん調子を取りもどして、夜は最近になくよく眠れた(1度しか起きなかった)。

収録してから長らく放置してしまった矢澤亜希子朗読の新美南吉短編作品「ミチコサン」を、ようやくYouTubeにアップできた。
矢澤ちゃんの朗読する新美南吉の超短編シリーズはすでにオーディオブックとしてたくさん収録ずみで、順次公開していきたいが、どのような形で公開するかはまだ決まっていない。

午後は駒井のりこさんにいただいたレンチンのウォーマーをお腹に乗せて、編物。
ずっと疼痛がある腹部が適度にあたたまって、非常に楽で快適。
調子回復はこれのおかげもあるかも。
午後から夜にかけてゆっくりできたのもよかった。

2020年2月15日土曜日

放射線照射治療ふたたび

木曜日に多摩総合医療センターに行って、消化器外科と診療放射線科のそれぞれの担当医の診察を受けてきた。
去年10月から常用している痛み止め薬が効かなくなってきているので、薬を変える検討をすることになった。

多摩センターは終末医療の機能がないので、すでに連絡をしてある国立さくら病院に緩和ケアのお願いをすることになり、手続き上紹介状をあらためて書いてもらった。

それとは別に、放射線治療の余地がまだあるというので、こちらも検討する。
前回の放射線治療は食道ガンの本体を叩くもので、これはうまくいった(ように感じている)。
おかげで痛みもなくなり、食事には現時点でなんの支障もない(今後はわからないが)。

こちらはもう放射線をあてることはできないが、未照射の転移部位についてはまだ余地がある。
腹部大動脈脇のリンパ節に転移したガン部位で、腰痛や下腹部痛もこれが原因であろうとのこと。
こちらを照射治療すれば、痛みの緩和が期待できる。
ただし根治は目的ではないので、前回30回おこなった照射を、今回は10回だけおこなう。
これだと身体への負担もすくなくてすむ。

放射線治療は来週からスタートすることになり、事前にCTをとって治療プログラムを作っているところだ。

その足でさくら病院に行き、院長の診察を受け、痛み止め薬の相談をしてあらたな薬を処方してもらった。
これまでのロキソニンやボルタレンより強い鎮痛剤で、しかし医療用麻薬ほどは強くないトラマールという薬だ。
とくに腹部痛に効いてほしいと期待したのだが、さっそく飲んでみるとこれが効かない。
まったく効かないわけではないが、強い痛みは残る。
夜中も痛みで何度も目がさめてしまい、安眠できない。

薬についてはもう1度相談する必要があるようだ。
とにかく終末医療としては、痛みのケアが最優先だ。
痛みのコントロールができないと毎日の生活・活動のクオリティがいちじるしく減退する。
私にとってはここがもっとも大切なところだ。

映像作品「私は線だった」(by 山舗恭子)に曲をつけた

名古屋の現代朗読ワークショップに何度か参加して、去年の「ラストステージ 事象の地平線」コンサートにも来てくれた山舗恭子さんの詩と絵画作品「わたしは線だった」"I was a vibration”に、オリジナル曲をつけさせてもらった。
いわゆる絵と音楽のコラボだ。
映像作家の松本尚基さんによって映像作品になり、YouTubeに公開されたので、紹介したい。

作品はこちら

現物の絵は横10メートル以上の細長いもので、スチル写真では表現するのが難しい。
私はそれを端からゆっくり見ながら、音をつけていった。

ピアノで演奏。
そこに多重録音でチェロの音、そしてエレクトリックピアノの音。
絵と同様に、シンプルと複雑さを同時に表現したかったのだが、うまくいっただろうか。
みなさん、どうぞ観て(聴いて)みてください。

2020年2月14日金曜日

だれかから大事にされること、そう感じること

ご本人にいうと「恥ずかしいから」と絶対に許可してくれないから、勝手に無断で書くことにする(写真もアップする)。

山形の韓氏意拳教練の高橋透先生から革細工の手作りポシェットをいただいた。
もちろん、
「ありがとうございます!」
なのだが、そんなことばを超えてあふれてくるものがあって、ちょっと胸がいっぱいになってしまった。

