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2016年5月29日日曜日

子どもや恋人に甘えられるとムカつくことがある

自分の子どもが道で転んで、泣きだしたとき、親は怪我がないか心配になります。
傷がないか、痛みはどうなのか、最初は心配して子どもをいたわりますが、たいしたことないと判断するとあとはあまりかまいたくなくなります。
それなのに、子どもは相変わらず「いたいよーいたいよー」と訴えつづけることがあります。
明らかに甘えている、という判断をして、その甘えがとてもわずらわしく感じて、冷たく突きはなすこともあります。

怪我もしてないし、もうたいして痛くもないのに、痛みをうったえつづける子どもは、なにを必要としているんでしょうか。
それを「甘え」という言葉でジャッジするのは、社会的な制裁に近いと私はかんがえています。

「甘え」「ねたみ」「逆恨み」といった、ある種の社会的ジャッジを含む言葉がたくさんあって、それを親やパートナーが使うとき、そこには制裁の色あいが含まれることがあって、注意が必要です。
自分の判断ではなく、社会的価値基準という、いわば「外部の正義」の力を借りて、相手に制裁を加えているのです。

自分がそのような社会的制裁言語を用いようとしていることに気づいたとき、それを共感的な言語に翻訳できないか、試みてみる必要があります。
子どもが「甘え」ているように見えるとき、そこにはどのようなニーズがあるのでしょうか。

子どもは親に自分の痛みをきちんと理解してもらいたいのでしょうか。
もっと向かいあっていたわってほしいのでしょうか。
つながりの質を確認したいのでしょうか。

子どもはいつも、親とのつながりを必要としていて、それがうしなわれると恐怖をおぼえます。
つながりがうしなわれないようにいつも懸命につながろうとしているのです。
それがひょっとして過剰な「甘え」という行動をとらせてしまっているのかもしれません。

親ができるのは、過剰に甘えなくても(依存しなくても)、いつもつながっているよ、いつでもきみを見守っているよ、という安心を子どもに保証してあげられることかもしれません。

親の側にもニーズがあります。
こちらもまた、子どもとのつながり、守り育てること、強いニーズがあります。
だから、子どもが甘えてきたとき、そのニーズを聞き、こちらも自分のニーズにしたがっていつでもつながりの質を保ちたいのです。
それなのに、わずらわしく感じて、子どもを遠ざけるような態度をとってしまうのはなぜでしょうか。

そのときひょっとして、自由や、自分が選択肢を持つことのニーズがこちらにあるのかもしれません。
もちろん子どもを守りたい、つながりたいというニーズもあるけれど、そのなかで子どもが自立して成長し、過剰に他人に依存しない人間になってほしい、そのことが親の安心だという気持ちがあります。
子どもの安全が確保されていることが確認したとき、親は子どもの自立を願い、こちらの自由と選択を子どもにも尊重してもらいたい、という気持ちがはたらいているのかもしれないですね。

恋人同士や夫婦関係でも、このようなニーズのあらわれは起こります。
おたがいにそのニーズを見て、受け入れたり聞き合うことができるかどうか、お互いのニーズを尊重しあうことができるかどうか、そのことによってつながりの質はずいぶんと変わるでしょう。

親密な関係における共感的コミュニケーションの勉強会(6.14)
共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を6月14日(火)夜におこないます。