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2013年8月6日火曜日

決められない人、決めたくない人

レストランなどに行ってメニューを前に、なかなか注文を決められない人がいる。
それは人生を左右するようなことではないが、もっと重要な決断の場面で悩んでしまう人もいる。
たとえば、仕事をやめようか、つづけようか、という決断で悩んでしまう。
結婚しようか、あるいはやめようか、離婚しようかこのままでいようか、そんな決断の前で立ちつくしてしまう。

そういう人がそんな場面でしばしばもらす言葉がある。
「ねえ、どっちがいいと思う?」
自分で決めかねているとき、人に判断をゆだねようとする。
人に決めてもらったほうが楽だからだ。
人に決めてもらうほかにも、いろいろなことで決めようとする。

たとえば、経済的なことや外見的なこと。
結婚の場合、相手の年収がいくらか、学歴はどうか、身長は何センチか、どんなスポーツが得意なのか。
そのような自分の外側にある基準を適用して、判断をくだそうとする。
そんな人に私はききたい。
「あなたはどうしたいの?」

仕事の契約更新の期日が迫ってきて、契約を更新するかどうか迷っている人がいる。
いまの職場はなんとなく肌に合わなくてつらい。
ここであと何年か勤めるのかと思うとうんざりした気分になる。
かといって、やめてしまうのも不安だ。
またあらたに職を探さなければならないし、あたらしい職場がいまより快適かどうかはわからない。
さて、どうしよう。
あたし、どうすればいい? といって人に相談してみる。
「あなたはどうしたいの?」

しかし人はなかなか自分が本当はどうしたいのか、自分ではわからないものだ。
なぜわからないかというと、人間特有の大脳皮質という部分がおこなっている言語思考、論理思考、記憶、感情といったものが邪魔をして、判断をにぶらせているからだ。
「判断」というと論理的思考によって合理的に結論をくだす、という印象があるが、実はちがう。
人がおこなう思考は、社会的な抑圧、教育、損得勘定、からまった人間関係などによってこんがらかり、まるでこわれたコンピューターのようだ。
一方、無意識部分でおこなっている思考やイメージ展開(これは自分では見えない)、そして身体と連動した超高性能並列処理コンピューターを、すべての人は持っている。
この部分に判断を任せられたら、なんの問題もない。
いわゆる「勘が働く」というのはこの状態のことをいう。

判断に迷ったら、まずは「なにも考えない」こと。
無意識と身体にまかせ、自分がどちらに行きたがっているのか、ただ受け取ってみる。
これはけっこう難しい。
自分の無意識と身体の声に耳を傾ける訓練を、まずほとんどの人はやったことがないからだ。
微細な情報と声を聞き取るセンサーが鈍りきっている。
しかし、それが働いたとき、人はなんのためらいもなく正しい判断に導かれる。

自分の無意識と身体の声に耳を傾けるための技法のひとつに、音読療法による呼吸法とマインドフルネス、そして共感的コミュニケーションがある。
この技法を身につければ、人生がどんどん楽しくなり、永遠に生きつづけたくなるだろう。

この音読療法を集中的に学べる3日間の合宿が、来週オリンピックセンターで開催される。
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