「さしあげたいものがある」
といわれて透先生と落ち合ったとき、私には、
「なにかいただいたとして、末期ガンの身としては長く使えないかもしれないから申し訳ないことになるかもしれない」
というもやもやした気持ちがちょっとあった。

革のポシェットをいただいたとき、
「これは使えば使うほどいい感じになってくるんですよ」
と、ご自分が使っておられるブックカバーを見せてくれた。
なるほど、手になじんで革に表情が出てきている。
革製品にはたしかにそういうところがある。

「すぐには死ねませんよ」
といわれて、私はなんともいえない気持ちになったのだ。
透先生は私の命ができれば長くつづくことを願いながらこれを作ってくれたのかもしれない。
私のなかには自分の命をさっぱりとあきらめるようなあっさりした気分が(たぶん自己防衛的に)生まれていたが、ポシェットをいただいて、しかられ、また励まされた気持ちになった。

そんなふうに私のことを思ってくれる人がいる。
この半年、そういう人がたくさんいることを知った。
健康回復をねがって食品や器具や本をくれた人たち、自分ができるケアをしてくれる人たち、思いやりをもって世話をしてくれている身近な人、ただ祈ってくれる人……
なかにはこわくて声もかけられない、私が書いたものを読むこともできない、近づくこともできない人もいるかもしれない。

私のことを大事に思ってくれる人がいて、それはたぶん私がこの世からいなくなったとしても変わらず私を思うに違いない。
私が生きていようが、いなくなろうが、その思いは(すくなくともしばらくは)消えない。
私の存在をこえてだれかの思いがあるということだ。
そうかんがえると、死という一種の境界線が影を薄くしていくような気になる。

いまこの瞬間、私がこのような時間をすごせていることを、本当にありがたく幸せだと感じている。
これを書いている私の横には、昨日透先生からいただいたばかりの革のポシェットがある。

2020年2月13日木曜日

朝のルーティンと今朝のこと

今日も生きている。
なんて書いてみたけど、朝、パッと目がさめて、「生きてる」と思うわけじゃない。
夜中になんども目がさめる。
痛みと尿意が交互にやってきて、ほぼ2時間おきの覚醒。
だから、朝もずるずるとやってくる。
痛みで寝ていられないので、うっすらと明るくなりはじめる6時には起きてしまう。

ラジオをつけてニュースを聴きながら、今日やることをチェック。
メールやSNSのコメントをチェック。

7時になったら外に出て、大学通りの〈高倉町珈琲店〉まで歩く。
距離にして500メートル強。
ひと月前くらいまではウォーキングとして大学通りを南下して谷保の近くまで歩いていたのだが、いまは珈琲店まで歩くのが限界。
痛みのコントロールがうまくできたら、また歩けるかもしれないとは思っている。

珈琲店ではモーニングサービスをたのみ、書きものをしたり、1日の計画を立てたり、編物をしたり。
常連の顔ぶれもすっかりおぼえた。

今日は昼すぎに多摩総合医療センターに行って、消化器外科と診療放射線科のそれぞれの担当医の診察を受ける予定。
痛み止めの薬をより強いものに変えてもらうことと、追加の放射線治療の可能性について相談してくる。

2020年2月12日水曜日

最も個人的なことが、最もクリエイティブ(アカデミー賞ボン・ジュノ監督)

先日、第92回アカデミー賞が発表され、韓国映画の「パラサイト」が作品賞を受賞して大きな話題となっている。

受賞時のボン・ジュノ監督のことばが印象的だった。
会場に来ていたマーティン・スコセッシ監督のことばを引用して、
「最も個人的なことが、最もクリエイティブなことだ」
という「パラサイト」製作のこころがけを語ったのだ。
それを聴いて、私はちょっとおどろくと同時に、うれしくなった。

マーティン・スコセッシは今期のアカデミー賞では「アイリッシュマン」が受賞候補にあがっていた。
これにかぎらず、これまで数多くの賞を取っているし、私も「タクシードライバー」以来のファンだ。
たしかに、スコセッシの映画には「個人的」なところがある。

