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2019年1月12日土曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(11)

そんなふうにして、私はけっこうすんなりと京都のバンドマン、ミュージシャンの仲間入りをした。
1980年になる前のことで、22歳ころのことだ。
バーテンダーのアルバイトはしばらく続けていたが、やがてバンド活動専門にシフトしていった。

京都のバンドマンは大阪方面の同業者ともゆるやかなつながりがあったが、基本的はそれぞれの「縄張り」を維持していた。

バンドマンはさまざまだった。
ジャズ志向の強いもの、ロック志向の強いもの、ほかにもリズムアンドブルース専門の人たちもいた。
ライブ志向の強いもの、メジャー志向のもの、あるいは商売・仕事と徹していて、毎晩のハコまわりやパーティーなどでの演奏以外には興味はないものもいた。

私のバンドはメジャー志向というわけではなかったが、ライブをどんどんやりたくて、オリジナリティを追求していた。
そのためには自分がまったく演奏者として腕がないことを、私は痛感していた。
だから、使える時間の大部分は音楽を聴いたり、研究したり、練習することに費やした。

ライブ志向のミュージシャンが集まって、臨時のバンドを結成することもあった。
私もその端っこに加えてもらうことがあった。
大きめのバンドのこともあったし、カルテットやトリオのような小編成のこともあった。

大きめのバンドでは、ロバータ・フラック、アレサ・フランクリン、スティービー・ワンダー、チャカ・カーンといった、ブラックコンテンポラリーをカバーするものにも参加したことがある。
そのために最新のシンセサイザーを借金して買ったりもした。
そのバンドは当時はやりはじめて京都にもいくつかできたディスコで演奏したこともあった。
ジャズとは共通する部分もある音楽だったが、なによりリズムが違っていたし、電子音を多用するのもあたらしかった。

コンサートも聴きに行った。
アース・ウインド・アンド・ファイアも来たし、スティービーやチャカ・カーンにも行った。

コンサートはもちろん、ブラック・コンテンポラリーだけでなく、ジャズ界の大物ミュージシャンもかなり積極的に聴きにいった。