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2018年2月11日日曜日

共感的コミュニケーションにおける三つの心がけ「AMO(編も)」

私が提唱する4つの共感モード「積極的共感モード」「表現共感モード」「テキスト共感モード」「縁側共感モード」のうち、最後の縁側共感モードの実践の場として共感編み物カフェを開催している。
(4つの共感モードについてはこちらの記事をご参照ください)

共感編み物カフェを開催するにあたって、三つの心がけを提案している。
相手の話を聞き、共感するときの心がけだ。

 当てにいかない(A)
 向かい合わない(M)
 追い詰めない(O)

共感的コミュニケーションでは自分と相手のニーズを知り、理解することで、つながりを作り、お互いを尊重しあえる関係性をめざす。
しかし、ときに相手のニーズを知りたいと思うあまり、当てっこのようになってしまうことがある。
相手のペースにおかまいなしに、どんどんニーズを推測し、当てようとする。
そうすると、相手は自分につながる余裕がなくなってしまう。

また、だれかに共感するとき、その相手に「向かい合う」ことが必要だと思いこんでいる人もいる。
パートナーや親子関係、大事な友人や仕事での人間関係でも、向かい合うことが必要だ、向かい合うことから逃げることはよくない、と思いこんでいる。
その強要がどこから来たものかはわからないが、私は西洋文化として輸入されたものではないかと思っている。

すべての人がとはいわないが、すくなくとも私はだれかと向かい合うことが苦手だと感じるときがある。
面と向かって話をするとき、どことなく気まずさを感じる。
また「相手の目を見なさい」などといわれると、どうしていいかわからなくなってしまう。
相手の目をまともに見るのは、喧嘩を売っているときか、セックスしているときくらいだろう、と私は思っている。

私をふくめて大抵の人は、なんとなく相手の全体を感じながら、しかし向かい合うことなく、こちらとあちらという相対的な関係のなかで受け取りあっているのではないか。
向かい合わなくても共感はできると思うし、むしろ向かい合わない共感こそ自然で、居心地のいいものではないか。

そうすると、必然的に相手を追い詰める、とか、問い詰めるということをしなくなる。
自分と相手のペースやスペースを尊重しながら、自然に共感しあっている。
ただ共感的身体でそこにいるだけでも安心できる。

というような心がけを提案しているのだが、どうだろうか。


2月28日:共感編み物カフェ@国立春野亭(オンライン参加可)
編み物をしながら、お茶を飲みながら、ゆるく共感しあう場。まるで昭和の家の縁側のような安心できる居心地となる予定です。編み物ができない人ややりたくない人も歓迎。午後3時から8時まで、出入り自由。