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2011年4月1日金曜日

ブログもメールも含めて文章を書くことで自分を伝えることについて

たまには震災とか原発事故とは関係のない話を。

学校の宿題とかレポートとかいうものではなく、私が意識して自発的にまとまった文章を書きはじめたのは、たぶん高校生くらいのことだったと思う。
いまの高校生とは違って、ノートや原稿用紙に手で書きつけるしかなく、またいまの高校生とは違ってそれを世間に広く発表する手段もなかった。
自分が書いたものを公的な場に発表するには、作文コンクールで入選するとか、文集に掲載されるとか、新聞や雑誌に投稿して採用されるとか、あるいは文学賞のようなものに入選するといった、敷居の高い方法しかなかった。
なので、高校、大学と進むうち、私のなかで「職業作家」になりたいという欲求が強まっていった。職業作家になれば好きなだけ文章を発表できると想像していたからだ。

いまの人たちは違う。いろいろな手段で自分の文章を公的に発表することができる。
たまに「文章を書くことで食えるようになるといい」という人がいるが、そういう人にはきちんと問いなおしたい。
「文章を書くことで自分を表現したいのか、文章を書くことで生活費を稼ぎたいのか」
これらは似てまったく非なるものである。それは私が痛いほど、多大なる犠牲を払って学び、実感している。

私は20代終わりに念願の職業作家になり、それで生活するようになったが、その生活は悲惨なものだった。なぜなら、私は「文章を書くことでお金を稼ぎたい」のではなく、「文章を書くことで自分を表現したい」あるいは「文章を書くことで自分のことを人に伝えたい」のだったからだ。

そうこうするうち、パソコン通信、つづいてインターネットが普及し、だれもが自分の書いたものを世間に向かって広く発表できるようになった。もはや出版社に認められる必要もなければ、本に印刷して出版してもらう必要もない。自由に発表したいときに好きなように発表すればいいのだ。読んでくれる人がいるかどうかは別の話だ。それは職業作家であっても別の話だ。
当然ながら、私は苦痛の多い「職業作家」を脱ぎすて、ネットで自由に文章を発表するようになった。食うことはできなくなったが、そのかわりストレスもゼロである。
毎日、思ったことを、思ったように発表している。

私のこのブログ記事は、毎日1000人以上の人が読んでくれている。
これはよく考えたらものすごいことで、1000人入る大ホールを毎日満席にして、そこで私の話を聞いてもらっているようなものだ。こんなにうれしいことはない。

ところで、明後日から「テキスト表現ゼミ」というものをスタートさせる。
経緯と内容詳細はこちら

私はかつて、あさはかにも、文章を書く行為は頭脳労働だと思いこんでいた。
音楽や朗読と関わるようになって、その考えは間違っていたことに気づいた。
ついでにいえば、文章書きを「肉体労働だ」といって身体を鍛える作家がいる。
そうではない。本当は文章を書くことも「身体表現」なのだ、ということについて、最近はずっと考えつづけている。
文章(テキスト)には書き手の身体性が乗る。あるいは身体性が乗っていない文章は、作り物であっても表現ではない。いま「読める」文章が少ないのは、みずからの身体性についての意識が希薄な書き手が多いからだ。
明後日からスタートするテキスト表現ゼミでは、そんなことをいっしょに深く考察しながら、実験・実践していきたい。特別な技術を持たなくても、すべての人がユニークでオリジナリティのある表現者になれる、というのが私の強固な持論である。