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2011年10月30日日曜日

演出家への最高の報酬とは

 私のところへ毎月、何人もの人が朗読を習いに来ます。とはいえ、私自身は朗読者ではありません。まったく朗読はやりません。そのかわり、演出の立場で多くの人の朗読を聴き、アドバイスをしたりいっしょに考えたりします。
 現代朗読協会の体験講座や基礎講座、あるいはライブワークショップ、それらの見学としてやってくるのは、まったく朗読経験のない人か、あっても従来の朗読に行き詰まってなにか突破口はないものかと模索している人がほとんどです。
 みんな緊張して、難しい顔をして来られます。
 その人たちも、現代朗読の考え方にふれ、実際にやってみていくにつれ、しだいに表情がほぐれ、笑顔になってきます。現代朗読には「これをやってはいけない」「こうしなきゃいけない」というものが一切ないからです。むしろ、意識的にせよ無意識的にせよ、身につけてしまった思いこみや癖を自覚し、それを「やめていく」ことに重点が置かれます。
 ほかの朗読講座や朗読グループから来られた人の多くが、
「いつもいわれていることと真逆だ」
 とびっくりします。
 たとえば、
「しっかり声を張りましょう」
「お腹から声を出しましょう」
「文章の意味が変わらないように、間合いを取る場所はしっかり決めておきましょう」
 というようなことをいわれるそうですが、現代朗読ではそんなことはやりません。むしろそのような「恣意的」な行動を「やめていく」ことに重きを置きます。こういった恣意的なことを多くの人が無意識に思いこんで、「やってしまっている」のです。とくに朗読経験の長い人ほどそういう傾向があります。
 思いこみや癖を自覚し、それをやめていくにつれ、そこには驚くほど自由な表現が広がっていることに、たいていの人は気づきます。そしてその瞬間、笑顔になるのです。
「朗読ってこんなに自由だったんだ」
「こんなに楽しかっんだ」
「目からうろこが落ちました」
 こういった感想が出てきます。その瞬間、私は演出家として「報われた」と思うのです。
 私がおこなうのは、ある人を何者かに「作りあげる」ことではなく、ある人を本来その人があるがままの輝かしいオリジナルの姿に連れ戻すことなのです。それができたとき、その人は自由を取りもどし、自分をあるがままに表現する子どものときとおなじ楽しさを再発見するのです。
 それがかなったときの笑顔が、演出家としての私にとって最高の報酬です。