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2019年1月9日水曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(8)

大学はろくに学校に行かなかったけれど、学生時代をすごした街といえばまちがいなく京都ということになる。
学生時代をすごす街としては、当時は理想的だったと、いまになって私は思いかえしている。
京都で青春時代をすごせてよかったなあ、と。
ただし、定住するにはいろいろと問題がある(私にとってはね)。

ジャズにどっぷり浸かったまま京都で暮らしはじめた私が、まず最初にしたことは、ライブハウスを探して行ってみることだった。
田舎の町にはもちろん、ジャズライブをやっているような店はなかったし、ジャズ喫茶もなかった。
ジャズ音楽を流しているような店もなかった。
ジャズは家でラジオかレコードで聴くしかなかった。
が、1976年当時の京都には、ジャズ喫茶がたくさんあったし、ライブハウスもいくつもあった。
京都に住みはじめた最初の年、私は東山二条の平安神宮の近く、岡崎という地区に下宿した。
岡崎の北側には京都大学や同志社大学があって、学生も多く、ライブハウスもジャズやロックやフォークソングなどが盛んに演奏されていた。

私は丸太町通りにあったYAMATOYAによく行った。
そこで生まれて初めて聴いたジャズの生演奏は、日野元彦、井野信義、まだ駆け出しの新人だった渡辺香津美といったメンツのカルテットかクインテットだったと思う。
曲目はもう覚えていないが、ものすごく刺激的だった。

大学時代はいろいろなアルバイトを経験したが、最終的には祇園の〈バードランド〉というジャズバーのバーテンダーに流れ着いたのは、ある意味、必然だったかもしれない。
バードランドは10人がけのカウンターと、奥にグランドピアノがあってそのまわりでも飲めるようになっている店だった。
私はその店で酒とジャズの知識をしこたま仕込み、そちらの世界にのめりこんでいった。
学校にはまったく行かなくなり、やがてやめてしまった。

バードランドには毎晩、プロのジャズピアニストがやってきて、30分のステージを4回おこなった。
その合間に私は彼らとしゃべったり、客がいないときには演奏を教えてもらったりもした。
そこから徐々にプレーヤーの道にはいっていくことになるのだった。