彼のそのことばは知らなかったが、私も日ごろ似たようなことを、表現の仲間たちに伝えている。
小説塾である「ひよめき塾」でもしょっちゅういっている。

個人的な体験、個人的な身体から出てきたことばしか、普遍性を持つことはできない。

これは小説でも音楽でも朗読でも、すべての表現がそうであると私は思っている。
「パラサイト」は未見なので、近いうちにかならず機会を作って観てみたい。

2020年2月11日火曜日

(Manabi JAPAN)水城ゆう二十四節気七十二候ピアノ語り。「立春」

まなびジャパン(Manabi JAPAN)で「水城ゆう二十四節気七十二候ピアノ語り。」の配信がスタートしました。

太陰暦の時代、春夏秋冬それぞれを6つに分けて24等分し、その区切りと区切られた期間の季節を表すために作られた二十四節気。七十二候はそれをさらに3つの項に細分して季節の移ろいを表したものです。些細な兆しからいつしか劇的な変化を遂げていく日本の四季を、水城ゆうがピアノで表現します。

書き下ろしのショートエッセイも掲載されています。

アクセスはこちら

2020年2月10日月曜日

春野亭日乗 2月9日(日)ひよめき塾、知念さん迎撃特別編

このところの強い冬型の気圧配置と上空の寒気の流れこみで、冷えこみがつづいていたが、日中は日差しがあって、春野亭の2階は暖かくなる。
今日も一日、2階ですごした。
ちんたら編んでいたレッグウォーマーの半足がやっとできた。
あとはブログを書いたり、動画の準備をしたり。
たのまれている原稿もあって、急ぎで一本書きたいのだが、なかなか手がつけられずにいる。

夜は沖縄からひよめき塾の仲間の知念さんがやってくるというので、来れる人は来ようということになった。
石川月洛がまず到着。
完成した紙本の『HiYoMeKi Vol.7』を持ってきてくれた。
あと、編物やイラストを見せてもらったり。
ラップトップやタブレットに貼るイラストシールを作ってくれるようにお願いした。

船渡川広匡が栃木の遠方から来た。
酒が足りなさそうというので、駅前まで買いに出てくれた。
私はもはや一滴も飲まないが。

知念満二と春野さんが来た、沖縄から。
いろいろ差し入れを持ってきてくれた、庭で採れたパパイヤのシリシリとか。

ひよめきメンバーのまりりん、奥田浩二、下村健士も来て、19時すぎからいつものようにひよめき塾開講。
知念さんに会いにNVC仲間も来ていたので、ひよめき塾はリビング横の和室でおこなう。

今回のひよめき塾のお題は「宇宙遊泳」。
提出作品を順番に読みあわせ、いつものように講評・感想を交換する。
オンラインでやっていることと基本的に変わらないが、直接顔を合わせているとやはり安心感があって、遠慮のない意見がつぎつぎと出てくる。
これも、どんな意見もおたがいの思いやりと信頼があるという安心があればこそだろうか。

仕事が遅くなった三木義一も遅れて到着して、無事に合流。
いつものように21時すぎに終了、いちおう解散。
残った知念さんとNVC仲間とで、宴会。
野々宮に知念さんの短編をつぎつぎと朗読してもらって盛り上がる。

気がついたら日付が変わっていた。
楽しかったな。
知念さん、みなさん、はるばる来てくれてありがとう。
次回のお題は「魔法」。
遠方のかたはまたオンライン(現代の魔法)で。

2020年2月9日日曜日

リップノイズ(収録時のノイズ)を口先のテクニックで解決しない



朗読ゼミにはさまざまなニーズを持った人が参加しますが、ナレーション収録時にリップノイズがマイクに乗ってしまうという悩みを持った人が参加しました。

多くのかたが抱えている問題ですが、それについての解決策を、さまざまな角度から提案しています。
結局のところ、現代朗読でおこなっている身体表現の稽古にまさるものはないんですけどね。

国立でおこなっている現代朗読ゼミは朗読未経験のかたもふくめ、どなたも体験参加歓迎です。
くわしくはこちら

2020年2月8日土曜日

リップノイズは口先だけでは対策できない

できるだけSNS断捨離しようと思って、手をひろげてしまったいくつかから撤収をはかっている。
たとえば古くはmixi、最近ではInstagram。
Facebookも断捨離したいけど、こちらは知り合とのつながりがあって、すぐには切れなさそう。

