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2020年2月6日木曜日

余命宣告がパワーになるという事実

古い情報だが、消化器外科の専門医や診療放射線科の医師の予告によれば、私の余命はあと2、3か月程度らしい。
去年の7月から8月にかけていくつかの病院で検査を受け、それぞれの医師からそのようにいわれている。
いまもその所見は変わらず、らしい。

もちろん医師たちも「あくまで可能性」と念を押していて、それより早く亡くなってしまう人もいれば、生きのびる人もいる。
つまり、はっきりとはわからない。
が、だれしも、「あと1年生きるのは厳しいですよ」といわれれば、ある種の感慨を持つだろう。

人は観念的動物なので、死というものをリアルな体感覚ではなく、想像や思考のなかにある観念的な概念としてとらえている。
たとえば「みんな死ぬ」ということは、全員がわかっている。
そのことを否定する人はいるかもしれないが、事実としてその人も死ぬ。

観念的概念というのは、石とか建築物とおなじで、固定されて動かない「モノ」のようなものだ。
しかし、死はモノではなく、たえず変化し動きつづける生命現象のひとつである。
鳥や空や風や森や海のように動きつづけ、変化しつづける現象だ。
もちろん、私たち人間もその現象の部分だ。
人という現象のなかに、死という現象も含まれている。

すべての人が、自分も死ぬとわかっているけれど、ではいつ死ぬのかということについては漠然としか「体感」していない。
いや、ほぼ「体感していない」といってもいいかもしれない。
私自身がそうだったから。

自分もいつかは死ぬ、でもいまじゃない。
明日死ぬかもしれない、でもいまじゃない。
来年は死んでるかもしれない、でも今日じゃない。
そうやってずるずると毎日を生きている。

医師から「来年のいまごろまでというのは厳しいかもしれません」といわれたとき、私のなかではじめて「死」というものが概念ではなく、実際に起こりうる現象としてじわじわと体感しはじめた。
もっと具体的にいえば、いまこの瞬間自分が生きているという実感とその現象が、リアルな体感覚して立ちあがってきたのだ。

死という現象を目視し感じたときに、生の現象がリアルにくっきりと立ちあがってくる。
そんな経験を、いまもしつづけている。

生という現象を——自分という現象を生きている私。
いまなにを感じ、なにが動いているのか。
楽しみも苦しみもさまざまに織りなしていくこの時間を、私はどうありたいのか。

いま私は、ガンが見つかる以前の時間より、おそらく数十倍の濃度の時間のなかを生きている。