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2010年10月27日水曜日

ライブや公演の前に不安を感じることについて

12月10日と11日の二日にわたって、愛知芸術劇場小ホールにてウェルバ・アクトゥスの本公演がおこなわれる。一般参加者を募集し、公演のためのワークショップを何回かに分けておこない、最終的に公演を実施するというものだ。
いよいよ公演が近づいてきて、あと1か月とちょっとになった。
無理もないと思うが、一般の参加者のなかには「漠然とした不安」を覚えておられる方がいる。その不安はどこから来るものなのか、なにが不安なのか、なぜ不安なのか、について考えている。

参加者のひとりはこういう不安を教えてくれた。
「私のような素人でなにもできない者が、こんな立派な公演に出るなんて」
ちゃんとやれるかどうか不安でたまらないという。
また別の参加者は、
「皆さん声も出るし技術もあるのに、私は全然できない」
と不安がる。
いずれにしても、不安の原因は「自信のなさ」から来ることが多い。そしてその「自信のなさ」は、たいてい「他人と比較して」の空想上のものであったり、「自分の外側に評価基準を置いた」根拠のない妄想から来るものであることがほとんどだ。
「こんな下手な表現ではお金を払って来てくれるお客さんに申し訳ない」
「みんな上手なのに私だけが下手で申し訳ない」
こういう根拠のはっきりしない自己評価が、不安の原因となっている。しかし、自分の外側に判断基準を作ってしまうのはどうだろうか。

「表現行為」というものは、自分の外側の価値基準を満たすために行なうものではない。子どもがお絵描きを楽しむように、だれもが歌いたいときに歌うように、表現者は自分の内側からやってくるものに忠実であることが理想だ。
これを読んでみたい、これをみんなといっしょにやってみたい、だれかに伝えたい、という純粋な気持ちをすくいあげていくのは簡単ではない。それを現代朗読の方法を使ってウェルバ・アクトゥスという運動のなかで勉強しているのだ。
その結果として、もちろん「評価」されることはある。さまざまな側面から表現の結果に対して評価がくだされる。しかし、それはあくまで結果であって、人が私たちの表現をどう受け止めるかについて、あらかじめ予測することはできないし、責任も持てない。

経済至上主義の世界では「自分の表現に責任を持つ」考え方として、よくこのようにいわれる。
「3,000円の入場料に見合うだけのものをお客さんに持って帰っていただく」
しかし、そんなことの責任をどうやって取れるというのだろう。お客さんもさまざまだ。
私たちはただ、喜びをもって自分自身を表現し、共演者や観客と誠実にコミュニケートし、時間と空間を共有する。その結果そこになにが生まれるのかは、だれもあらかじめ予想することはできない。責任を持てるのは、自分自身のありようと誠実さだけだ。
表現とは、自分の外側のなにかを満たすためのものではなく、自分の内側にあるニーズの深いところに触れていく作業から出発し、幸福をゴールとするなにかなのだ。名古屋ウェルバ・アクトゥスの参加者もそのような姿で12月に登場するだろう。