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2011年10月27日木曜日

これからは好きなことしかやりません・宣言

 表現についての話。
 私だけではないと思いたいですが、自分が過去に作ってきた作品や行為を振り返ると、すべて消去してリセットしたい気分になることがよくあります。
 いいようにかんがえれば、それだけ「成長した」という解釈もありうるわけですが、客観的にいってやはり出来の悪い作品やパフォーマンスが累々と横たわっているわけです。これは消しようもありません。
 しかし、ふと気づいたのです。このように自分の過去作品を恥じるというのは、つまり自分にたいして「評価」をくだしているわけです。
 いつも私は朗読ゼミやテキスト表現ゼミで口を酸っぱくして「評価を手放せ」といっています。それなのに、自分自身ではそれができていない。まったくこれは矛盾しています。
 というわけで、自分自身に対する評価もばっさりと手放すことにしました。問題は、どうやれば評価を手放すことができるか、です。
 自分がプロ、あるいはその道の専門家だと思っているから、外部評価や自己評価をあてはめてしまうことに気づきます。プロ/専門家というのは、それがお金が稼げるか、どれだけ多くの人から評価されているか、売れているか、人を集められるか、素人と比べて技術力がどれだけあるのか、といった点で評価されますし、また自分でも評価します。この基準を捨てないかぎり、評価を手放すことはできません。
 そこで、プロ/専門家であるという意識を捨てればいいのだ、ということに気づきました。そもそも、プロ/アマチュアという区分をするのはナンセンスだといつもいっているではありませんか。
 人にはプロ/アマチュアの区分はナンセンスだ、評価を手放せ、といっているくせに、自分のこととなると棚上げしていたのはまったくお粗末な話です。私は自分では、小説や詩などテキスト表現のプロ、音楽製作や演奏のプロだと思っていました。しかし、それらの行為にたいしていつもやりなおしたい気分に陥るくらいなら、最初からプロだと自負/自称しなければいいわけです。最初から初心者とおなじ気持ちでなにごとにも向かえばいいのです。
 そうかんがえるととたんにあらゆることが楽になりました。気持ちが楽になるばかりではなく、創作が楽しくなります。小説書きもピアノ演奏も趣味だと思えばいいのです。自分の好きなことを好きなようにしか書かないし、好きなようにしか演奏しない。なぜなら趣味だから。趣味だから自己評価もしなければ、他人の評価も気にならない。ほめてもらえればうれしいけれど、けなされても気にならない。だって好きでやってることだから。
 よく考えてみれば、私がテキスト表現において提唱している「純粋表現衝動」は、この「好き」のなかにしかないのかもしれません。ここから出発しなければ本物の表現はできないのです。
 これまでにも、そしていまも、いろいろな作品をけなされたり、演奏をこきおろされたりして傷ついてきましが、これからは気にすることはありません。なにしろ好きでやってきただけのことですから。そしてこれからも純粋に「好き」でやっていきたいと思います。ええ、そうです、もう好きなことしかやりませんよ。
 表現の話でした。