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2019年3月20日水曜日

ハンブルク駅現代美術館でヨゼフ・ボイス(と私)を再発見する

911以降、世界のアートの中心地はベルリンに移った、などといわれることもある。
実際、気になっている多くのアーティスト、音楽家、ダンサー、さらには小説家までもがベルリンに移住したという話を聞く。
ベルリンに行くならそのアートシーンを肌で感じてみたいという気持ちがあった。
とくに現代の――コンテンポラリー表現を。

ハンブルク駅現代美術館は、かつてハンブルク行き鉄道の駅舎を改装してできた比較的あたらしい美術館だ。
行ってみてそのスケールに驚いた。
ネットの口コミで「規模のわりに内容が薄い」などと書いている人がいたけれど、いったいどこを見てるんだろう。
私は半日ここですごして、へとへとになってしまった。
それくらいおもしろかったということだ。

とくにドイツ人の現代アーティストとしてあまりに有名なヨゼフ・ボイスの仕事には、あらためていろんな角度から接することができて、再発見したというか、現代アートにおけるボイスの存在意味があらためてわかったような気がする。
さらにいえば、大げさなことをいうようだが、自分自身の存在意味すらも。

ボイスの存在でもっとも大きなものは、彫刻の意味を問いなおしたことだろう。
彫刻といえば古来から現代にいたるまで、石や金属や木材やコンクリートや、なにかしら固形の材料をもちいて形(sculpture)を表現することだと、なんとなく思っていた。
ボイスはそこに鋭く切りこむ。

まず、材料は固形のものである必要があるのか?
そもそも固定された物体である必要はあるのか?
現象そのものを彫刻ととらえることはできないのか?
我々そのもの——つまり生きて動いて変化しつづけているbodyを表現するのに、そもそも固形物で時間をとめようとすることに無理があるのではないのか?

かくして生まれたパフォーミングアートは、彫刻からスタートしている。
ボイスのこれらの仕事を見ていると、生きて動いている存在というか現象である私自身の生命そのものは、いったいなんなのか。
これそのものがアートとどこで線引きできるのか。
そもそもそんな線引きそのものが社会的な都合によって作られた勝手なジャッジではないのか。

ボイスの芸術をつきつめていくと、私の存在そのものに行きあたることに気づく。
ボイスの問いはそのまんま、私自身の存在へと向けられる。
いまここにこうして生きている私自身、これはなんなのか。
なんのためにこうして生きているのか。
私はなぜここにいるのか。

ボイスだけでなく、そこから生まれた膨大な現代アートに触れつづけていくにつれ、ものすごく疲れたと同時に、ものすごく触発されていった。
私の今日以降の人生がかなりちがった風景を持つだろうと、いま感じている。