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2014年7月28日月曜日

ダンス公演まさおか式「おどり良ければ全てよし」を観てきた

2014年7月27日。
横浜のSTスポットまで、政岡由衣子と佐々木崇仁のダンスカンパニー(だよね?)「まさおか式」の旗揚げ公演「おどり良ければ全てよし」を観に行ってきた。

猛暑。渋谷から東横線を乗り継いで、横浜駅まで行く。
日曜日のせいか、横浜駅は観光客やら買い物客やらなにやらららら、で、人がわんさか、かいくぐってなんとかSTスポットにたどりつく。
会場はそっけない真四角な空間で、なにもないダンススペースが真っ白に作ってあり、片方にひな壇を作って客を詰めこむ形。
こちら側に詰めこまれた客たちは、あちら側で起こるできごとを目撃する。

踊り手は3人。
政岡さんは振り付けのみで、出演はしない。
当人は会場入口に張りついていて、来場者にもれなくご挨拶していた。

会場が暗転し、照明がつくと、3名の踊り手が登場していて、まずは無言でダンスがはじまった。
コンテンポラリーだ。
なんでもあり、というのがコンテンポラリーだと思うのだが、コンテンポラリーダンスにはなぜかコンテンポラリーダンスっぽい感じ、というのがあって、これも馴染みのある感触ではじまった。
そのことに軽く失望をおぼえていたのだが、観ているうちに、ところどころ「まさおか式」であろうかオリジナルな感触が立ちあらわれては消え、おっと思う。
「まさおか式」の感触というのは、私にはなんだかざらっとした、野生を思わせる手触りがあって、ときに凶暴、ときに暴力的、ときに深い悲しみや苦しい感情がかいま見えるものだ。
こちらのなかにあるおなじようなものに、素手で触れてこられるような感触がある。

前半はそんなふうに、馴染みのある感じと、いくらかまじるオリジナリティを、まだ余裕をもって観賞していられたのだが、ちょうどまんなかあたり、3人が小刻みに揺れてシンクロし、垂直震動のなかからときおり鋭い(あるいはスローな)動きを見せはじめたあたりから、大きな渦巻く力のようなものを感じはじめた。
そこからラストまで一気に流れるシーケンスが圧倒的だった。
こちらは大きな渦にいやおうなくのみこまれ、どんどん「まさおか式」の中心部へと引きこまれていってしまう。
これでもかとダンサーの肉体を酷使し、前半にかいま見えた凶暴なものやさまざまな感情が露出されていく。

ダンサーたちもすばらしい踊り手だった。
女性ふたり、男性ひとり、それぞれ個性があって雰囲気はちがうのだが、いずれも非常に鍛えあげられていて、身体精度が緻密だ。
見応えがある。

前半がなんとなく助走的にゆるく、後半にむかって駆け抜けるような構成になっていたのは、作っていったらそのようになったのか、あるいは最初から意図的にそのように作ったのか、政岡さんに直接聞いてみたくなった。
そしてもうひとつ聞いてみたいのは、音楽のあつかいだ。
これは私がどんな舞台でもいつもしつこくいっていて、人によっては「またか」と眉をしかめるのかもしれないが、生身の人間がそこに存在し表現しているのに、音が「仕込み」というのはどんなもんだろう、という違和感が常にある。
いっそ、「なし」でもいいのではないか。
あるいは音も「生」にできないのか。
ダンサーたちが立てる音、呼吸、声、そういったものは充分に「生」の「音楽」としてそこに存在しているように思うのだが、そこに「仕込み」の音がかぶさってくることに、私はどうしても違和感をおぼえてしまうのだ。
そのあたりについての「まさおか式」のかんがえを知りたいと思った。

いずれにしても、濃密な60分間、大変楽しませてもらった。
そして刺激を受けた。
私のやっている表現にもなにか突きささってくるようなものがあり、いいものを見せてもらったことに感謝したい。
当然のことながら、次回公演も大変楽しみなのだ。