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2017年2月8日水曜日

身体文章塾の隠された野望

この2月からいよいよ「身体文章塾」がスタートしました。
クローズドメンバーの勉強会ですが、どなたも参加することができます。
ただ、いきなりメンバーになるのではなく、まずは月一回開催している「自分につながるテキストライティング・ワークショップ」に参加してみてください。
というのも、身体文章塾にはあるねらいと方向性があるからです。

いわゆる一般的な小説講座とか文章講座とはちがいます。
私も講師をつとめたことがあるんですが、そういう講座は小説や文章が「うまくなる」ことをめざします。
「人に読んでもらうための文章」
もっといえば、
「人から評価をもらえる文章」
「お金になる小説」
というようなことをめざします。
身体文章塾や「自分につながる……」では、そういうものはまったくめざしません。

「自分につながる」ということばにもあるように、自分自身との対話としての執筆行為を試みます。
なにかを書くというのは、人にどう思われるかという外部評価から離れて、自分自身の内側を観察することに使える行為です。
そういう意味では瞑想に似ているともいえます。
ただ、瞑想とちがってことばを探すので、より社会性に近づきつつ、しかし自分自身の生命の現象をもとらえていく、ということになります。
これがむずかしくも楽しいのです。

まあ、こういうことは実際に参加してもらって、いっしょにあれこれやってもらわなければ、ここでいくらたくさん書いて説明しても伝えられるものではありません。

ところで、私には身体文章塾でやってみたいひそかな野望があります。
それは表には掲げていないんですが、ここにちょっと書いてみます。

共感的コミュニケーション(NVC)では、トレーナーをはじめだれに聞いても(もちろん私に聞いても)、メールやメッセージで相手と共感的につながることについては否定的な見解しか返ってきません。
コミュニケーションというのは文字やことばだけでなく、膨大な非言語的情報をわれわれはやりとりしていて、それは生身の人間が対面して接しているときにおこるのだ、という認識があるからです。
実際、私もそのような実感がありますし、だれかがメールで相手とつながろうとしているのを見ると、「やめたほうがいい」と忠告するでしょう。

それはそうなんですが、最近はちょっと見方を変えて、メールやメッセージなどテキストでも「共感についてできること」があるんじゃないか、と思いはじめています。

フェイスブックやツイッターをながめていると、さまざまなテキストメッセージが流れてきます。
そしてやりとりもされています。
なかには暴力的なメッセージのやりとりもあります。
そこまでいわなくても、お互いに誇示したり、評価・判断したり、要求したりといった、共感的コミュニケーションの世界では「非共感的」といわれる表現があふれています。
多くの人がせっかく便利なコミュニケーションツールを使っていながら、つながりを感じられなかったり、不安な気持ちにさせられています。

しかし、これらひとつひとつのメッセージにもかならず、その人が大切にしていることがその背後にあるのです。
なにか伝えたくて、しかし共感的表現を知らなかったり、共感的に翻訳して受け取る技術がなかったりして、うまくいっていないのです。

テキストの世界に共感的コミュニケーションのスキルを持ちこんだらどうなるだろうか。
全面的には無理かもしれないけれど、テキストならではのやれることがあるんじゃないだろうか。
どんなメッセージも相手のニーズを推測して共感的なことばに翻訳して受け取り、そして共感的表現で返す、というような練習ができないものだろうか。

というようなことをかんがえています。
かんがえているだけでなく、やってみようと思っています。
こういうことに興味がある人、いますか?

自分とつながるテキストライティングWS(3.11)
いまの時代こそ表現の根本である「ことば」が重要であり、私たちは自分自身を語ることばを獲得する必要があります。それを模索するワークショップを3月11日(土)に国立で6時間にわたって、じっくりとおこないます。