Noteというサービスがあって、これはブログ記事をただ機械的にコピペしているだけなので切ってもいいなと思っているところだけど、今日の朗読ゼミにはNoteの記事を見たという人が参加してくれて、どこでなにが見られているかわからないと、ちょっと悩ましくなる。

それはともかく、Noteには「リップノイズ対策」の記事を掲載してある。
リップノイズといっても、声の仕事と関係のない人にはわからないだろうし、かつどうでもいいことだと思うけれど、ナレーションやアナウンスの仕事をしている人にはかなり切実な問題として立ちはだかっている。
ようするに、マイク収録するときに口の内外から発生するノイズ成分のことだ。
ぺちゃぺちゃ、ぴちぴち、ねちゃねちゃ、パチン、ピキン、ときにはコツンというような金属的なノイズもある。
一般的なオーディエンスはまったく気にしないし、そんなものが混じっていることに気づきもしないだろうが、きれいな音声収録では問題になる。

今日はそれが気になるという人がゼミに参加してくれたのだが、そもそも現代朗読ゼミではリップノイズを専門的にはあつかわない。
ただし、現代朗読の身体トレーニングがリップノイズ対策として大変有効に働くことはわかっている。

ここでくわしくは書かないが、ようするに身体の使い方の問題なのだ。
「身体」には身体全体の関連性をふくめ、姿勢、呼吸、発声、口中のスペースの問題、舌の柔軟性の問題まで、ひとつながりになっている。
どこか一部分だけ取りあげて問題解決をはかろうとしても、うまくいかない。
車のサスペンションがいかれてギシギシいっているのに、マフラーを交換してノイズを減らそうとするようなものだ。
そもそも車が老朽化しているなら、車全体を整備してやる必要がある。

そんなこんなで、ようするにいつもとおなじこと——現代朗読の基礎トレーニング——をおこなった。
やっているうちに自分の身体に気づき、みんなとの声の響きあいを味わい、読むことそのものがどんどん楽しくなっていく。
それによっていきいきとした身体でなにかを読めば、そのいきいきさは聴き手にも伝わり、リップノイズがどうのという問題はどうでもよくなる。
いや、リップノイズも相当軽減されているはずだ。

そんなことを伝えたり、実際に確認しながら、今日も楽しくやらせてもらった。
参加してくれたみなさんと進行をサポートしてくれた野々宮卯妙に感謝。

次回のゼミは2月22日(土)の予定だが、ひょっとして15日か16日にも臨時に開催するかもしれない。

2月22日:臨時朗読ゼミ(水城ゼミ)
ゼミ生が個人レッスンを受けるタイミングで臨時の現代朗読ゼミを開催します。身体表現あるいは音楽としての朗読を楽しみましょう。2月22(土)10時半から約2時間。

人にとっての幸せとはなにか

抽象的な問いであり、答えも人それぞれであり、また抽象的な答えになりがちだが、私なりに明確にしておきたい。

「幸せでない」と感じるのは、生命の危機、さまざまな社会的不安にさいなまれているときだろう。
人はまず、自分やまわりの人々が安全であり、また安心して生きていられることを望む。

自分や人々が過不足なく生きていく安全があり、安心できる環境にいるとき、人は幸せを感じるのかもしれない。
現代社会において、だれかから攻撃される心配もなく、経済的余裕もあり、健康で、やりがいのある仕事を持ち、だれに遠慮することなく自分の楽しみを追求する時間を持てる、そんな人は幸せなのかもしれない。

しかし、たとえば私のように死期の迫る末期ガンを抱え、日々痛みと対処する必要に迫られるような健康に問題がある人間は、幸せではないのだろうか。
思ったような仕事につけず、経済的にも苦しい生活を送っている人は、幸せではないのだろうか。
友だちも少なく、孤独な毎日をすごしているような人は、幸せではないのだろうか。

そういう人のなかにも、幸せな人はいるのではないか。
げんに私がそうであるように。

人には自分がこうありたいという望み(ロンギング)や、大切にしていること(ニーズ)がある。
それが満たされると安心できる。

たとえば、職場で自分の能力を発揮し、会社の経営に貢献することで、自分も安定した生活を送れたり、同僚と信頼しあえる関係を築くことで豊かなつながりのある人生を送れていると、幸せを感じるかもしれない。
しかし、それが満たされていないと不幸なのだろうか。

