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2016年5月5日木曜日

つい人の顔色をうかがってしまう

なにごとをするにも他人の顔色など気にならない、という人はこの項を読む必要はありません。
私もそうですが、自分ひとりではなく、だれか相手がいたり、あるいは何人かが集まっていたり、もっと多くの集団のなかにいたりするとき、つい人の顔色をうかがってしまうことがあります。
「この人の機嫌をそこなわないようにしよう」
「いまいったことで怒らせちゃったかな」
「この人は私のことを気にいってくれたみたいだ」

日本人はとくに他人の顔色をうかがう傾向が強いといわれています。
それはときに「空気が読めない」などという非難のことばをともなって、同調圧力となって私たちを窮屈にします。
みんなが楽しんでいるときには自分も楽しんでいるふりをする、みんなが怒っているときには自分も怒ってみせる。
集団でなくても、個人間でもそれは起こります。

ちいさな子どもは親の顔色をうかがいます。
顔色をうかがうというとことばの印象がわるいのですが、親にいまどんな感情があらわれているのか、こちらを気にしてくれているのか、あるいは気がつかずにいるのか、という情報を読む能力は、おさない子どもにとって生存を左右する重大事項です。
なので、人間は日本人にかぎらず、まずもっとも身近な存在である母親、父親の顔色を読む能力を身につけ、それをしだいに兄弟、親族、近隣の大人、子どもどうし、コミュニティ全体へと拡張していきます。
そしてたえず、その能力をみがきながら成長していきます。
それは、人間が社会的動物であり、社会性を身につけることで生存することを許される社会に生きているからです。

しかし、ときに過大な社会性は、自分のニーズを抑圧し、いきいきした行動を阻害することがあります。
なんらかの自分のニーズがあり、それを純粋に満たそうと行動するとき、
「ちょっと待て。いま、まわりはどんな感じなのか?」
と、行動を抑制することがあります。
さらに行動をつづけようとしても、相手や周囲の「期待」や「空気」にこたえようとして、自分の行動を変えたり、ゆがませることがあります。
そうなると、もう純粋にニーズにつながった行動とはいえなくなります。

人の顔色をうかがうあまり、自分ではなにもできなくなってしまう人もいます。
命令や指示がなければ動けない、動かない人もいます。
自分の意思やニーズでいきいきと行動している人には、ねたみややっかみが向けられることもあります。
すべての人がお互いの顔色をうかがい、おなじように窮屈にちまちまと行動している社会。
これを「同調圧力の強い社会」といいますが、いまの日本はその傾向が強くなっています。
そのような社会は楽しいでしょうか。

なにより子どもや若い世代の人たちがのびのびと成長できないのはかわいそうなばかりでなく、いずれ社会の衰退をまねくのは明らかです。
すべての人がいきいきと自分のニーズにつながって行動し、そのことが尊重され、対立やトラブルが起こったら懲罰を受けるのではなく「修復」を試みられる社会、それが共感的コミュニケーションもしくはNVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)がめざしている社会です。
まずは身近なところからそれをはじめてみようとしている仲間が、私のまわりにはたくさんいます。

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