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2010年5月12日水曜日

オーディオブックの真実 Vol.2

読者との交流もまめにやっていて、いただいたメールをメールマガジン内で紹介したり、コメントを返したりしていた。その様子を見ていたY氏がおもしろがってくれたようだ。私になにかいっしょにやりましょうといってきた。ちょうどその頃、i-mode携帯が出た。

私のやっているメールマガジンでの小説配信を、携帯電話向けにして、その末尾に広告をつけてはどうだろう、というアイディアがふたりで話し合われた。私はこのあたりからちょくちょく東京に出かけては、Y氏と新規事業の打ち合わせをするようになっていった。

アイディアがふくらんでいくにつれ、Y氏の力の入れようはかなりのものとなっていった。広告を掲載する飲食店などにも営業をかけ、クーポン広告を取ってきたり、街頭でのビラまき宣伝などもおこなうなど、新規事業としてもかなり本格的なものになっていった。

とうとうこの事業のための会社を作ることになった。資本金300万円の有限会社「アイ文庫」がこうやってスタートした。が、詳しい話ははしょるが、このケータイ広告事業はあっという間にうまくいかなくなり、アイ文庫の経営はたちまち行き詰まってしまった。

このとき、私はすでに福井から東京に仕事場を移していた。世田谷の豪徳寺にワンルームマンションを借り、仕事場兼住居としていた。ケータイ広告がうまくいかなかったとき、先にも書いたように私はラジオ番組の制作もおこなうようになっていた。

ラジオ番組の制作には福井時代からかなり関わっていた。FM福井という東京FM系列の地方局があり、そこでほぼ開局当初から番組の制作に関わっていたのだ。いわゆる放送作家というやつで、構成台本やナレーターが読むスクリプト(原稿)を書いたり、自分もときには出演した。

そんなわけでラジオ番組の作り方については熟知していたので、世田谷FMで番組制作の話が持ちあがったときはなんのためらいもなかった。世田谷FMはいわゆるコミュニティFMという、半分行政が出資する第三セクターのラジオ局で、阪神淡路大震災の後にたくさんできた。

フリーアナウンサーの高橋恵子さんといっしょに「ジューシー・ジャズカーゴ」というジャズ番組をやることになった。世田谷FMのスタジオがあいている時間を見つけて、高橋さんとふたりでトークをし、CDをかける。それをざっくりとMDで録音し、自宅に持ち帰って編集する。

MDウォークマンをコンピューターとつないで音を取りこみ、あとは音楽編集ソフトで編集。当時はWindowsマシンを使っていたので、編集ソフトはSONARだった。コンピューターのスペックがある程度必要だったが、自宅でラジオ番組が作れてしまうのは画期的だった。

「ジューシー・ジャズカーゴ」は55分番組だった。大半がジャズのCDを流し、新譜や名盤の紹介だったが、それだけだと間がもたない。というわけで、番組内コーナーを作ることになった。「ジューシー・ジャズストーリー」という朗読と音楽を組み合わせたコーナーだった。

朗読と音楽を組み合わせた番組はFM福井時代にも作っていたことがある。福井トヨタ提供の「EDアーバンクルージング」という番組で、そのときの朗読者は名古屋の俳優・榊原忠美氏だった。この番組の制作があまりに楽しかったので、世田谷FMでも似たことをやりたくなった。

「ジューシー・ジャズカーゴ」はスポンサーもつかず、完全に制作費持ち出し番組だったので、だれもギャラをもらえない。そこで高橋恵子さんに頼んで、声優学校の出身者で声優の卵をやっている若者を何人か紹介してもらい、原稿を朗読してもらうことになった。

ジャズの曲を聴き、それに触発されたストーリーを私が書く。曲を流しながら、その雰囲気で朗読してもらう。FM福井のときとおなじ方式だった。ところが、若手声優というせいもあったかもしれないが、読めないのだ。音楽やストーリーに乗せたしっかりとした読みができない。

FM福井ではあんなに自由に即興的に朗読と音楽がからんで楽しかった。こういうことは声優学校のような声の専門訓練を受けた者はだれでも軽々とやれるものだと思っていた。大きな間違いだった。榊原忠美氏がとてつもなく突出した表現者であることにようやく気付いたのだ。