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2019年11月12日火曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(7))

■小説を原稿用紙に書き移す

そのころ——高校生のころ——からなんとなく、鑑賞者の立場から「作り手」側の視点を意識するようになっていったと思う。
音楽にしても小説にしても、
「これはどのように作られているのか」
ということに興味を持つようになっていったのだ。

最初に興味を持ったのは音楽だった。
ブラスバンド部に一時的にでも所属していた経験が、吹奏楽団や交響楽団の全体のサウンドがどのような「パート」の組み合わせでできているのかに興味を向けることになったのかもしれない。
ベートーベンやチャイコフスキーの交響曲や、ビバルディの弦楽曲のスコア(総譜)の縮刷版を買ってきて、レコードを聴きながらそれを読むことがおもしろかった。
多くの楽器やパートが複雑にからみあって壮大な、あるいは繊細なサウンドを織りあげている、その作曲家の技に魅了された。

小説もそうで、「どのように書かれているか」に興味が向かった。
あるとき、まるごと1本、小説を原稿用紙に書きうつしてみようと思った。
といっても、長編小説だと大変なので、短編小説だ。
たしか、小松左京のとても文学的な短編シリーズの「日本女シリーズ」の一篇だったように記憶している。
それを頭から丸ごと、原稿用紙に、改行、字下げ、ルビ、句読点をふくめ、そっくりそのまま書きうつしてみた。

原稿用紙にして80枚とか100枚とか、そんな分量だったと思う。
ちょっと色っぽいシーンもあったりして、楽しんで書きうつした。
この経験はのちに自分が小説を書くようになって、大変役のたった。

■大学受験に失敗する

畑正憲やコンラート・ローレンツの随筆、日高敏高、今西錦司らの動物の本に強い影響を受けた私は、進学進路を京大の理学部動物学科しかないと決めていた。
子どものころから小動物が好きだったし、熱帯や亜熱帯でのフィールドワークにぜひ行ってみたい、自分もそんな研究をしてみたいと思っていた。
高校の進学コースも理系だったので、理学部を受験するのは不自然ではなかった。

大学受験をするもうひとつの——というより最大の目的は、親から離れてひとり暮らしをしたい、ということだった。
私の両親はよく子どもをかわいがってくれて、いまとなっては私も感謝をしているが、とにかく過干渉だった。
教育熱心で、しかしそれは小学校くらいまでは許せるが、中高生になり独立心が生まれてくると、親の過干渉はうっとおしさしかなかった。

高校生くらいになると徹底的に反抗し、親がしろといったことは自分がやりたいことであったとしても意地でもやらない、してはならないということをわざとやる、というような態度を取った。
受験も京大一本ですべりめもなし、本人は絶対受かるつもりでいた。

しかし、結果はあえなく不合格。
数学で大きなミスをやらかし、合格点に足りなかったのだった。

浪人することになったのだが、とにかく親元を離れたかった私はへりくつをつけて京都にある駿河台予備校に通うことになった。
親も「勉強してくれるなら」とあきらめたのだろう、その選択をしぶしぶ受け入れた。

予備校にも入学試験があり、それも失敗するかとドキドキだったが、なんとかパスして、京都に下宿することになった。
駿河台予備校はそのころ、出町柳の近くにあった。
予備校の斡旋でいくつか下宿先を探して、東山二条・岡崎にある学生下宿に決まった。

とにかく親から離れるのがうれしくて、また田舎から出てきた若輩者には誘惑が山ほどあり、受験勉強どころではない生活が4月からうきうきとはじまったのだった。

■京都で下宿生活

私が下宿した東山二条・岡崎という立地は、かなり魅力的・誘惑的だった。
近くに平安神宮、東山動物園、京都市立美術館、京都会館などが集まっている。
二条通りを西に歩いて鴨川を渡れば、商業的メインストリートといってもいい河原町通りがすぐだ。
河原町を南に下れば、三条、四条と繁華街に出られるし、北に上がれば京都御所や同志社大学のわきを通って下鴨神社がある。

二条より一本北側の丸太町通りもいろいろな店があって、とくにライブハウスが魅力的だった。
4月に下宿生活がスタートして何日めかの夜、私は生まれて初めて、ジャズのライブハウスというものに行ってみた。