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2019年12月30日月曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(21))

例年より早めだが、東京から北陸の実家に帰省した。
車での移動だが、運転手がもうひとりいたこともあって、楽だった。
いまのところ、車を運転することにはなんの支障もない。
むしろ、電車移動よりずっと気持ちも身体も楽だ。

東京・北陸というとけっこうな長時間移動だが、それでも私は車のほうが楽だ(グレタ・トゥーンベリさんにはしかられそうだけど)。
電車の場合、国立からだと、まず東京駅に行かなければならない。
そこから新幹線で米原まで。
米原から北陸線に乗りかえる。
金沢だと北陸新幹線があって便利らしいが、それでも東京駅までは行かなければならない。

飛行機でも羽田まで行かなければならない。
羽田から小松までのフライトのあと、小松空港からはバスとローカル線の移動になる。

いずれにしても6時間くらいかかる。
車とそう変わらない。
そして車だとドア・トゥー・ドアという便利さがある。
途中、好きなときに休めるし、ラジオや音楽を聴きながら運転できる。

原因不明の腰痛も、痛み止めの薬が効いていて、それほど気にならない。
薬はなるべく8時間以上あけるようにしているし、最低でも6時間はあけている。
これがだんだん効かなくなっていくかもしれないが、ペインコントロールについてはどの医者も「心配ない」という。
さまざまな薬や方法が最近はあるらしい。
医療麻薬(モルヒネのようなものか?)も処方できるといっている。

ともあれ、腰痛の原因はまだよくわからない。
お腹のまんなかを通っている大動脈脇にある遠隔転移リンパ腫瘍ではないかと思うが、医者はそれはそんなに痛みが出ないはずだという。
骨への転移の検査を先日おこなったが、その結果は年明けにならないとわからない。

■ノベルスの衰退と電子ネットワークの拡大

ノベルスが急激に売れなくなっていったことで、私の仕事の内容も依頼も変化していった。
もともと「小説を書くことが楽しい」ことからスタートした小説書きだが、やがてそれが売れ、それで生活するようになると「売れる小説を書く」ことが目的になってしまい。
それは出版社側のニーズであり、書き手もそれに乗ってしまうというのは、自分本来のニーズを見失うことでもある。
自分が書きたいものと、マーケットの時流のなかで売れるものとは、かなり乖離してしまう。

私にやってくる注文も、当時のはやりだった仮想戦記とかジュブナイル(いまでいうライトノベルか)などが多くなってきた。
私もそれを受けなければ本が出ないという状況に追いこまれていった。

小説を書く仕事の一方で、地方在住ということも有利に働いたのだろう、地元のラジオ局やテレビ局、タウン誌、カルチャーセンターなどの仕事が増えていた。
FM福井では番組のスクリプトを書いたり、自分も出演したりしていたし、福井テレビと福井放送というテレビ局でもそれぞれ出演番組を持ったりもした。

その関係で、福井放送がやっているカルチャーセンターで文章講座をやったりもした。
これはなかなか人気の講座で、たくさんの生徒さんが来てくれた。
なかにはすばらしい書き手も何人かいた。

これらとは別に、当時はパソコン通信と呼ばれていたが、電子ネットワークにも深く関わるようになっていった。
これについては何度か書いたことがあるのでくわしくは書かないが、地元のテレビ局や企業のBBSの立ちあげに関わったり、そのシスオペを務めたりもした。
また、富士通系のニフティサーブでは「本と雑誌フォーラム」のシスオペを頼まれて引き受けたりもした。

商業小説の仕事が衰退するのに反比例して、ネットとの関わりはどんどん深まっていき、ニフティのフォーラム活動は当時の通産省のなにかの賞をいただいたこともある。
また「小説工房」というネット小説道場のような集まりが盛り上がり、その活動は本にもまとめられた。

ただ、これらのネットの活動は私をひどく消耗させた。
多くの人との関わりが一種の「熱」となり、私は熱病に取りつかれたようにコンピューターに向かった。
ユーザーもまたそんな私を「消費」した。

相当消耗しながらも、電子ネットワークというものに大きな可能性を感じていたこともまた事実だった。
ネットではパソコン通信だけでなく、ドコモのi-modeなどの公式ケータイサイトや、まぐまぐなどのメルマガサービス、そしてインターネットの本格的普及と、さまざまなサービスと規模が1990年代初頭から後半にかけて急激に拡大しつつあった。