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2019年2月3日日曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(30)

豪徳寺の地下スタジオではじめたことのいくつかが、現在でも私のなかで重要なポジションを占めている。
ひとつがまずは、表現における身体についてのさまざまなアプローチだ。

朗読研究会を進めていく上での最初の気づきとして、プロのナレーターやアナウンサー、声優たちの朗読が、きれいで正しくはあるけれどなぜこれほどまでにつまらないのだろう、ということがあったり
つまらないし、心が動かされない。
しかし、たまにやってくる、まったくのド素人の朗読が、下手だけれど妙に心を動かされることがあった。

なにが違うのだろう。
それをかんがえていると、声と身体という問題に行き着いた。
テクニックを駆使して読まれる朗読表現は、薄っぺらく躍動感がない。
上手だけど、命が感じられない。

下手だけど、懸命に全身で表現しようとしている人は、生命の多様性に満ちている。

結局、朗読というのはテキストを読みあげる行為ではあるが、同時に声と呼吸、さらには姿勢、全身を使っておこなう身体表現でもあるのだ。
身体が生きている人は声もいきいきしている。
身体が抜けている人は、テクニックでカバーしていてもそれは命の表現として形骸化されたものになっている。

それをいうなら、そもそもすべての表現は身体あってのものだ。
音楽もそうで、私もピアノを弾くとき、身体が生きているのと、手先だけでテクニックをろうして演奏するのとでは、まるでちがうものになる。
朗読もおなじことだ。

私は朗読講座に身体研究を持ちこむことにした。
外部から講師を呼ぶことも決めた。
それはアレクサンダーテクニークという身体ワークの専門家で、その教師になったばかりの若者を知り合いから紹介してもらった。
やってきたのは安納献という、まだ30に手が届いていない若い教師だった。