私はニーズが満たされている/満たされていないは、人の幸せとは関係がないとかんがえている(感じている)。
幸福感と関係があるのは、満たされていようがいまいが、そのニーズを自分が明確に把握しているかどうかだ。

上の例でいえば、まだ自分の能力が発揮できず、充分に貢献できていないとしても、自分には「能力を発揮して貢献したい」というニーズがある、それが明確になっていて、自分がいきいきと闊達な状態であるかどうかが重要だ。
ニーズが満たされていなくても、そのニーズを満たすために自分がどれだけいきいきと行動したり計画を立てたりできるかどうか。
ニーズを満たすためにどれだけ狙いすましたハンターのようになれるかどうか。
その状態こそが、人の幸せを左右するのではないだろうか。

私は末期ガンを抱え、日々痛みと闘っていて、そのこと自体は厳しいが、満たしたいニーズがあり、それを満たすために取れるあらゆる手段について虎視眈々と狙っている。
そのプロセスを日々味わい、楽しんでいる。
これが私にとって幸福な日々といわずしてなにをかいわんや、なのだ。

2020年2月7日金曜日

VLOG 2020.2.7 リュックサックの引っ越し



長年愛用していたShuleのリュックサックが、ジッパーの不具合で使いづらくなってきたので、あたらしいリュックサックに交換することにしました。

Shuleはスウェーデンのメーカーで「スールー」と呼んでいましたが、「スーリー」が正しいようです。

2020年2月6日木曜日

余命宣告がパワーになるという事実

古い情報だが、消化器外科の専門医や診療放射線科の医師の予告によれば、私の余命はあと2、3か月程度らしい。
去年の7月から8月にかけていくつかの病院で検査を受け、それぞれの医師からそのようにいわれている。
いまもその所見は変わらず、らしい。

もちろん医師たちも「あくまで可能性」と念を押していて、それより早く亡くなってしまう人もいれば、生きのびる人もいる。
つまり、はっきりとはわからない。
が、だれしも、「あと1年生きるのは厳しいですよ」といわれれば、ある種の感慨を持つだろう。

人は観念的動物なので、死というものをリアルな体感覚ではなく、想像や思考のなかにある観念的な概念としてとらえている。
たとえば「みんな死ぬ」ということは、全員がわかっている。
そのことを否定する人はいるかもしれないが、事実としてその人も死ぬ。

観念的概念というのは、石とか建築物とおなじで、固定されて動かない「モノ」のようなものだ。
しかし、死はモノではなく、たえず変化し動きつづける生命現象のひとつである。
鳥や空や風や森や海のように動きつづけ、変化しつづける現象だ。
もちろん、私たち人間もその現象の部分だ。
人という現象のなかに、死という現象も含まれている。

すべての人が、自分も死ぬとわかっているけれど、ではいつ死ぬのかということについては漠然としか「体感」していない。
いや、ほぼ「体感していない」といってもいいかもしれない。
私自身がそうだったから。

自分もいつかは死ぬ、でもいまじゃない。
明日死ぬかもしれない、でもいまじゃない。
来年は死んでるかもしれない、でも今日じゃない。
そうやってずるずると毎日を生きている。

医師から「来年のいまごろまでというのは厳しいかもしれません」といわれたとき、私のなかではじめて「死」というものが概念ではなく、実際に起こりうる現象としてじわじわと体感しはじめた。
もっと具体的にいえば、いまこの瞬間自分が生きているという実感とその現象が、リアルな体感覚して立ちあがってきたのだ。

死という現象を目視し感じたときに、生の現象がリアルにくっきりと立ちあがってくる。
そんな経験を、いまもしつづけている。

生という現象を——自分という現象を生きている私。
いまなにを感じ、なにが動いているのか。
楽しみも苦しみもさまざまに織りなしていくこの時間を、私はどうありたいのか。

