ページ

2019年11月29日金曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(15))

放射線の照射治療が終わって1か月後の検査(造影剤CTおよび内視鏡)の結果を聞くためと、定期的な診察のために、消化器外科と診療放射線科のそれぞれの担当医と会ってきた。

まずは検査結果。
食道内に突出・露出していたガン組織は、放射線照射の効果が出て、ほとんど消滅している。
組織検査もおこなったが、悪性組織は見られなかった。
放射線で撲滅に成功したようだ。
これがよいニュース。

放射線が届きにくい胃の下部、小腸から骨盤に近い腎臓のあるあたりにかけての大動脈にそって、もともとあった小さなリンパ節への転移が、大きさ、数ともに増大している。
これは転移がさらに広がっている可能性をしめすもので、肺や肝臓など他の臓器への転移がいつ起こっても不思議ではない。

標準治療としては、まずは抗ガン剤治療がかんがえられるが、それとて根治は難しく、延命措置にはちがいない。
抗ガン剤がどうしてもいやな場合は、下部のリンパ節のみを狙った放射線照射治療をふたたびおこなうことも可能だが、前回同様の25回以上の連続治療が必要で、それなりの副作用もあるし、またほかの場所の転移が見つかればイタチごっこのような治療になることもありうる。

さてどうしますか、しばらくかんがえますか、ということで、2週間ほどの猶予をいただいてきた。
といっても、私の方針は決まっている。
いま現在の体調と活力を維持し、できればそれを増大できるような方法をとりながらの日常生活を送り、延命のためだけの治療はおこなわない。
そのときが来たときには、なるべく人に迷惑をかけず、だれかの手をわずらわせない方法で、静かに去る。
それまでにやれること、やりたいことは、まだまだたくさんあるし、限られているとはいえ時間がまったくないわけではないことがありがたい。

今夜はこのために帰国スケジュールを作ってくれたオーストラリア在住の矢澤実穂さんと、いつも私を支え助けてくれている野々宮卯妙との3人で、渋谷でライブ公演をおこなう。
これが実現にいたったというのはじつにありがたいことだ。
また思いがけず多くの方においでいただけるようで、心から感謝している。
いまの私のすべてを表現できればと、わくわくした気持ちでいっぱいだ。

■売れっ子ピアノ教師になる

福井の実家に戻った——文字どおり都落ち?——私は、しばらくぶらぶらしていたが、やがてなにか仕事をしなきゃ、と思った。
両親の家は私が小学一年のときに建てたもので、なかなかしっかりした一戸建てだった(いまでもしっかりしている)。
母屋の奥に日本家屋の離れを増築していて、かなり広い家だった。

隣家は角地になっていて、もともとはちいさな電気屋、のちに化粧品や手芸用品を扱う店になったのだが、私が帰省したころにはその店は街なかのショッピングセンター内に移転して、空き家になっていた。
両親は私が帰省したのをきっかけに、その角地の土地と家を購入した。

両親の家にくらべるとかなり安普請の、しかも店舗として増築したり、つぎはぎに手をいれたりしていて、はっきりいってボロ家だったが、まあ住めないことはなかった。
もともとその家にも一家四人が暮らし、店舗も経営していたのだ、安普請とはいえちゃんと住める家だった。

私はその家に住むことにして、1階部分を広く改装した。
そこに妹と私が使っていたアップライトのピアノを運びこみ、ピアノ教室をやることにした。

最初は近所の子ども数人しか生徒がいなかったが、子どもだけでなく、大人も教えますよ、クラシックではなくポピュラーやジャズピアノも教えますよ、といいふらしていたら、成人の生徒が増えてきた。

成人の生徒といえば、福井市内の楽器屋でも大人のためのピアノレッスンをやることになり、楽器屋が宣伝してくれたこともあって、生徒が一気に増えた。
ふつうのサラリーマンやOL、学生、高校生、主婦、あるいはリタイアした年配の人など、さまざまな人たちが、さまざまなジャンルの音楽を学びにやってきた。
これはなかなか楽しかった。

またちいさな街だったが私以外にも教室をやっているピアノ教師が何人かいて、全員女性だったが、教師たちのグループを作っていた。
グループを作っていると、合同の発表会をやったり、生徒の都合で教室を行き来させたり、なにかとつごうがよかったのだ。
私もそのグループにはいらないかと誘われた。
よろこんで参加させてもらったのだが、結婚、出産、育児など、さまざまな理由で教えられなくなった生徒を私の教室に回してもらったりして、こちらでもまた生徒が急に増えた。

車で1時間以上かかる山間部の村で、週に一回、ピアノレッスンに通っている先生がいたのだが、その仕事も女性にはきついということで、私が引き受けることになった。
ちいさな村だったが、その分父兄は教育熱心で、1日で20人くらい、つぎつぎと個人レッスンをこなす仕事だった。

そんなわけで、私のピアノの生徒はあっという間に30人とか40人というボリュームになり、急に忙しくなっていった。