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2019年12月19日木曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(17))

(写真:KYOKOさん)

12月5日はボイスセラピー講座、その夜から7日にかけての足かけ3日間は音読トレーナー養成講座合宿。
その7日の夜は現代朗読ゼミ。
8日は墨田区のジュニアリーダーの中高生約40名を対象に音読指導のワークショップ。

すこしあいて、12日は名古屋での「ラストステージ/事象の地平線」昼夜2公演。
13日は同会場で公開個人レッスン講座。
15日は知立演劇フェスティバルに小林佐椰伽ちゃんのサポート演奏で出演して、その夜に東京にもどってきた。

かなりのハードスケジュールがつづいた。
体調と相談しながら、なんとか乗りきることができた。
たくさんのみなさんと交流できたし、やりたいこと/やっておきたいことをしっかりとこなすことができた。
抗ガン剤の治療をパスしてきたが、もし抗ガン剤治療を受けていたらとてもこれだけの活動はできなかっただろう。
そもそもピアノが弾けなくなっていただろう。
とても満足している。

■東京に呼ばれる

徳間書店の文芸書籍編集部から来た連絡によれば、私の原稿を読んで長編小説出版と商業作家デビューさせる可能性を感じてさっそく連絡を取ろうとしたという。
ところが原稿に付けられていた連絡先に連絡しても、いっこうに連絡が取れない。
住所をあたっても別人が住んでいる。
それはそうだろう、私はすでに何年も前に京都を引きはらってしまっていたのだから。

書かれていた電話番号はファクスにつながってしまう。
そこでファクスに事情を書いて連絡を求めたが、いっこうに要領をえない返事しかもどってこない。
私が京都で使っていた電話は、すでにどこかの会社のファクス番号として使われていたらしいのだ。
当時は(いまでもそうか)電話を移転すると、おなじ管局内でないかぎり、電話番号は地域の局の番号に変わってしまった。

困った編集者は、私の原稿の末尾に付けられていた略歴を調べた。
もともと新人賞に応募しようと思って書きはじめた原稿だったので、規格外の長さになってしまっても新人賞の募集要項にそった略歴のようなものを書きそえておいたのだ。
たぶん、出身地と戸籍名が書いてあったと思う。

まだ家電が主流の時代で、個人の電話番号は「104」で調べることができた。
編集者は私の出身地と戸籍名をもとに、番号案内で私の移転電話番号にたどりつくことができた。

あとで聞いた話だが、私の原稿は投稿されたとき、編集者の机の上の「未決棚」に収められた。
未決棚には投稿原稿が封筒にはいったままずらっと縦にならんでいて、その幅は1メートルくらいあったという。
編集者は暇ができると、未読の投稿原稿を古い順から読んでいく。
ほとんどがそのまま投稿者に返却されていく。

私の原稿も未決棚の一番端からすこしずつ移動していって、1年半以上かかって編集者の目にはいることになった。
その編集者は今井さんという方だったが、私の原稿を読んですぐに編集長の石井さんにそれを見せた。
石井さんもびっくりして、急いで私に苦労しながら連絡をとったというわけだ。

とにかく一度会いましょう、ということになり、私は喜びいさんで東京に行くことになった。
いまでも新幹線が新横浜から東京駅に進入していったときの、東京の街並みの感触を、はっきりとおぼえている。
まだ新幹線は品川駅に停まらなかった。

東京駅から山手線に乗り、新橋駅の烏森口で今井さんに出迎えられたときのことも鮮明におぼえている。
いまはなき徳間書店の旧社屋のことも忘れられない。
この社屋はジブリ映画の『コクリコ坂』に詳細に再現されて出てきたので、ちょっとびっくりした。