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2013年6月6日木曜日

朗読と「共演」するということ

現代朗読協会の体験講座やワークショップなどで「主宰者である私自身は朗読をしない」というと驚かれることが多いのだが、演出、そして共演者としておなじステージに立つことが多い。
げろきょの朗読者がやるときはもちろん、外部の朗読者からピアニストとして共演依頼を受けることもある。
たぶん、私ほど朗読者との共演が多い演奏家はほかにいないと思う。
しかも「伴奏」ではなく「共演」という立場でやる。
依頼を受けるときも、そのことを理解いただいた上で受けるし、私に依頼する人は最初からそのことをわかっているだろう。

共演というのは、ピアニストとして朗読者とおなじステージに立つ、ということだけではなく、演出として関わる、ということも意味している。
朗読演出をやる人は何人かはいると思うが、私の場合は現代朗読の演出家としてかかわる。
それは、演出としてのこちらのイメージを一方的に押しつけるのではなく、本人すら気付いていない朗読者の資質や魅力を引きだし、マインドフルな状態で即興的に読めることの楽しさに気付いてもらう、という方法をとる。
その場合、私の側に「こう読んでほしい」というものは一切ない。
「どう読みたいのか」「どう読めるのか」「どんな読みになるのか」という問いを立てつづけることが、私の演出法だ。

その上で、おなじステージに立つ。
ピアノを弾く私にとって、あらかじめ企まれたものは最小限しかなく、また朗読者がどのように来るのかも予想できない。
なにしろそのように演出しているわけだから。
フリージャズのセッションのように、おたがいにあらかじめ企んだものを一切捨て、「いまここ」のマインドフルな自分で瞬間瞬間を大切にとらえていく。
なにが起こるかは私にも、共演者にも、そしてオーディエンスにも予想はつかない。

もっとも数多い共演のチャンスを持っているのは、最近では現代朗読の野々宮卯妙だろう。
かつては榊原忠美と多くのセッションを持っていたが、なにしろ名古屋在住なのでそうそう頻繁に共演はできない。
ほかにもしばしば共演していた朗読者は何人かいるが、残念なことに遠方だったり離れていったりした者もいる。

しかし、現代朗読のメンバーがたくさんいて、共演のチャンスは野々宮以外にもたくさんある。
最近のメンバーのなかには、自分でも朗読ライブをやりたいと思っていても、なんとなく気がひけたり遠慮したりしているような気がする。
そんな必要はまったくない。
共演依頼をいただくと、私はピアニストとしても演出家として自分の能力を発揮し、ともにステージを作る表現とつながりのニーズを満たすことができて、とてもうれしいのだ。
遠慮なく共演依頼をしてほしい。

明日の夜はまた野々宮卯妙と中野〈スウィートレイン〉で「ののみずライブ」をおこなう。
今回は野々宮は初朗読になる私のテキスト「記憶が高速を超えるとき」をやる予定だ。
また、最後のほうではゼミ生の山田みぞれにも参加してもらって、楽しくシメようと思っている。
もちろんどうなるのか、どんなことが起こるのかはまったく予想できない。
予測できないことが苦手な人はおいでにならないほうがいいだろう。
人生は偶有性に満ちたものであり、それを受容し楽しんでいる人においでいただきたいと思っている。
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