次世代作家養成塾では、心がけて「これはしない」ということがあります。それは「評価」ということです。英語でいう「ジャッジメント」。「価値判断」といいかえてもいいです。
私たちが生きている現代社会は、お互いを評価し、自分自身を評価し、モノや表現には価値判断をおこなうような仕組みでできていて、私たちもそのように教育されて大人になります。なぜなら、評価や価値判断がなければ、モノや人の行為に「値段」をつけることができないからです。それは商品経済/資本主義経済の宿命であり、仕組みそのものでもあります。
しかし、同時に、評価や価値判断がそぐわないものがあることも確かです。
子どもがのびのびと描いた絵を見て、
「これはいくらになるか」
と、無意識に思考する大人がいたとしたら、相当に経済システムに侵略されているといっていいでしょう。が、ふつうはそんなふうには考えません。子どもの絵ののびやかさを受け入れ、子どもが表現したいことを感じ、共感します。これには値段はつけることはできません。
そのように、テキスト表現においても、評価を手放したいと思っているのです。
塾生たちはお互いの作品を批評しあうことはありません。
感想を述べることはあります。
「私はあなたの作品を読んで、このように感じました。私のなかでこんな感情が生まれました」
というふうに。
また、書き手にマイクを向け、
「ひょっとしてあなたはこういうことをいいたかったんでしょうか」
とたずねることもあります。
養成塾で私だけが評価してもいい、というふうに思っている人がいるかもしれませんが、私も例外ではありません。私も表現そのものについて評価することはありません。
もし評価をするとしたら、技術的なことです。技術は評価が可能です。巧拙がはっきりしていますし、また適切な訓練によって技術を向上させることができます。
唐ひづるのこの作品も、技術的にはまだまだ稚拙です。つまり、向上の余地が山のようにあるということです。子どもの絵のように可能性を持っているという意味です。
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