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2019年1月30日水曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(26)

東京の印刷会社の社長から連絡があったのは、そんな時期だった。
彼もまた私のメルマガを愛読してくれていて、私と読者が交流しているようすを見てビジネスの可能性を感じたらしいのだ。

彼のアイディアはこうだった。
ケータイ向けの無料メルマガをさらに配信して、そこに広告を載せる。
若い読者に向けて広告を打ちたいスポンサーはいくらでも見つかるだろう、という予想だ。
そのために会社を立ちあげ、メルマガ配信のためのシステム開発も独自におこなう、資金は自分が提供する、コンテンツを提供してくれ、というわけだ。

おもしろいと思った。
私は上京し、綿密な打ち合わせをおこなった。
仕事場も東京に移すことした。

システムエンジニアが雇われ、配信システムができた。
メルマガを広める方法や広告獲得の方法も練られた。

アイ文庫というコンテンツ配信会社が法人登記された。
社長は印刷会社の社長が兼任した。

当初はかなりの収益を見こんで意気揚々とスタートした事業だったが、たちまち大きな壁にぶつかった。
それは、携帯電話で配信されるコンテンツに広告がつくことを、ケータイユーザーが忌避しはじめたということだった。
またそのことをスポンサーも知り、広告出稿で取れなくなった。

たちまち事業は頓挫した。
せっかく東京に仕事場を移したのに、私もやることがなくなってしまった。
そんなところへ、東京でのラジオ番組製作の話が舞いこんできたのだ。

阪神淡路大震災をきっかけに小規模のラジオ局——コミュニティFMが全国各地に生まれていた。
行政と地元の民間資本が資金を出し合う、第三セクター方式の放送局だ。
東京にも、東京近辺にもたくさんできた。

私が住んでいた世田谷区にもFM世田谷が用賀にあって、電波を出していた。
そこで番組を作ろうという話が、フリーアナウンサーの女性から持ちこまれた。
彼女がしゃべり、私が番組の構成を書く。
曲のブースで収録して、音を自宅に持ちかえり、編集して、完パケ素材として局に納品する。

私がパソコンに強かったというのもあるが、音声編集ソフトや収録機材など周辺機器がかなり安価になり、個人でも買えるようになってきたことも大きかった。
音声編集ができるパワーの自作PCを組み、編集ソフトはSONARというかなり強力なデジタル・オーディオ・ワークステーションを使った。

ほぼ持ち出しの仕事だったが、もともとラジオ製作は大好きだったので、楽しくてしかたがなかった。
ラジオ番組だけでなく、音楽や朗読など音声コンテンツの製作にも手をのばしていった。