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2018年1月23日火曜日

縁側における身体性が日本人の共感的身体

編み物しながらこうかんがえた。

私の世代以上の年代の者の感覚かもしれないけれど、家には縁側があって、そこでおばあちゃんや母が豆のからをむいたり、編み物したり、繕い物をしている。
晴れていれば、にわとりが放されている庭先でアリンコを観察したり、雨ならば縁側で本を読んだり積み木をして遊んでいる。
自分の横にだれかがいる安心感があり、いつでも話を聞いてもらったり、話をしてもらったりできる。

自分がそこにいて、気を許せるだれかもそこにいるという感覚。
そしてそのだれかは決していなくなったりしないし、一時的に席をはずしてもまたすぐにそこにもどってくる。
それを信頼できるから、安心していられる。

祖母や母のようすは、自然で、ただ自分の仕事にマイペースで没頭している。
しかしいまの人間がスマホやゲームに没頭したり、テレビをぼんやり見ている状態とは違う。
これはうまく説明できないのだが、スマホやゲームやテレビは、「人がそこにいる」という感じを奪ってしまう。

幼い子どもを見ているとわかるのだが、いっしょにいるママがスマホを操作していると、必死に気を引こうとする。
ときには危険なことをやらかして、身を呈して注意をこちらに向けさせようとさえする。
それはあたかも、だれか悪人か悪魔に連れさられようとしているママを、必死に引きもどそうとしているかのようですらある。

子どもにとって、まさに「ママがここにいない」という、恐怖に近い感覚に襲われるのではないかと思う。
そう思ってまわりを見回すと、まさに「ここにいない」人がたくさんいる。
ネットでつながったバーチャルな世界、あるいは自分の脳内で作られた思い出や思考や妄想の世界。
そこに「囚われの身」となっているママを感じたとしたら、子どもにとっては本当に悲しく、恐ろしいことだろう。

しかし、昔はよかった、というような話ではなくて、縁側にいた祖母や母はたしかに「そこにいた」。
それが安心だった。


共感的コミュニケーションにおいていつもいわれることは、まず自分自身につながっていることが重要だということ。
それはたしかにそうであって、自分自身につながっていない人間がだれかに共感しようとしたり、役にたとうと懸命になっても、うまくいかないし、ときにはそれが相手にとって迷惑だったりする。
また、よからぬことを引きおこしてしまうこともある。
自分自身につながってなにごとかをおこなうことが重要なのだということを、だれもが経験的に知っているし、同意してもらえることだろう。

では、自分自身につながっているとはどういう状態なのか。
共感的コミュニケーションでは、それは、「自分のニーズを理解し、体感している状態」とする。
自分にとっていまなにが必要で、どんなことを大切にしているのか、そのことを自分自身が理解し、身体でも実感していること。
そんなとき、人はいきいきしている。
自分のニーズを満たすためにどんな方法があるか、どんなことができるのか、虎視眈々と狙っている状態といってもいい。

しかし、もうすこし自然体な自己共感もあるのではないかと、私はなんとなく感じていた。
「自分と向き合う」
「自分自身を理解する」
「自分につながる」
などの表現に、どことなく引っかかるものを感じていた。

また、だれかに共感し、つながろうとするとき、
「相手に向き合う」
「相手の感情とニーズにスポットをあてる」
「相手を受け取ることに集中する」
ということを心がけるのだが、そこにもなんとなく違和感を覚えていた。

最近、その違和感の原因が明確になった。
それは「向き合う」という姿勢がなんらかの理由によって苦手だということだ。

縁側の話にもどるが、いつもそこにいて話を聞いてくれる母も祖母も、けっして私とは向き合っていなかった。
彼女たちはただ自分のことをしていて、しかし同時にこちらにも耳を傾けていて、どちらも積極的な感じはどこにもなかった。
自分のことをするのも、私の話に耳を傾けるのも、ついでにいえば遊んでいる私を見守るのも、積極的にではなく、自然に、ごくふつうにおこなっていた。
そのことが私を安心させていたのだ。

共感的コミュニケーションにおいて、もっと自然に、ふつうに人と人がつながって安心しあえる関係を持つことはできないだろうか。


編み物にもどる。
私が編み物(かぎ針)をはじめたのはわりと最近で、たぶん五、六年くらいしかたっていない。
男が、とめずらしがられることもあるが、最近は編み物男子も増えてきたらしい。
また、私の母は編み物をはじめ、和裁、洋裁、日本人形など、手先が器用な人で、おさない頃からそういうものに親しんでいた。
なので、抵抗なく、なんとなく編み物をはじめた。

はじめてみるとおもしろくて、我流だけど本を見ながら、あるいはYouTubeを参考にしながら、いろいろなものを作ってみた。
最近は帽子や網バッグ、スマホポシェットなどをよく作るが、たのまれてアクリルたわしもたくさん作った。
これは単純な模様編みで、ほとんどなにもかんがえなくてもどんどん編める。
単純作業なので、編みながらラジオや音楽を聴いたりする。
じんわりと楽しい時間だ。

私はこの時間を、時々「お祝い」の時間にあてている。
満たされたニーズを振り返って味わう時間だ。

編み物をしながら人の話を聞くこともできる。
共感カフェのとき、編み物しながら参加者の話を聞くこともある。

あるとき、共感カフェで編み物していたら、びっくりされた。
人の話を共感的に聞くというのは、その人にきちんと向かい合い、話を完全に受け取り、集中して感情とニーズに注意を向けることだと、その人は習ったというのだ。
たしかにそのとおりで、私もかつてはそう思っていたし、そのように聞こうと努力していたこともある。
しかし、あるときから、そんなにがんばって聞こうとしても受け取れないし、逆になにか大事なものを受け取りそこなうこともある、また相手にとってもそんなふうに全力で聞かれるのは一種のプレッシャーになるのではないか、と思いはじめて、がんばって聞くことはやめた。

そして最近、縁側にいた母や祖母のことと、自分が楽しんでいる編み物が結びついた。
編み物をしている自分は、たしかにそこにいて、自分につながっている。
編み物に熱中してほかのことに気づかないわけではなく、まわりのようすもゆるやかに受け取っていて、人が話をしていたらなんとなくそれを聞いている。
話の内容だけでなく、その人のようすも感じている。
ことばの情報と、その人から発せられる感情や雰囲気も「取りに行く」ではなく、自然に受け取っている。

この体感覚が私にはとてもしっくりくる。
編み物をしながら人の話を聞くとき、とても自然に共感が生まれ、相手も気楽に話したり、結果的に自分のニーズに気づいたりできる。
まさに縁側的共感といえる。

というわけで、共感編み物カフェを企画した。
編み物カフェは世の中にすでにたくさんあって、私も国立の富士見通りにある〈アブサラクリコ〉の会員なのだが、これはあくまで「編み物」が目的。
編み物の技術の上達や、作品を完成させることが目的。
共感編み物カフェは、それもあるけれど、同時に共感的に話を聞いたり、ただ安心してそこにいたり、居合える(変なことばだけど)ことを楽しんだり、を目的とする。
興味がある方は気軽においでください。


1月31日:共感編み物カフェ@国立春野亭(オンライン参加可)
編み物をしながら、お茶を飲みながら、ゆるく共感しあう場。まるで昭和の家の縁側のような安心できる居心地となる予定です。編み物ができない人ややりたくない人も歓迎。午後3時から8時まで、出入り自由。