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2020年6月23日火曜日

essay20200623 生きていいということ

音楽について何か書こうとするとき、あるいは演奏しようとピアノの前に座った時、必ず思い浮かぶものがある。
20年来同じ機種のピアノを弾き続けているのだが、そのエコノミータイプのデジタルピアノの端っこに小さなガラスのコップに植え替えられた花束が置いてある。
いつかだれかにもらったものだ。
いまこの瞬間は私のピアノの上には存在しないけれど、弾こうとすると必ず目の前にそれが浮かんでくる。あたかもまるでそこにいまあるかのように。

私の虚偽の人生が私の音楽をもそうしてしまったことは、自分自身がいちばんよく知っている。
贈答用に作られた大量生産の切り花も、自分自身それを知っているのだろうか。
そんなはずはない。

私の本や文章の中にも、嘘偽りのないものは紛れ込んでいる。ただ、それをどうやって正直に丁寧に取り出せば良いのかわからないだけだ。

これまでに何度も何度もピアノが弾けなくなり、実際にやめてしまったこともあるけれど、私の古ぼけたデジタルピアノの上にはずっと小さな花束が載っていた。
自分に不誠実で、嘘偽りのある音楽を作っていたときも、その中に本当の美しい音が潜んでいることをずっと見ていてくれた人が、たったひとりある。
私の古いデジタルピアノの上に乗っている小さな花束。
私をここまで連れてきてくれた。

小さな花束には名前が付いている。
まり。

私がピアノを弾くこと、文章を書くこと、生きていること、それらを許されていることにいつもいつも気づかせてくれた。君がいなければ私はここにいない。