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2020年7月4日土曜日

essay 20200704 ピアノを弾く能力

なぜ私はピアノが弾けるのだろうか?
ピアノを弾く能力があるからだ。
能力がなくなったとき私はピアノを弾くことができなくなる。
その時私はただ、ピアノを弾かなくなるだけだ。

今日はピアノ弾くことができた。
ただし私ができる範囲内で。
自分を必要以上に大きく見せようとしないで。
ただただ、自分の内側の声に耳をすませ、それとつたないながらも繋がろうという努力をしながら。

今日もじめじめした天気が続いている。




From editor


水城、今週は不調が続いている。
食欲はほぼなく、小さなプリンとエンシュアH、リンゴジュースを一本ずつ、それもなんとかかんとか入れるかんじ。
でも昨日、酸素吸入しながらなんとかピアノを弾くことができた。
弾き終わって、「指が動かないので、ゆっくりのテンポの曲しか弾けない」と言った。

今朝になって、もっと体を動かしていく、と宣言した。
ピアノの前ではつけるが、酸素吸入のチューブなしで階段を上り下りした。

  * * *

多くの人が「よかれと思って」自分の正しさを押し付けてくる。
「〜するといいよ」「あなたは〜な人だから」等々。
それは、相手がほしい言葉ではなく、あなたが言いたい言葉。
そして、相手がほしい言葉なんて、実のところないのかもしれない。
でも、なにか言いたい。あなたがどれだけ相手のことを思っているか、わかってほしくて。
言えば言うほど、相手は遠ざかっていくのに。
言葉でのコミュニケーションって、せつない。

私もそうやって人を損なってきたのだ、と痛い。が、そうしたくなる思いも、その痛みも、本当はどうしたかったのかも、自覚があり、かつそれにこだわらずにいられる自覚もあり、すると浮かんでくるのはほほえみなのだった。まだ少し苦味は混じっているけれど。

言葉は往々にして自分を裏切るけれど、音は如実だ。
かつては、水城の音に嘘を聞い(た気がし)て不満を述べることもあった。
いまは、その必要がないこと、かつそれにこだわる意味もないことの自覚から、ただフラットにおだやかに聴けるのが、本当にありがたく、うれしい。

とにもかくにもいま、うそがないことが、私はうれしくてたまらない。