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2017年6月19日月曜日

実効性が高い身体的共感練習

韓氏意拳という武術に取り組むようになってもっとも強烈にショックを受けたことがある。
それは、いかに自分が自分の身体のことを「知っているつもり」「コントロールできているつもり」であるか、ということだ。

子どものころから自分の身体を含む「生き物」に関心があって、さまざまな興味や好奇心で探求しつづけてきた。
生き物をたくさん飼ったりしたのもそのせいだし、中学生のころにはヨガにはまって自分なりに修行じみたことをやったりした。
おかげで、息こらえで4分以上息を止めていられるようになった(いまはどうだろう?)。

ピアノを弾いてきたので、その過程で身体、腕、手、指のコントロールの鍛錬をつづけてきた。
ハノン練習曲集やチェルニー練習曲集はそのための挑戦のためにやったし、しだいにできるようになっていくのも苦しいながらに楽しい面もあったのは確かだった。

一方、武術はいうまでもなく、自分の生死を賭する場面を想定した稽古をおこなう。
その際、「つもり」はそのまま「隙《すき》」につながる。
その隙は敵に差しこまれて、こちらの「負け」つまり「死」となる。

稽古を重ねるうちに、自分の隙よりも相手の隙のほうが先に見えてくる。
自分ができていること、できていないことがすこしわかってくると、それができていない相手のことがよく見えるのだ。
囲碁の勝負の世界で「岡目八目《おかめはちもく》」ということばがあるが、自分のことより人のことのほうがよく見える、ということだ。

自分の隙もわかるようになってくると、愕然《がくぜん》とする。
自分の身体がどれほど見えていなかったか、身体がいかにバラバラになっているか、いかに身体へのまとまりや注目がうわずって足まで降りていないか、そしていかに思考ばかり先行して体認ができていないか。

武術においてもっとも隙が大きくなるのは、観念が先行するときだ。
こうすればああなるはずだ、という思考や型、形、やりかたをすこしでもなぞろうとしたとき、こちらは「死に体《たい》」となる。
観念は感覚を奪う。
生きた体「活体《かったい》」でいるためには、観念の世界をはなれ、思考を手ばなし、感覚体でいつづける必要がある。

これを別のことばでマインドフルネスとか「気づきのある状態」ということもできる(一般的イメージよりずっと濃い世界だが)。
このとき、まぎれようもなく、自分の「ニーズ」が浮き彫りになる。

共感的コミュニケーション(NVC)では「ニーズ」につながることを大事にするが、武術の世界ではそれはわざわざつながるものではなく、極限状況においていやがおうもなく浮き彫りになってくるものだ。
極限状況を想定した稽古において、それはおのずと浮かびあがってくる。
実感としてはニーズが「発生」してくる、といってもいいかもしれない。
ニーズは韓氏意拳の「意」に似ていると私はとらえている。

ニーズ=意が発生すると、いやがおうもなく身体はそれに応じようとする。
かんがえる間もなくそちらに向かって動く。
タイムラグはとても短い。

これらの稽古は困難をともなうが、有効性が高い。
自分とつながること、相手とつながること、こういったコミュニケーションの世界においても、観念にとらわれないために身体感覚はとても重要で、有効だと実感している。
身体をともなわない共感練習は実効性が低いといわざるをえない。

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