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2010年5月12日水曜日

オーディオブックの真実 Vol.1

アイ文庫という小さな会社でオーディオブックを10年近くコツコツと作りつづけてきた朗読演出/プロデューサーの水城雄です。ゼロからスタートしたこの事業のマーケットもほとんど存在していなかった頃からの話を、できるかぎり誠実に真実を尽くして語りたいと思う。

会社といったが、アイ文庫は構成員が役員だけの小さな有限会社で、まったくの独立系だ。つまり、どこかの系列とか資本提供を受けていない、個人設立の法人という意味である。

もともとはi-modeケータイ電話の普及に乗ってテキスト系広告を配信する事業を展開するために、紙器加工と印刷業をやっていた人と水城がふたりで作った会社だが、ケータイ広告がうまくいかなくなり大手代理店が軒並み撤退するなどアイ文庫もすぐに立ち行かなくなった。

会社を閉めてしまうことも考えたが、テキスト配信事業と同時進行で世田谷FMでフリーアナウンサーの高橋恵子さんと「ジューシー・ジャズカーゴ」というジャズ番組を始めていて、そのときに高橋さんの紹介で若手声優が出入りしはじめていた。世田谷のマンションの一室だった。

FM番組「ジャズカーゴ」のなかにストーリーと音楽で構成するコーナーがあった。そのストーリーを若手の声優たちに読んでもらっていたのだが、ナレーションや吹き替えと違い、ストーリー朗読があまりにできないことが判明、じゃあ勉強会をしようということになった。

朗読の勉強会を始めてみると、朗読という表現行為においては実にさまざまなことを考えなければならないことがわかってきた。ちょっとあわてながらも、わくわくした。なにか知らないこと、あたらしいことに直面するというのは、私にとってとてもうれしいことだったからである。

このとき私は40歳をいくらか越えた年齢であった。ごく大雑把にいえば、20歳代のときには音楽を、30歳代のときには職業小説家として生活の糧を得てきたが、40歳に差しかかる頃にはすっかり商業出版の世界に嫌気がさしていた。すっかり疲れてしまったともいえる。

いまもそうだが、商業出版とは「良い本」を出すことよりも「売れる本」を出すことが目的の世界である。編集者は私の書いたものを「良い内容かどうか」ではなく「売れるかどうか」という価値基準でしか判断しない。さらに「売るために」と称してさまざまな改稿を要求してくる。

もともとは好きで始めた小説書き、もの書きである。20代の頃、前半は京都の祇園でバンドマンをやっていた。夜のステージまで持てあましていた時間を、好きな本を読んだり小説を書いたりしてすごしていた。20代後半は福井でピアノ教師をやりながら、やはりものを書いていた。

その小説がたまたま出版社(徳間書店)に売れ、単行本を出すことになり、そこから職業小説家としての生活がスタートしたのだ。最初のころは好きなことを好きなように書いていればよかった。が、そのころ(1980年代の終わりごろ)から出版界の構造不況がはじまったのだ。

小説、とくにノベルスという分野の本が売れなくなった。また、出版社の社員である編集者は高給であり、毎月何十万という給料をもらい、高級マンションに住み、高級車に乗っている。一方作家のほうは収入が逼迫し、生活費もままならないという状況が出現した。

そんなこんなで、小説を書いて生活費を稼ぐという暮らしに嫌気がさしてきたのだ。つまり、好きな小説書きではあるが、自分が望んでもいないものはもはや書きたくないという気持ちが急速に大きくなってきたのだ。そこで、食うための手段を小説に依らなければいいと開きなおった。

小説はネットで発表すればいい。お金にはならないかもしれないけれど、自分の好きなように書いたものが、多くの人に読んでもらえる。また、読者からのリアクションもある。書き手と読み手がダイレクトにつながることができる。幸い私はコンピューターやネットに強かった。

田舎に住んでいたため、いまではあまり使われることもない「情報格差」という問題を感じていて、コンピューターやネットへの関心は強かった。NIFTY-ServeやPC-VANなどはサービススタート時からのユーザーだったので、ネットは当初から使い慣れていた。

80年代後半からの「パソコン通信」の普及から始まって、90年代後半にはいよいよインターネットが普及しはじめた。ネットのヘビーユーザーであり、またコンピューターを使って執筆もすれば音楽制作もするという、IT技術の発展を同時代的に経験する者だった。

私がネットに小説を発表しているのを見て、コンタクトしてきたのが、先に書いたアイ文庫の共同創設者となった紙器加工業/印刷業の経営者のY氏だった。Y氏は本業のほかにもネット事業を展開するための会社を立ちあげていて、私のやっていることに興味を持ってくれたのだ。

Y氏がコンタクトしてきたとき、私は「まぐまぐ」というメールマガジンのシステムを使って小説の無料配信をやっていた。けっこうな読者がついていて、とはいえまあ数千人程度ではあったが、その人たちが毎日私の小説を楽しみに読んでくれては、ときにはメールをくれたりした。