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2011年12月30日金曜日

多様性と芸術の役割についてかんがえてみた

教育行政においてお題目のように「個性尊重」「多様性重視」というようなことをいわれます。
 わざわざいわなくても、本来、人は多様性を持っているものです。
 子どもを見ればわかります。生れ落ちて成長するにしたがって、子どもはみんな個性的になっていきます。絵本やビデオなどおなじものを見ても反応はそれぞれ違うし、ゲームをしてもそれぞれが個性的です。まったく予測できないようなことをいったり、行動したりします。成長するにしたがってますます多様性をおびてきます。
 ところが幼稚園にはいったり小学校にはいるようになると、行動をそろえることを学習します。というより、学習させられるわけです。なぜなら、そうしないと管理者(先生ですね)が都合が悪いからです。みんなてんでばらばらの言動をしていたら管理できません。
 行動抑制を学習させるのは、直接的に管理者の都合があるからですが、さらに社会の都合もあります。職場や地域や国民国家において、みんなが勝手なことをしていたら管理できません。それぞれひとしく、法律を守り、税金を納め、管理者の都合のいいような投票行動をしてもらわなければなりません。
 資本主義社会においては、さらに全員にひとしく「消費」してもらわなければなりません。消費を拡大させ、不要なものまで買いこませ、そのための給料を稼ぐために馬車馬のように働いてもらわなければ、資本主義というシステムそのものが破綻するのです。
 これらは人間の思考と行動を抑制するためのシステムといってもいいでしょう。
 人は放っておけば多様に、ばらばらに、それぞれがイキイキと存在するはずが、抑制され、型にはめられ、システムのなかに押しこめられることで生気を失って生きています。

 芸術や表現活動は、これらのシステムに対する抵抗運動といいかえてもいいかもしれません。もしくは個人的な闘いです。
 自分のなかにある多様性を見つけなおすこと。自分本来のオリジナルな身体性と感受性にスポットをあてることで、システムの枠から自由になること。人々の多様性を認め、共感しあうことで、優位性を競ったり、批判しあったり、独占したりしないように生きること。
 表現においては注意深く自分が教育され背負いこんでしまっている社会システム的思考とふるまいに気づき、それをやめていくことが必要になります。それだけで表現はすばらしくなるのです。なぜなら、それができたとき、人はその人本来の個性的な存在となりうるからです。あとは音楽でも文学でも絵でもダンスでも、ただ自分を表現すればいいのです。