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2019年9月10日火曜日

余命という観念が物質化して立ちはだかる(末期ガンをサーフする(7))

人はすべて「死」を生きている。
生まれおちた瞬間から、私たちの生は死に向かっている。
それがいつやってくるのかはわからない。

平均寿命などというものが割り出されていて、日本人男性なら81歳くらい、女性なら87歳くらいとされている。
ほとんどの人が自分もだいたいそのくらい生きるんじゃないだろううかと、漠然と思っている。
ひょっとして平均よりは多少長く生きるかもしれない、とかね。

私もそうだった。

人生90年とか100年とかいうことばも流通しはじめていて、自分もそのくらい生きるかもしれないと思う人も多くなっている。

一方で突然の事故や病気でいつ死ぬかわからない、とも思ったりする。
ただ、その想像は漠然としていて、観念的で、絵空事のように自分とは関係ない遠いところにイメージされているだけだ。

私もそうだった。

現代は寿命が長くなったとはいえ、いつどんなことが起こるかわからないから、悔いのないように生きたい、毎日を大切に生きたい、と多くの人が思っている。
しかし、その決意もまるで絵空事のように自分とは関係ないところに、ふわふわと浮かんでいる。

私もそうだった。

毎日を大切に、真剣に、誠実に、正直に、一瞬一瞬を味わいながら生きるなんてことを、はたしてどのくらいの人ができているだろうか。
死の影があまりにうすくて非現実的で観念的すぎるために、そうなってしまっている。
しかし、死そのものが、突然、眼前に立ちはだかったとき、どうなるだろうか。

今朝もそうだったが、目をさましたとたん、
「ああ、今日も生きているのだな」
と思う。
夢をほとんど見なかった——あるいは見てもおぼえていなかった——のに、最近は長い夢を頻繁に見る。
そして目がさめると、「生きている」ことを痛切に確認する。

ガンで余命を告げられる前は、朝、目がさめても、
「今日はどんな予定があったっけ? なにをするんだっけ?」
なんとなくぼんやりと起きて、毎日のルーティン——歯をみがいたりゴミを出したりメールに返信したり——をこなし、予定表を見てやるべきことをやったり、人に会ったり、好きなことをしたり、動画を見たり、ご飯を食べたりして、なんとなく一日がすぎていく、そんな日々だった。
自分の余命が限られている——本当は全員がそうなのだが——という現実を目の前に突きつけられたとき、そんな日常の風景がまったく変わってしまった。

今日、たったいま、生きている。
これはいつまでもつづかない。
あと何日、何週、何か月かすれば、この時間は消滅する。
そんなことはとっくにわかっていたことなのに、夢物語ではなく、観念ではなく、現実として、あたかも確たる存在としてそこにある物体かなにかのようにその事実が現れたとき、日常の風景は変わる。

かぎられた生の時間。
もともとそうであったものが、物質化したみたいにリアルになった。
さて、そうだとしたら、私はその時間をどう生きたいのだろう。
それが本当なのかどうかはわからないが、医師から告げられた一年に満たない残りの時間、私はなにをしてすごしたいのだろう。
私はどう生きたいのだろう。

9月10日、火曜日。午前10時。
台風通過後のフェーン現象で、今朝も暑さがきびしかった。
7回めの放射線治療のために東京都立多摩総合医療センターに行く。
明日は「写真を撮るのですこし余分に時間がかかりますよ」と技師から告げられる。

写真というのはまさかデジカメではないだろう。
レントゲンのことだろうね。