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2020年1月27日月曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(26))

痛みとの闘いになってきている。
腰痛のほかの、下腹部痛にも悩まされている。
痛み止め薬を飲む間隔がしだいにみじかくなっている。
日に2回から3回、そしてここ1週間は4回かそれ以上になってきた。

ホスピスの面談に行ったときに、医師にそれが気になることを相談してみた。
医師のこたえは明瞭だった。

「最近は痛みをコントロールするためのさまざまな薬や方法があるので、痛みをがまんする必要はない」
「副作用があるものもあるが、その対処法も確立されている」
「日本人はがまん強い人が多く、薬などで痛みを抑えることに倫理的な罪悪感を持っている人が多い」

たしかに私にもそういうところがある。
痛みをついがまんしてしまう。
薬を飲むことをなるべく引きのばそうとする。
その心理的背景として、薬を頻繁に飲むときかなくなるのではないか、副作用があるのではない、がまんできるならできるだけがまんしたほうがいいのではないか、というものがある。
医師はさらにいう。

「ガン治療をおこなわないという選択をしたのなら、ガンが進行して痛みが増大するしたとき、痛みをがまんして生活や気持ちに支障が出るのはつまらない」
「痛みの原因を知るためにあらたに検査をして病原を見つけたとしても、治療したり手術するのはもはや意味がない」
「それよりできるだけ快適にすごせることを心がけるべき」
「麻薬ということばがいけないと思うのだが、医療麻薬にもさまざまな種類や方法があるので、余命を自分らしくすごすためにうまく使えばいいし、そのための相談にはいくらでも応じる。通常の治療ではなく末期医療のかんがえかたがある」

いろいろ感じることもあり、かんがえたいことも多いが、医師のことばは示唆に富む部分が多かった。
なので、いまは痛みをがまんすることをやめ、時間をあまり気にせずに薬を飲むことにしている。
とはいえ、飲んでも効きにくくなってきていることもたしかだ。

■書くこと、演奏すること、人とかかわること、そして統合

現代朗読協会の立ちあげ(特定非営利活動法人としての許認可)が2006年。
旗揚げ公演をはじめとして、世田谷文学館との共同事業を区内の小中学校での朗読公演としておこなったり、区内外の学校や福祉施設でのワークショップやボランティア活動など、双方向の社会交流活動を意識的に多くおこなってきた。
それは現在もつづいているが、とくに2011年の東日本大震災をきっかけとして社会活動としての朗読・音読ワークをたくさんおこなうようになった。

その年には現代朗読協会の活動の成果のひとつとして『音読群読エチュード』を書籍化したほか、スピンアウト組織として音読療法協会を立ちあげることになった。
これは現在も活発に活動している。
とくに音読トレーナーや音読療法士の育成に力をいれていて、有資格者が各地で社会貢献活動や独自の音読療法の活動を展開している。

私個人としては、現代朗読の演出や公演プロデュースなどに力をいれてきたことはもちろんだが、暗闇での音楽演奏をふくむ「音楽瞑想」「ディープリスニング」などのコンサートや、その延長線上にある「沈黙の朗読」ライブをほぼ途切れることなく継続的におこなってきた。
そのことで私独自のオリジナルな表現の形や方法が作られてきたという実感がある。

多くのオーディエンスを集められるような、大ホールでおこなえるような一般的で商業的な内容ではないが、静かに深く自分自身と共演者と観客のみなさんとつながり、響きあってくることができたと思っている。

書くこと、演奏すること、人とかかわること、個人的な表現、グループ表現、さまざまな活動をしていると、人からはよく、
「水城さんはなにが本業なんですか」
と訊かれることがある。
そう訊かれていつもこたえに詰まってしまうのは、私のなかではそのような問いは存在しないからだ。
問いも答えも存在しない。
なにが本業ということはない。
そもそも「業」という意識もない。

私はただ私を生きている。
その生きかたが大きくぶれたり、迷ったりしたことは何度もあるが、いまはない。
すべてが統合され、ひとつの流れとなっている。

どんなふうに統合されているのか、それを知ってもらいたくて、このテキストを長々と書いてきた。
つぎの項がこのテキストの最後になる。
もうすこしだけお付き合いいただきたい。