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2019年1月20日日曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(18)

地方都市でポピュラー音楽に詳しく、演奏もできて、しかも生放送である程度臨機応変にしゃべれるという人間がいたとしたら、ラジオ局にとっては使いやすい人材だったのだろうと思う。
私も自由になる時間がたくさんあったので、FM福井からのオファーを受けることにした。
なによりおもしろそうだった。

ラジオ局での私の最初の仕事は、番組の構成を作ることだった。
タイムテーブルにそってどのタイミングでだれがなにを話して、どのタイミングでどの曲を流し、どのタイミングでどのCMをいれるか、といった構成表を書くのだ。

パーソナリティはある程度「こんな感じのことを話す」という指示をしておけばいいが、アナウンサーには原稿を書いておく必要がある。
また、番組の進行に合わせた選曲も必要だ。
私は局のCDライブラリーに出入りする自由をもらった。
そこでさまざまな曲を聴き、選び、番組を構成するのだ。
その課程で、私はかつてないほどたくさんの、そしてさまざまな種類の音楽を聴くことになった。

自分の好みだけでなく、番組の進行に合わせた音楽なので、これまで聴いてこなかったようなジャンルの音楽もたくさん聴いた。
ジャズはもちろん、ポップス、ロック、クラシック、イージーリスニング、邦楽、そして世界のさまざまな民族音楽。

これは大変おもしろく、そして勉強になった。
かつて文学作品を系統立って読みあさったような体験を、音楽についても得ることができたのは、貴重だったと思う。

私が最初に構成した番組は、初めて出演した情報番組だった。
この番組には局アナのほかに、名古屋のタレント事務所から派遣されてきたタレントも出演していた。
そのタレントは名古屋でもかなり売れっ子のナレーターだったが、本人はナレーターは食い扶持、本職は役者と自認していて、実際に名古屋の劇団に所属している俳優だった。

その劇団はKSEC名古屋という名前で、正式名称は「国際青年演劇」といい、早稲田小劇場の流れをくむ前衛劇団だった(いまでも元気にクセックACTという名前で活動している)。
そこに所属している榊原忠美という役者がタレント事務所を通してFM福井に派遣されてきていたのだが、彼との出会いが私の即興ピアニストとしての道を、その後決定づけることになった。