いま私は、ガンが見つかる以前の時間より、おそらく数十倍の濃度の時間のなかを生きている。

2020年2月5日水曜日

Voice Of Water による「Sound of the Rain」ついに公開



夜になると調子が悪くなるのはガンを患って以来というわけではないが、最近はとくに顕著になっているのはやむをえない。

胸痛、胃痛からはじまったガン痛は、放射線治療がうまくいってほぼ消えたが、転移部位である下半身に痛みは移動した。
いまは腰痛と下腹部痛に悩まされていて、痛み止めも通常薬がそろそろ効かなくなりつつある。
今日はまた胸痛が再発して、ぐるっと回って振り出しにもどるというか、らせん形に下降していく加速度を感じる。

そんななか、海津賢が助っ人に来てくれた。
音響表現ユニット〈Voice Of Water〉は海津賢が私のためにプロデュースしてくれた。
私の作曲(というか即興演奏)、キーボード演奏と、海津賢のコンピューターオペレーション、演奏、野々宮卯妙の朗読によるスタジオワークで作られる楽曲と映像表現だ。
海津賢が私のステージⅣの食道ガンを知ったとき、このユニットワークを提案してくれた。
これほどありがたく幸せなことはないと思った。

国立の春野亭のスタディルームに何日か缶詰になって、一気に8曲作ったのだが、まさに幸せな時間だった。
ライブではないスタジオ仕事として、音楽的にやってみたいと思ったことは全部やってみることができた。
海津賢のサポートがなければ決して実現しないことだった。

そのうちの一曲「Sound of the Rain」を、ミュージックビデオとして公開することになった。
私がぐずぐずやっていた動画編集を、これもまた最後に海津賢が助っ人に駆けつけてくれて、仕上げることができた。
私の命の表現のひとつとして、観て(聴いて)もらえるとうれしい。

春野亭日乗 2月4日(火)座薬の鎮痛剤、ピアノ七十二候リメイク、共感手帳術の仲間

腹部大動脈脇のリンパ節へのガン転移と関係があるのかないのか、何か月もつづいている原因不明の腰痛はロキソニンという一般的な痛み止め薬で抑えられているのだが、年明けからこれもまた原因不明の下腹部痛に悩まされている。
こちらはロキソニンはあまり効かない(まったく効かないというわけではない)。
ガンの担当医にいっても、緩和ケアの医師に相談しても、どっちみち「治療しない」という選択をしているんだから原因を検査して突き止めたり、その結果手術したりするというようなことは現実的ではないといわれ、痛み止めのレベルアップをすすめられるばかりだ。
それはいいのだが、とにかく痛みは抑えたいので、そもそも食道ガンを見つけた近所の(かかりつけといってもいい)内科に行ってみた。

予想外にきちんと対応してくれて、丁寧な触診につづいて腹部エコー検査をやってくれた。
とくに悪い所見はないということで、腹部痛に有効な鎮痛剤を処方してくれた。
「ボルタレン(サポ)」という座薬で、調剤の女性がそれを出すときに、いきなり、
「石ですか?」
と訊いてきた。
石? それはなに? と思ったのだが、すぐに尿道結石など結石の痛み対策のことかとわかる。
結石の痛みは相当だと聞いたことがある。
ということは、かなり効き目の強い薬だということか。

自宅にもどって、さっそくお尻にプスッと挿入。
あはん。
いつ、なぜなのか忘れてしまったが、座薬は何度か経験があって、慣れていることを思いだした。

思ったより効かない。
が、まあひどい痛みは軽減される。
しかも持続時間が長いような気がする(短いと説明されたはずなのに)。
あまり頻繁に使えないので、投薬時間を工夫する必要がありそう。
もうすこし様子を見てみる。

付き合いのある編集プロダクションから、私のピアノ七十二候を某サイトでの暦企画とコラボしたいという打診が。
うれしい。
いくつかリメイクしたい音源があるが、まずはさっそく「春分」の最初の音源をリメイクして送ってみる。

夜は共感手帳術の仲間たちのオンラインミーティング。
Slackにうまくはいれずにいたあんなさんも、事前のオンラインサポートでうまくはいることができてよかった。
今回も楽しかったなあ。
このところ、「人に見せるための手帳」をつけるというワークをやっていて、提出された手帳を見ながらあれこれ話すのはとくに楽しかった。
それぞれの手帳愛が増大して、私も刺激を受けた。
これがコミュニティ型講座のいいところだ。
ご参加いただいたみなさん、ありがとう。

