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2011年7月3日日曜日

現代朗読は朗読界の異端児なのか? いやそうではない

昨日の午後は「朗読はライブだ!」ワークショップ第七期の5回めだった。いよいよ今週末の土曜日は朗読ライブ本番だ。

昨日は見学の方がふたり見えた。
おひとりは、もう朗読を10年以上習っているというベテランの方だが、げろきょのワークショップでやっていることを見て、
「朗読教室で習っていたことと真逆!」
とびっくりされていた。
なにが真逆かというと、げろきょでは自分の外側になにか基準を作って、それらしく読もうとすることを注意深く排除する。例えば6歳の子どものセリフが出てきたとき、「6歳の子どもらしく」読もうとはしない。
その理由については、先日の日記「朗読でのセリフの扱い」のなかで書いたし、Podcast「RadioU」のなかでもそのときのゼミの模様をそのまま採録している。
簡単にいえば、外部から与えられたある典型(=記号化されたもの)をなぞろうとすると、自分自身が消えてしまうし、その表現はだれもが似通った薄っぺらなものになってしまう、という考え方だ。
世間一般の朗読教室では、その逆で、「らしく」やることを求められるという。子どもらしく、お年寄りらしく、紳士らしく。あるいは文章そのものも漱石らしく、芥川らしく、時代小説らしく、童話らしく、といった具合に。その「なぞる方法」をこと細かに教えられる。
なるほど。真逆である。

もうひとりの方はずっと音楽をやってこられて、朗読は一度もやったことがない。が、ちょっと興味を持ったので、一度見学に、と来られたのだった。
最初から最後まで目を丸くしておられた。
朗読がまさかこんな風に自由な表現とは知らなかった、こういう表現は初めて見た、というのだ。いや、それはげろきょだけですから。
しかし、朗読からあらゆる「足枷」をはずし、表現本来の自由で奥深い楽しみを追求している現代朗読が、異端であるとは思っていない。むしろ本質であるとすら思っている。

今期のライブワークショップのレギュラーメンバーは4人とコンパクトだが、この4人による夏目漱石の「夢十夜・第三夜」は非常におもしろく仕上がってきている。
彼らのほかに、ゼミ生も何人か参加して、今週末の7月9日(土)午後3時から、羽根木の家で朗読ライブが開催される。
無料で、どなたも観覧できます。どうぞお越しください。詳細はこちら