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2013年2月17日日曜日

「自分とのお祝い」と「自分へのご褒美」のちがい

photo credit: Tracy O via photopincc

「音読日めくり」というブログをちょうど一年間、毎日欠かさず書きつづけた。
これは私がオーガナイズしている音読療法について気軽に親しんでもらおうと思ってはじめたものだ。
毎日声を出して読んでもらうために、有名な文学作品の冒頭部分や童謡・唱歌の歌詞を引用してある。
ほかにスケッチや写真と、音読療法にかんする一口メモも毎日掲載する。
ちょっとしたブログ記事なのだが、一日も欠かさずに書きつづけるのはかなり根気とパワーの必要な仕事だった。

先日それがただの一日も欠落することなく連載が終了できたので、自分自身にたいしてお祝いすることにした。
近所の寿司屋に行って食事を楽しんできた。
これは一見、よくある「自分へのご褒美」に似ているが、心理的作用はまったくちがう。

「自分へのご褒美」は、それが「結果」にあたえられる分にはかまわないのだが、「事前」に設定された場合、あまりよくない作用をもたらす。
「音読日めくり」についていえば、私のニーズがまずあり、そのニーズにつながりつづけることができたからこそ欠かさずに連載をつづけられた。
その結果を自分自身で祝福したのだが、事前に「ご褒美」が設定されていた場合、どうなっただろうか。

一日も休むことなく連載を終えられたら寿司屋に行ってもよい、というご褒美を最初に設定しておく。
私はたぶん、寿司屋に行きたくて毎日せっせとブログを書くことだろう。
しかし、ある日、ご褒美の価値が目減りしてしまったらどうだろう。
たとえば、だれかから急に高級寿司店に誘われておごってもらえることになった、とか。
自分が設定してあったご褒美が思いがけず別のところから舞いこんできたとき、ご褒美がほしくて努力するという前提が崩れてしまう。
あるいは、あまりに努力することが大変で、ご褒美なんかもういらない、と思ってしまったとしたら?

仮にうまくご褒美の魅力が持続しつづけて無事に休まずに連載を終えることができたとしても、またなにかおなじように努力を必要とすることが出てきたとき、ご褒美を設定しなければ動けないという癖が身についてしまうかもしれない。

私が「音読日めくり」の連載をつづけることができたのは、ご褒美が設定してあったからではないし、ご褒美目当てでもなかった。
毎日、自分のニーズにつながりつづけることに成功したからだ。
人がなにかをやるとき、その動機としてただたんに「楽しい」とか、「夢中になってしまう」とか、「だれかに喜んでもらいたい」といった報酬を期待するのではなく、純粋な喜びや衝動でおこなえると、それはつよい力を持つ。
報酬をぶらさげられているからやる、というのは、とても弱い。
報酬システムが崩れたとき、その行動も消えてしまう。


「自分へのご褒美」が自分の行動の結果としての祝福であることが望ましい。
報酬が設定されていなければできない行動があるとしたら、それはたぶん「いやいや」やっていることであり、できればやらないほうがいいし、ひょっとしていやいややることで不幸な結果を招いてしまうこともあるかもしれない。
逆にいえば、自分の行動をチェックするとき、これはご褒美がなくても喜んでやれることなのか、ご褒美がないとやりたくないことなのか、とかんがえるとすっきりするだろう。