2020年2月3日月曜日

VLOG 2020.2.3 立川ららぽーと、ハンバーガー、旅愁、グリグリ



立川のららぽーとまでジーンズを買いに行ったついでに、ハンバーガーでランチ。

秋の曲ですが「旅愁」をちょっと演奏、CS60というマッサージ器でケアしてもらったときの映像と、トークをすこし。

春野亭日乗 2月2日(日)ダニーボーイのピアノ伴奏、グリグリ、ひよめき塾

午前中、VLOG収録ついでに久保木さんのオカリナ伴奏「ダニーボーイ」のキー違いを演奏収録する。
というか、演奏収録するついでにVLOGを作ったというか。
どっちだ。
どっちでもいいか。

ピアノに向かっていろいろ弾いたりしゃべったり、それを動画にとってあとで編集したりするの、だんだん慣れてきたし、楽しくなってる。

午後、ゼミ生のユウキさんがわざわざ来て、グリグリ(CS60)やってくれた。
ほんとありがたい。
激痛だけど、全身がリフレッシュされて元気になる。
グリグリの前はいっしょにランチ、駅前の〈自然薯庵〉で。
なんか開店時からメニューと味がだいぶ変わったような(気のせい?)。

夜はひよめき塾。
リアル参加はマリリンとのの。
ほかに知念さん、奥田くん、生惠さん、ふなっち、しーもん、ミキティ。
楽しくてついつい体調以上のことをして、あとで疲れてしまう。
テキスト講評は思ったより知力・体力を使うのだ。

私が帰省しているあいだにつきみんが『HiYoMeKi No.7』の紙本の見本を送ってくれていた。
なかなかよい出来。
電子本はアマゾンからダウンロードできるので、みなさん読んでね。
私の命の表現のひとつ!

◎『ひよめき第7号』Kindle版、ダウンロードはこちら

2020年2月2日日曜日

VLOG 2020.2.2 オカリナ伴奏用「ダニーボーイ」キーを変えてリテイク



鹿児島のオカリナ牧師・久保木聡さんのために、「ダニーボーイ」もしくは「ロンドンデリー・エア」と呼ばれる曲のピアノ伴奏を、キーを変えてとりなおしました。


2020年2月1日土曜日

VLOG 2020.2.1 ドライブ、越前奥越地方から白鳥、岐阜を越えて中央道へ



福井県越前奥越地方から東京国立まで車で移動しました。

大野市、和泉村(九頭竜湖)を越えて、白鳥から東海北陸道に。
郡上、美濃から東海環状道を通過して中央道へ。
太平洋側は好天で、八ヶ岳や富士山がきれいに見えました。

春野亭日乗 1月30日(木)ひよめき講評、国会中継

こちら北陸、今週はずっと天気が悪い。
季節的にはふつう、多かれ少なかれ積雪があるはずが、今年はまったくない。
ずっと雨が降ったりやんだりしている。
低い雲が垂れこめて強く降ったり、急に晴れ間が出たりする。
雨雲レーダーを見ると、典型的な冬型になっているようだ。
気温が低ければ雪になっているところだ。

朝からひよめき塾の作品講評書き。
ひよめき塾は月に2、3回のミーティングをおこなって、そこで作品講評もするけれど、提出分全部をすべて講評はできない。
取りあげる作品は毎回、3作品くらいをくじびきで決める。
それに漏れた作品については、後日、時間と余裕があるときに私が通読して、みじかい講評を書くことにしている。
これは全作品につけるようにしている。

今日は前回のテーマ「元服」にちなんだ作品を読む。
いずれもみじかい作品だが、講評書きのために読みこむには長短はあまり関係ない。

講評を書いたり、編物で気分転換したりしながら、ラジオで国会予算委員会の中継を聴く。
聴けば聴くほどいらいらする。
もし安倍首相が自分の潔白を証明したいと思うなら、領収書やら名簿の開示に積極的に応じるだろう。
関係者たちに自分の潔白を示す物証を集めさせるだろう。
それをしない、できないというのは、潔白ではない、なにか隠したいことがある、という論理的帰結がある。
ただそれだけのことだ。
つまり安倍は論理的に法的なクロ。