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2014年6月5日木曜日

朗読表現と体認

「朗読は身体表現である」とはずっといいつづけていることである。
私は朗読者ではなく、朗読を演出する側であるが、ピアノ弾きという音声(音楽)表現者でもある。
ピアノを弾くとき、指先だけで弾く人はいない。
すぐれた音楽表現者なら、ピアノに限らず、全身をともなった「運動」としての演奏があるだろう。
ところが、朗読の世界では「全身をともなった運動」としての朗読をおこなっている人にはなかなかお目にかかれない。

なにも身体を動かしながら読め、といっているわけではない。
そうではなく、音楽演奏もそうだが、朗読する場合も全身が「動いている」のだ。
椅子にすわってじっとしているように見えても、じつは全身が動いている。
動いてしまっている、といってもいいかもしれない。
そのことにたいして、あまりに無自覚な人が多い。

朗読するとき、自分の身体がどのように動き、反応し、変化しつづけているのか、それを精細に感受しながら読むのと、自己の身体性に無自覚のまま読むのとでは、表現のクオリティはまったく異なってくる。
説明するまでもない。

現代朗読では武術から借りてきた「体認」ということばを使っている。
呼吸し発声する朗読という行為に全身が参加し、刻一刻と変化している現象を緻密に感受しながら表現する。
これを体認朗読と呼んでいる。
体認朗読はまさに、自分自身の生命現象そのものに触れていく行為なのである。

体認の稽古をするようになって朗読が劇的に変化した者が何人もいる。
私自身、体認によって自分のピアノ演奏が劇的に変わったと感じている。
朗読がテキストのたんなる伝達行為ではなく、自分自身のいきいきと変化しつづける生命現象そのものの発露である表現にまで高まることを、私はのぞんでいる。
そしてそれは特別なことではなく、だれでもそこにいたり、楽しむことができることなのだ。

それらを体験できる朗読体験講座が今週末6月7日(土)の午後、世田谷・羽根木の家で開催されます。
詳細と申し込みはこちら。
⇒ http://www.roudoku.org/ws/trial1406